2ntブログ
2024年09月 / 08月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫10月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
EDIT  |  --:--  |  スポンサー広告  |  Top↑

2008.02.11 (Mon)

浅田次郎の『カッシーノ!』を読む

s-IMG_0101.jpg


 この『カッシーノ!』という本は、作家の浅田次郎が今から7、8年前、ヨーロッパの各地のカジノを回って奮戦した紀行エッセイである。浅田次郎は自衛隊にいた経験も持つ風変わりな直木賞作家であるが、平成の泣かせ屋と異名をとるほど彼の小説は人々を虜にする。『蒼穹の昴』『鉄道員』『シェエラザード』『壬生義士伝』『中原の虹』等の小説を読んで、ファンになられた方も多いと思う。でも何故に浅田次郎がギャンブル奮戦紀なるものを書いたのか理解に苦しむ諸氏も少なくなかろう。あれだけの文学作品を残すような立派な人が、ギャンブル如きにうつつをぬかすとはと、目くじらをたてられるかもしれない・・・。それが日本人の一般的な良識というものだから仕方が無いが、浅田次郎が何故にここまでギャンブルに夢中になるのかを説いた本が、この紀行エッセイである。でも余り頭の柔軟でない方には薦められない本でもある。ただ、この『カッシーノ!』を読むと、ギャンブルに熱中する浅田次郎の行いに理解できない人もいるだろうが、共感できる人も同様にいるだろうと思う。そもそもギャンブルいうのはどういうものなのかという分析に始まって、彼独自の考察が含まれている。だから単にギャンブルの紀行文というだけではなく、そこには各国の文化、哲学、習慣等に及ぶ幅広い視点から見た比較論なるものも展開されていて、実に興味深い読み物となっている。

 それでは、さっそくであるが、浅田次郎がギャンブラーというものはどのようなものか考察している。それは根っからの投機的性格を持ち、勝とうが負けようが生涯その道を捨てず、ギャンブルを趣味としてではなく仕事としてでもなく、信仰としている人のことをいう。だから賭博者は芥川龍之介がいうように、偶然すなわち神と対峙するものは常に神的威厳に満ちているという。そんなギャンブラーだからカジノの聖地モナコへ乗り込めるのである。そこには日本のパチンコ店の雰囲気ではなく、気位の高さがある。そんな中へ敢然と日本の典型的親父である浅田次郎が臨んだのである。

 そこで浅田次郎がいうところの博才とは何か・・・・。

 其の1、金勘定が出来るか否か。金銭管理能力が無い者はただお金を減らすだけである。
 其の2、基本的性格において冷静沈着であること。熱しやすく冷めやすいタイプは身上を潰すだけである。
 其の3、生まれ持った運の強さを持っている。天性の運の強さを持ってないといけない。

 以上のうちで一つでも該当していたらギャンブルを楽しむべきであり、二つ該当していたら数少ない勝ち組になれ、三つ該当していたら世界カジノ行脚に出てもよいらしい。

 こうして浅田次郎はモナコから始まって、ニース、カンヌ、サン・レモ、バーデン・バイ・ヴィーン、ゼーフェルト、ロンドン、ノルマンディー、ヴィースバーデン、バーデンバーデン・・・国で言うとモナコからスタートしてフランス→イタリア→オーストリア→イギリス→フランス→ドイツと回っている。さて、この間の珍道中、彼なりのアイロニーとペーソスが十分込められていて面白い。巨大なるスロットマシーンとの格闘、カードゲーム、ルーレット、挙句の果てはドーヴィルでの競馬。浅田次郎という人は生まれつきのギャンブラーかもしれない。自身、私の趣味は1にギャンブル、2に温泉、3に音楽鑑賞という。本人曰く、それ以上に読み書きが好きだが、これはなりわいとなってしまって趣味の範疇ではないという。だから仕事を離れ、この世でおよそ能うかぎりの極楽を体現するとなれば、何処かの温泉場で名曲を聴きつつバクチを打つことだという。・・・うーん、驚いた。私も競馬は好きで観戦歴40年以上、馬券歴35年以上なるが(いったい何歳で馬券を買っていたのだろうか・・・・時候だからお許しを)、ここまで好きではない。

 浅田次郎のお祖父さんは、菊花賞のグリーングラスの単勝馬券(1976年の菊花賞。人気が無く大穴だった)を握って死に、お父さんは京王閣(東京の調布にある競輪場)のスタンドで倒れた。従って彼も何処かのカジノのテーブルで血を吐いてくたばるであろうと考えている。だから彼の祖先の遺伝子がそうさせるのかもしれないが、高校生の頃、浅田次郎は欲望に駆られて後楽園の競輪場へ行き、そこで親子三代ハチ合わせという悲劇に見舞われたという話は傑作である。学校に行っているはずの孫と、仕事に行っているはずの父と、ちょっくらタバコを買いに行っていた祖父とが、同じ穴場の窓口に並んだから驚いてしまう。おそらく堅物の両親から生まれた家庭では、バクチなどやる奴はロクな奴じゃないと思われるかもしれない。読んでいて不謹慎な一家だと・・・・・。それが日本人というものであり、一般的な良識というものであろう。でも、私の両親も生真面目で堅物であったが、私は小学生の頃から、競馬中継を観ていたという変わり者ではあった・・・・。
                                

【More・・・】

 さて、そんな中で浅田次郎は独自のギャンブル論を展開するのである。それによると、~~ヨーロッパで庶民が集まるカジノが出現したのは産業革命以降のことで、動力機械の登場によって、それまでは食うためにだけ働き続けねばならなかった大衆が、余分な時間と金を持った。暇と金があると人間はロクでもないことを考える。それで始まったのが博打である。でもこういうものは弾圧と規制の対象になる。人間は元来、時間と暦に追い立てられながらも額に汗をして金を稼ぐべきである。ところが、ギャンブルは、けっして労働とはいえぬ遊戯によって、金のやりとりをする。これを規制せずして、まともな社会を維持できようはずがない。しかし、人間には射幸心があり、少なくとも働くより遊ぶことの方が楽しいに決まっている。如何に厳しい規制を加えたところでギャンブルを根絶やしに出来るはずはなかった。法と娯楽のイタチごっこが長く続く後に、『いっそのことカジノを公設にして、テラ銭を取ったらどうだ」と考えた奴がいた。こうして生まれたのがカジノなのである。

 そもそも政治家というものは古今東西、保身のかたまりであるから、発想のコペルニクス的転回を禁忌とする。必ず現状において利益ばかり考える。すなわち「いっそのこと」という言葉自体が禁句なのである。それで、コペルニクス的転回とはカントが『純粋理性批判』の認識論において、主観が客観に従うのではなく、逆に客観が主観に従い、主観が客観を可能にすると考えたことを、天動説から地動説へのコペルニクスの転向にたとえて自ら称した語である。ギャンブルを悪とするのは普遍的な主観であろう。「イタチごっこ」とはつまり、規制しきれぬ社会現象、すなわち社会的主観に、政治的主観が従属している姿をいう訳で、そんなバカバカしいことを続けるのなら、「いっそのこと」客観が主観に従うようにし、主観が客観を可能にする形を実現してしまえ、という訳で、あろうことかお上が胴元になったのである~~~と浅田次郎は分析している。カジノを公営化すれば、テラ銭は平等に社会還元できるのであり、庶民の欲望を公設カジノに吸収しておけば、カジノも徹底的に弾圧できるということである。つまり日本の公営ギャンブルも仕組みは同じなんだなあと思ってしまう。売り上げから控除率を引いて、それが国や県に吸収されるのである。ある意味では必要悪かもしれない。

 でも博打というのは、一局面の失敗で一生を棒に振る危険が潜んでいる。生半可な博才を自負する者は、たいてい何処かの局面でこの罠に陥る。この危険を巧に回避しながらゲームを持続するのが真の博打打ちで、すなわち勝ちに浮かれ上がったり、負けてカッとするタイプの人間ではこれができない。場に臨んで冷静沈着、それ以前に元々の性格が温厚篤実でなければ、長い博打人生を乗り切ることは叶わぬのである。ということは、日本人の多くは、博打に向いてないということが判る。そもそもパチンコ、麻雀、競馬、競輪、競艇、オートレース等で負けたからと言って、当り散らしたり「バカヤロー!」と絶叫する輩は、はなから博才の欠片もないことになる。だからこんな人は、今すぐギャンブル等をやめた方がいいのである。

 ところで、この本の最後の方でドストエフスキーのことが書いてある。世界的文豪ドストエフスキーは、ドイツのヴィースバーデンに3ヶ月滞在し、ギャンブルで大敗を喫したという伝説がある。ホテル代も払えず、飯も食えず、追い詰められた状態で書いた作品が『賭博者』であることはちとに有名である。この小説はギャンブルに嵌ってしまい、理性と良識を失った人間の心理をリアルに表現していて、どれほど読解力がある読者でも、ギャンブルに興味がなく、手を染めたことの無い人に、この小説は理解できないに違いないと浅田次郎は分析している。ドストエフスキーの小説は不条理の文学であるが、知性や理屈は建前であって、本質は理屈に合わない獣性に満ち溢れている。だから『賭博者』は最もあからさまなドストエフスキーの小説であるともいえ、小説家がギャンブルを素材として書いてたのではなく、賭博者ドストエフスキーがたまたま小説を書いたとするのが妥当ともいえると、浅田次郎は言う。

 確かにギャンブルは何たるかを知らない人には、その奥深い描写は理解したがたいものがある。これはギャンブルでどん底を見た者には共通点のある解釈ではあるが・・・・・。

 さて、日本という国ほど現在、本質的に豊な国は無い。何処にも良質な水があり、基本的に海山の幸に恵まれ、医療も教育も公平に享受できる。文句をいえばキリがないが、日本より貧しい国の方が圧倒的に多いのだから、そういうことになる。でも相変わらず労働は美徳であり、浪費は悪である。そして未だ遊びを罪悪と定めている。つまり労働のための必要悪である。何のために働くのか、物質文明に囲まれて、それなりの教育を受けて、それなりの職を得て、それなりの贅沢な暮らしをするのが幸せなのか、もっと基本的に生きるというのは何かということを、ある意味において考えさせられる一冊である。もっともギャンブルをやることは推奨できないが、ギャンブルを罪悪と考えている多くの日本人は、それなりのギャンブルの効能なりを考えてもよさそうである。でも先立つものは、やはりお金なんだなあ・・・・・・。貧乏人は基本的にギャンブルをやるものではないと思うから・・・・・。
                                
                                
EDIT  |  10:13  |   |  TB(0)  |  CM(1)  |  Top↑

*Comment

♪Facebookからリンクさせてもらいます。

もし、問題があれば削除します。お知らせください
中村芳子
http://www.facebook.com/Alpha.and.Associates
中村芳子 |  2012.05.14(月) 00:32 |  URL |  【コメント編集】

コメントを投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメントを表示
 

*Trackback

この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック

 | BLOGTOP |