2016.07.23 (Sat)
ポケモンGO配信開始
7月22日午前10時にとうとう日本でもポケモンGOの配信が開始されたみたい。そして最初の週末を迎えたが、繁華街に出るとスマートフォンを観ながら歩いている人の多いこと多いこと。予想できたことだがガラケーしか持ってない拙者からしたら何処が面白いのかな・・・・・。大阪の某所の一帯で観た光景だが、大勢が立ち止まってスマートフォンの画面を見入っている。あまり大勢いるから人を避けようと思っった時に画面が目に入った。どうやら現実の風景と携帯の画面がリンクしているではないか。なるほど、違うところは現実には見えないポケットモンスターが携帯の画面では現れると言うことか。そして赤い玉をモンスターに向けて飛ばす。命中するとゲットできるという仕組みか。そしてモンスターを集めて行くというゲームのようだが、さらに成長させ対戦も出来るという。ポケモン・ゲームのことはさっぱり判らないが、まあだいたいこういった内容なのだろう。ただポケモンで育った世代ではないので、やろうとも思わない。実際、ポケモンGOをやっている人は20年前に小学生だった人が多いのだろう。つまり20代、30代の人が中心になっているようだ。もっともそれ以上の年代でもゲーム好きはいるから、はまっている人もいるだろう。でもこのゲーム、一過性の物のような気がしないでもない。まあやったことないので語る資格もないのだが、色々とコンテンツを増やしていかないと飽きられないかなという気もする。モンスターばかりいくら収集したところで、それでどうなるのと言ってしまえば身も蓋もないが、今後、配信者側も色々な拡張配信して遊び方の方法を増やす展開をしていかないと数年もしたらやる人も減ってくるのではないだろうか。
まあ今のところはアジアでは日本だけのリリースらしい。今日、韓国人のグループがポケモンGOをやっていて失笑した。韓国では当分の間、配信はないらしいので、日本へポケモンGOをやりたいがために来日したという若者までいる始末。もっとも北朝鮮の国境に近い閑静なところでポケモンGOが配信されていることが判明しバスツアーを組んでソウルの若者が大勢やって来たと言うから、韓国でもポケモンGOに飢えている人もいるのだろう。だからといってはなんだが韓国国内では韓国発のポロロGOとかいうゲームを配信するという。韓国らしいと言えば韓国らしいが、ちょっと哀れな国民性に見えて仕方がない。今現在、配信国は日本を含め36ヶ国だから、これから世界中に配信を広めている間は廃れないだろう。ただ先に配信したアメリカやオーストラリア、ニュージーランド辺りの人は先にやり尽くしてしまい、新たなモンスター捜しのために海外へ旅に出て行くのだろうか。
どちらにせよ小生には全く関係のない話ではあるが、2016年を代表する社会現象であることは確かだ。でもスマートフォンを観ながら歩くから、今日、小生と身体がぶつかった若者がいた。やっぱり歩きスマホは危険である。自転車に乗りながらスマホの画面を観ていた連中もいた。どれだけ国が注意喚起してもやる奴はいるものだ。この現実を観ていると、小生、ガラケーしか持ってなくて良かったと思う。もしスマートフォンを持っていたら、興味本位でおそらくポケモンGOに手を出していたかもしれないから。
まあ今のところはアジアでは日本だけのリリースらしい。今日、韓国人のグループがポケモンGOをやっていて失笑した。韓国では当分の間、配信はないらしいので、日本へポケモンGOをやりたいがために来日したという若者までいる始末。もっとも北朝鮮の国境に近い閑静なところでポケモンGOが配信されていることが判明しバスツアーを組んでソウルの若者が大勢やって来たと言うから、韓国でもポケモンGOに飢えている人もいるのだろう。だからといってはなんだが韓国国内では韓国発のポロロGOとかいうゲームを配信するという。韓国らしいと言えば韓国らしいが、ちょっと哀れな国民性に見えて仕方がない。今現在、配信国は日本を含め36ヶ国だから、これから世界中に配信を広めている間は廃れないだろう。ただ先に配信したアメリカやオーストラリア、ニュージーランド辺りの人は先にやり尽くしてしまい、新たなモンスター捜しのために海外へ旅に出て行くのだろうか。
どちらにせよ小生には全く関係のない話ではあるが、2016年を代表する社会現象であることは確かだ。でもスマートフォンを観ながら歩くから、今日、小生と身体がぶつかった若者がいた。やっぱり歩きスマホは危険である。自転車に乗りながらスマホの画面を観ていた連中もいた。どれだけ国が注意喚起してもやる奴はいるものだ。この現実を観ていると、小生、ガラケーしか持ってなくて良かったと思う。もしスマートフォンを持っていたら、興味本位でおそらくポケモンGOに手を出していたかもしれないから。
2016.07.18 (Mon)
ポケモンGOとやら
なんだかポケモンGOという配信ゲームが世界中で大ブームだという。テレビゲームとかパソコンのゲームとかに疎い小生には何のことかさっぱり判らないが、アメリカ等のポケモンGOが先行して配信された国々では大騒ぎになっているらしい。
そもそもポケモンとはポケットモンスターという任天堂が開発したゲームだということは知っている。そしてアニメにもなり世界中で放映され、ピカチュウーを始めとしてキャラクターが世界中で人気になったことも知っている。かれこれ20年前になるのかな。しかし、ゲームそのものをほとんどやらなかった小生はよく判らない。世代の違いもあるが、ゲーム自体があまり好きではなかった。小生が若い頃にスペースインベーダーというゲームが流行っていたが興味も示さなかった。その後に任天堂がスーパーファミコンとかいうものを販売し瞬く間に広まったらしい。その後にソニーがプレイステーションを発売。これも世界中で人気を得た。それでもゲーム機など目もくれなかった。それがプレイステーション2が発売された時、どういうわけか小生も買った。それはゲーム目当てではなくDVDも観れると言うことで買ったのである。すると友人がソフトを貸してくれた。何のゲームだったかな。いくつかあったがはまる物もあった。競馬の競争馬を生産してダービー馬を育てるゲームなどは面白かった。ただ時間があっという間に潰れる。きりがない。休みの日をゲームだけで潰していたのかと考えたら急激に冷めてきた。なんだか時間の無駄に思えてきた。それにプレイステーション2が1年持たずに潰れた。そういうことでそれ以来ゲームとは無縁の生活を送っている。そこへ今回のポケモンGOである。
なんだかアメリカでは大変なことになっているようだ。配信ゲームなのでみんながスマートフォンをかざしながら街を彷徨うので、色々な現象が起きているという。事故を起こしたり、ぶつかったり、一箇所に人が集まりすぎてみんながスマートフォンの画面を観ている。なんとも異様な光景だ。
そもそも任天堂とアメリカのナイアンティックというヴェンチャー企業が共同開発した配信ゲームらしいが、ポケモンのキャラクターをゲットしにそこら中に人々が溢れ出したという。いったいどうなっているのやら。7月6日の初配信からアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド等では社会現象になり、その後、ヨーロッパの32ケ国で配信が始まり、これまた大変なことになっているとやら。
このソフトはとにかく外に出ないことには始まらない。テレビゲームというとほとんどが部屋の中で閉じこもったままになる。これでは引きこもりが増えるという事情から、開発者は引きこもりをなくし極力、外に積極的に出るようなゲームを作ろうと考えたようである。試みは成功しただろうが、想定外に人気が出てしまったということだろうか。なにしろアメリカでは開始一週間で利用者が6500万人。なんとアメリカの四人に一人が利用したことになる。つまりゲームをやらない老人や幼児を除けば、どいつもこいつもポケモンGOでモンスター捜しを行ったってことになる。これにより本家本元の任天堂の株が急上昇したというから世界的な社会現象なのだろう。
ただ面白いことにポケモンの発祥の地である日本ではまだ配信されてなくて、何時配信されるのかが話題になっている。それこそ配信され出すと、またモンスターを追いかけて、集まるところに人が集まるのだろう。いやはやおかしな光景が日本でも繰り広げられそうである。もっともガラケーしか持ってない小生にはなんの関係もない話だが、ポケモンGOに熱中したがあまり交通事故に巻き込まれたり、溝に落ちたり、犯罪に巻き込まれたりしないように、くれぐれもご用心。
いやはやこの21世紀になって想定外の物が出て来るものである。
そもそもポケモンとはポケットモンスターという任天堂が開発したゲームだということは知っている。そしてアニメにもなり世界中で放映され、ピカチュウーを始めとしてキャラクターが世界中で人気になったことも知っている。かれこれ20年前になるのかな。しかし、ゲームそのものをほとんどやらなかった小生はよく判らない。世代の違いもあるが、ゲーム自体があまり好きではなかった。小生が若い頃にスペースインベーダーというゲームが流行っていたが興味も示さなかった。その後に任天堂がスーパーファミコンとかいうものを販売し瞬く間に広まったらしい。その後にソニーがプレイステーションを発売。これも世界中で人気を得た。それでもゲーム機など目もくれなかった。それがプレイステーション2が発売された時、どういうわけか小生も買った。それはゲーム目当てではなくDVDも観れると言うことで買ったのである。すると友人がソフトを貸してくれた。何のゲームだったかな。いくつかあったがはまる物もあった。競馬の競争馬を生産してダービー馬を育てるゲームなどは面白かった。ただ時間があっという間に潰れる。きりがない。休みの日をゲームだけで潰していたのかと考えたら急激に冷めてきた。なんだか時間の無駄に思えてきた。それにプレイステーション2が1年持たずに潰れた。そういうことでそれ以来ゲームとは無縁の生活を送っている。そこへ今回のポケモンGOである。
なんだかアメリカでは大変なことになっているようだ。配信ゲームなのでみんながスマートフォンをかざしながら街を彷徨うので、色々な現象が起きているという。事故を起こしたり、ぶつかったり、一箇所に人が集まりすぎてみんながスマートフォンの画面を観ている。なんとも異様な光景だ。
そもそも任天堂とアメリカのナイアンティックというヴェンチャー企業が共同開発した配信ゲームらしいが、ポケモンのキャラクターをゲットしにそこら中に人々が溢れ出したという。いったいどうなっているのやら。7月6日の初配信からアメリカ、オーストラリア、ニュージーランド等では社会現象になり、その後、ヨーロッパの32ケ国で配信が始まり、これまた大変なことになっているとやら。
このソフトはとにかく外に出ないことには始まらない。テレビゲームというとほとんどが部屋の中で閉じこもったままになる。これでは引きこもりが増えるという事情から、開発者は引きこもりをなくし極力、外に積極的に出るようなゲームを作ろうと考えたようである。試みは成功しただろうが、想定外に人気が出てしまったということだろうか。なにしろアメリカでは開始一週間で利用者が6500万人。なんとアメリカの四人に一人が利用したことになる。つまりゲームをやらない老人や幼児を除けば、どいつもこいつもポケモンGOでモンスター捜しを行ったってことになる。これにより本家本元の任天堂の株が急上昇したというから世界的な社会現象なのだろう。
ただ面白いことにポケモンの発祥の地である日本ではまだ配信されてなくて、何時配信されるのかが話題になっている。それこそ配信され出すと、またモンスターを追いかけて、集まるところに人が集まるのだろう。いやはやおかしな光景が日本でも繰り広げられそうである。もっともガラケーしか持ってない小生にはなんの関係もない話だが、ポケモンGOに熱中したがあまり交通事故に巻き込まれたり、溝に落ちたり、犯罪に巻き込まれたりしないように、くれぐれもご用心。
いやはやこの21世紀になって想定外の物が出て来るものである。
2016.07.17 (Sun)
ダリ展に行く
このほど京都岡崎にある京都市美術館で開催中のダリ展に行ってきた。スペイン現代絵画の巨匠サルバドール・ダリって人気があるんだね。大勢の人でごった返していた。ダリって1989年まで生きていたから、その奇抜な風貌もよく目にしていた。とにかく太い眉にギョロ目、そして針金のように一直線に伸びているあの口髭。絵よりも先に顔が脳裏に焼き付いている。一見して個性が強い人なんだなあと想像する。画風もそうなんだがぶっ飛んだ人なんだろう。実情は知らないが・・・・。
小学校の頃、姉が持っていた画集の中に一枚のダリの絵を見つけたのが最初の出会いだった。懐中時計なんだろうか、布団のようにふにゃっと折れ曲がっていいる。金属のはずなのだが柔らかい溶けた飴のように台の上から半分垂れ下がっている。なんだこりゃと思った。この絵を見たときは衝撃だった。それはピカソの絵を見た時の印象とも違うもので、非常に興味深く感じたものである。それから月日が経ちダリの画集を姉が買ってきたことを思い出す。そして画集を捲るや奇妙な絵の連続。これは現実を超えてしまっている。それまでにピカソを始めブラックだとかマティスだとかミロだとかフォービズムだとかキュービズムだとかいった抽象画は知っていたが、それらとも違う奇々怪々な絵ばかり。それは当時少年だった小生には衝撃的な物ばかりであった。でも表現方法は写実的なのである。それでいて現実を超越していた。有り得ない現実を写実的に描いている。けしてピカソのような物体をデフォルメして再構築していると言ったような絵ではない。とにかく仰天する絵ばかりだった。それ以来、ダリという人物を知りたいと思いが募ったが、運良くまもなくテレビでダリの人物像なる番組を放映していて観ることが出来た。やはり予想通り奇人だった。こんな絵は凡庸な人では描けないだろうと思っていたから、それを裏切らない人であった。とにかく面白い。「ダリの作品はダリにも判らない」と冗談のようなことを平然という。あの口髭はどうなってるのかと聞かれ「水飴で固めている」と発言するなど、言うことも普通の人ではない。しかしこれは自分自身がアートであり、それを演じているようなところがある。なのでダリの人物像の本質が見えない。しかし本当に親しい人の中では繊細な気遣いを見せる常識人だったとも言われ、実際のところはよくわからない。
ところで今回のダリ展であるが、日本では10年ぶりに開催される本格的なダリ展だという。初期の作品からキュービズムに影響を受けていた時代から、ルイス・ブニュエルと共同で制作した映画『アンダルシアの犬』の映像展示。そして独自の道を行くシュールリアリストとしてのアート作品の数々。何か画集ではなく実際に大きな作品を生で鑑賞するとダリの絵は圧倒され、その奇抜さに飲み込まれてしまう。現実ではないことを克明に写実する。夢の中のことを現実で起こっているかのように表現する。彼には現実だの虚構など垣根はないのか。今回、油彩画、映像、宝飾品、書籍、スケッチ、水彩画等、多くの作品が網羅してあって、久しぶりにダリの真実に触れた気がする。でも彼の頭の中はさっぱり解明できない。ダリの関心事は精神分析を超えて量子力学、相対性理論まで及んだと言うから、絵の題材は世の中の見える範囲に留まってなかったのであろう。この世に見えない物が、彼には見えたのかもしれないと思えてくるのであった。
ダリのドキュメンタリー映像
2016.07.10 (Sun)
参議院の選挙日
この糞暑いときに参議院の選挙だって。しかし振り返ると7月ってよく統一選挙が行われているな。仕方なく投票場まで行ってきたけど、暑くて暑くて帰ってきたら汗だくになった。涼しいときなら良いけども暑いときの外出はあまりしたくない。ましてや投票のためだけに行くって何かバカらしく思う。まあ与えられた権限を棄権するのも癪だから行くけども、小生の投票が反映されたと感じたことはない。これが現実だ。それでも投票には行くのだが、若い人は投票に行かないらしいなあ。小生が初めて選挙に行ったのはもう40年も前だが、比較的に投票には行っていた。もっとも若いときは選挙期間中、出張とかも多く、必ず投票に行ったというのでもないが、自宅にいるときはほとんど投票していた。
ところで今回から18歳以上の人にも選挙権が与えられたが、果たして投票率はいかがなものだろうか。我々の時代と比べると冷めているというか政治に関心が薄いだろう。まあ自分一人が投票に行ったからって何も変わらないと考えると行く気もしないだろう。もっともせっかく選んだ議員や知事達が最近は簡単に公的資金を私的運用したりするので、若者が政治不信になるのも判らないでもない。選挙って政策で選ぶのか、それとも人で選ぶのか迷ってしまうところでもある。
ところで我が家はとある党からよく電話がかかってくる。今日も2回。「選挙に行かれましたか」「行きましたよ」「○○さんに入れてくれましたよね」「ハイ」
まあ煩いこと煩いこと、何時ものことだがその党に小生は投票したことがない。一応、ハイと言ってるだけで、揉めたくないから嘘の返事をしているだけである。若いときは党の支持者とよく意見をぶつけて論戦になったが、もうこの歳になると無駄な時間を潰したくないから口も方便で嘘を言っている。しかし熱心だね。いずれにせよ小生の政治信条からいって彼の党には入れたくない。拙者の嫌いな組織票の枠組には取り込まれたくない。そういう思いで投票に行く。つまり選挙ぐらい自分で選ばせてくれと言うことだ。
ところで今回から18歳以上の人にも選挙権が与えられたが、果たして投票率はいかがなものだろうか。我々の時代と比べると冷めているというか政治に関心が薄いだろう。まあ自分一人が投票に行ったからって何も変わらないと考えると行く気もしないだろう。もっともせっかく選んだ議員や知事達が最近は簡単に公的資金を私的運用したりするので、若者が政治不信になるのも判らないでもない。選挙って政策で選ぶのか、それとも人で選ぶのか迷ってしまうところでもある。
ところで我が家はとある党からよく電話がかかってくる。今日も2回。「選挙に行かれましたか」「行きましたよ」「○○さんに入れてくれましたよね」「ハイ」
まあ煩いこと煩いこと、何時ものことだがその党に小生は投票したことがない。一応、ハイと言ってるだけで、揉めたくないから嘘の返事をしているだけである。若いときは党の支持者とよく意見をぶつけて論戦になったが、もうこの歳になると無駄な時間を潰したくないから口も方便で嘘を言っている。しかし熱心だね。いずれにせよ小生の政治信条からいって彼の党には入れたくない。拙者の嫌いな組織票の枠組には取り込まれたくない。そういう思いで投票に行く。つまり選挙ぐらい自分で選ばせてくれと言うことだ。
2016.07.09 (Sat)
雨のち曇り
一昨日までは猛暑でどうしようもなかった。熱中症で病院に運ばれた人も多く、まだ梅雨も明けてないのにこの異常高温はどうなってるのと思ったが、どうやら台風の影響みたいだった。今年は珍しく台風の発生がなくて、今頃になって台風1号と言うから希有な年なんだろう。しかし、この台風が猛烈に強くなり一時期は900hPaまでに勢力を拡大したが、もう衰えてきて台湾を通過したみたいだが、今はどうなっているのかな。その台風が南からの暑い空気を持ってきたと思ったら、その後は雨をもたらした。さすがにあの暑さからは逃れたが蒸し暑いことに変わりはない。まさに梅雨特有の蒸し暑さである。猛暑は大嫌いだが、この湿気を含んだ暑さも身体に堪える。でもまだ7月の9日。本格的な夏はこれからだと思うとゾッとする。子供の頃は夏になると夏休みというものがあったから嬉しかったものだが、この歳になるとまた夏が来るのかと戦々恐々としてしまい、早く秋が来ないかなと願望する。食欲はさほど落ちてないから、まだ夏バテまではいってないのだろうが、あと二ヶ月は暑いだろうから要注意である。もう年々、歳をとっていってこれから先、病気もせず何時まで健康でいられるのだろうかと心配するようになった。やはり夏というのは年老いてくると季節としては大敵なんだろう。春秋のように心地よいこともないし、冬のように動くと身体が暖まってくるというのでもない。とにかく動けば動くほど汗が出るしなかなか止まらない。そして知らぬ間に脱水症状になる。これが問題なのである。したがって水分をこまめに摂取。そして睡眠といいたいのだが、これだけ夜中も暑いとスヤスヤと眠れない。なので何時も睡眠不足。これが問題だ。ホント金があれば夏が来るごとに北海道でも行って凌ぎ、秋の到来とともに戻ってくるという生活を送りたくなるが、貧乏暇なしの身としてはそうもいってられない。これからの老後のためにお金も必要となるし、これからの人生、一寸先は闇だし、出来る限り貯蓄をしてないと大変なことになりそうだし贅沢は言ってられない。国なんて全く当てにならないし、段々と庶民が住みにくい国になってきてしまった。
2016.07.01 (Fri)
50年前のこと(ビートルズ来日騒動)
今から50年前と言えば1966年(昭和41年)7月1日。ちょうどザ・ビートルズが来日公演中。6月29日の真夜中にビートルズの四人は羽田空港に現れた。日航の法被を着てタラップを降り立ったのである。この模様はこの日のニュースとしてテレビで放送していたし、その日の新聞の第一面に写真付きで記事になっていた。考えてみれば凄いことだったんだなって今になってみるとそう感じてしまう。今なら外国のロック・ミュージシャンが来日したからって、新聞の一面で採り上げられることもないし、異常なまでの警備でファンが誰一人近づけないということはないだろう。まるで国賓かVIP並の扱われかただった。ただし日本公演にこぎ着けるまでには波乱の連続で、識者を含めての大騒動となったものである。
外国で熱狂的な演奏活動を行っていたビートルズが来日公演を行うと決まったのは何時頃だろうか。当時、ガキだった小生は知るところではない。あの頃は、小生よりも高校生だった姉の方がビートルズに熱狂していた頃だ。小生が本格的にビートルズを聴くようになったのはサージェント・ペパーズ以降だから、ビートルズの曲は知っていたものの姉ほど熱中していたというものでもない。それがついにビートルズの来日公演が決定した。今調べてみると日本公演が正式に決定したのは二ヶ月前で、日本武道館で行うと発表されたのが一ヶ月前のようだ。でも当時、館長だった正力松太郎が「ペートルなんとかいうのは何者だ? そんな連中に武道館を使わせるわけにはいかん」という記事がサンデー毎日に掲載されたのである。またテレビの『時事放談』で細川隆元と小汀利得が「こじき芸人に武道館を使わせてたまるか」と発言。さらに「夢の島(ゴミ処理場)で演れ」「騒いでいるのはキチガイ少女ども」と言ったので、それにファンが反発。右翼もビートルズ来日反対運動を起こしたのである。ビートルズを推すファンと対立する大人や政治家、識者、教育者、右翼団体を巻き込み、考えてみたらとんでもないビートルズ騒動だったことがうかがえる。結局は正力松太郎が政治家や右翼団体を説得。警察庁にも国を挙げて警備してくれるように長官を口説いたという。このあたり正力松太郎の中にどのような変化があったのだろうか。今となっては判らない。
当時、日本武道館理事長だった赤松宗徳が「武道の殿堂であり、青少年の心身育成の場である武道館の使用は再三お断りしたのですが、主催者側はもとより、英国側からも重ねて強い要請があり諸処の情勢を検討した結果、使用を許可することにしました」と発表。これでビートルズの日本武道館公演が決定したのである。このバックには正力松太郎が動いたのであろうが、この頃の識者たちはビートルズが海外でどうなっているのか皆目、判らなかったということが判る。また日本では一部の若者達が騒いでいるが、どういった音楽を演っているのかも知らない大人達は多かった。また、そういう時代であった。それが前年、大英帝国で勲章を貰ったとかで、とんでもない若者達らしいということが徐々に認識され始めたのである。これはもしかすると大指揮者のカラヤン以上の人気を誇っているミュージシャンだと言うことを大人達がわかり始めたというか、とにかく大変な連中が来日すると言うことで大騒ぎに発展してしまったようだ。
こうしてビートルズは来日し、物々しい警備の中でホテルへ直行。彼等はホテルへ缶詰状態。6月30日、7月1日、2日の計5回の公演で5万人を動員した。コンサートはアリーナ席に人を入れず、ステージの前にも警官、客席にも警官が陣取り、客席から立ち上がることも許されない今では考えられないコンサートとなった。一度だけテレビ放送があり、それを姉と二人で観ていたのを思い出す。司会がE・H・エリックで、前座にブルー・コメッツ、尾藤イサオやドリフターズ、内田裕也とかが出演したが、テレビではビートルズの経歴だとかが紹介された後、30分の演奏を全編ノーカットでテレビ中継したもので間にCMは一切入れなかった。曲目は
1 .Rock And Roll Music
2 .She's A Woman
3 .If I Needed Someone
4 .Day Tripper
5 .Baby's In Black
6 .I Feel Fine
7 .Yesterday
8 .I Wanna Be Your Man
9 .Nowhere Man
10 .Paperback Writer
11 .I'm Down
の11曲。ところで、このときの映像は生中継だと思っていたのだが、どうやら7月1日の昼の公演の録画を、その日の夜に中継したみたいである。
翌日、学校に行くとビートルズの演奏の中継を観たという連中が多く、これまでビートルズに興味がない女生徒まで観ていたから驚いた。実に視聴率は56%。30代の教師まで「あんなん観たのか」と扱き下ろしていながら観ていたというから呆れる。考えてみたら社会的現象だったなあと実感するしかないが、まだこの頃のビートルズは、さほど音楽的に認められていたのでもなく、実際にはこの夏に公演活動をやめて、レコーディング活動のみを行うと発表してから彼等の音楽性、芸術性が認められるようになったものである。しかし、その後、名マネージャーのブライアン・エプスタインが死去し、四人の間に隙間風が入り出すようになる。ただの音楽的アイドルバンドから段々とプロのミュージシャン仲間にも認められる存在となっていき、この1966年以降のビートルズは以前のビートルズとは明らかに違っていた。もうファンに追いまくられ、公演で泣き叫ぶ少女達。こういった映像から違った所謂、アーティスティックなミュージシャンへと脱皮していった。出すレコードがシングル盤、LP盤にかかわらず、どれもこれも実験音楽的な要素を含み色々な試みを繰り返す。この頃のビートルズから触発され、彼等の後追いをやり出したミュージシャンも数え切れない。謂わば後半期のビートルズはファンの前にこそ姿を現さないが、やることなすこと全てが革命的であったし音楽的に認められていったのである。ただ各個人の活動も目立ちだし、発言力も以前とは違っていた。ジョン・レノンなどは政治的発言を口にするようにもなるし、初期のビートルズとはなにかが違っていた。
四人の間に亀裂が入るようになり、1969年に入ってその兆候が始まり、秋にアルバム『アビィ・ロード』の録音が終わる。これ以降、四人が揃ってレコーディング・スタジオに集まることはなかった。1970年の春、ポール・マッカートニーが事実上の解散宣言をする。ちょうど巷では『Let It Be』が流行っていた。なんか切なく聴こえる。
考えてみれば、今から50年前の武道館公演。あれがビートルズの転換期でもあり、ロック・ミュージックや日本の音楽の転換期でもあったような気がする。あれ以降、日本ではグループ・サウンズが流行、武道館でのコンサートは当たり前になる。洋楽の分野でも、よりジャンルが細かくなり色々な系統の音楽が散見されるようになり、また活発化したものである。ちょうど戦後生まれの世代が20歳を前後になり、世界中にスチューデントパワーが吹き荒れた。古い価値観が壊されていき、新しい文化が芽生えていた。ちょうど日本ではそういった時期にビートルズが来日した。高度成長期であり新しい物がなんか新鮮に感じた。
今となっては懐かしいビートルズ来日騒動だが、当時、まだ古い価値観が世間を支配していた。
あれから50年。早いようで長かったような気もする。小生はまだビートルズの歌も真面に歌えないガキだったのだが、今や初老のおっさんだ。今、振り返ってみると時代背景も何もかも変わってしまった。取り巻く環境も変わってしまった。あの当時、エレキの音楽を聴くと不良のレッテルが貼られた。今はそんなことを言う人はいない。高校で軽音楽部がありみんながエレキギターを弾いていて大会もある時代だ。あの頃のことを若い人に言ってもしょうがない。ああいった時代だったのだと。それは戦時中を潜ってきた人が小生に戦争体験を語るのと同じことである。ただあの当時、大人達から煙たく思われ毛嫌いされたビートルズが、今じゃ、音楽の教科書に載り、ジョン・レノンの語録が本になり、今でもポール・マッカートニーの曲は聴き続けられているという現実がある。そういった事実を考えると。あの50年前のビートルズの来日公演は、商業音楽史上においては、とんでもない出来事だったんだなと痛感する思いである。
当時のニュース映像
ビートルズ公演を観た三島由紀夫と遠藤周作の感想
49年ぶりに武道館でコンサートをするポール・マッカートニー。何と2曲以外はビートルズ時代の曲ばかり演奏。最後の曲が『アビィ・ロード』B面最後の曲で”The End”で締めくくるとは。
外国で熱狂的な演奏活動を行っていたビートルズが来日公演を行うと決まったのは何時頃だろうか。当時、ガキだった小生は知るところではない。あの頃は、小生よりも高校生だった姉の方がビートルズに熱狂していた頃だ。小生が本格的にビートルズを聴くようになったのはサージェント・ペパーズ以降だから、ビートルズの曲は知っていたものの姉ほど熱中していたというものでもない。それがついにビートルズの来日公演が決定した。今調べてみると日本公演が正式に決定したのは二ヶ月前で、日本武道館で行うと発表されたのが一ヶ月前のようだ。でも当時、館長だった正力松太郎が「ペートルなんとかいうのは何者だ? そんな連中に武道館を使わせるわけにはいかん」という記事がサンデー毎日に掲載されたのである。またテレビの『時事放談』で細川隆元と小汀利得が「こじき芸人に武道館を使わせてたまるか」と発言。さらに「夢の島(ゴミ処理場)で演れ」「騒いでいるのはキチガイ少女ども」と言ったので、それにファンが反発。右翼もビートルズ来日反対運動を起こしたのである。ビートルズを推すファンと対立する大人や政治家、識者、教育者、右翼団体を巻き込み、考えてみたらとんでもないビートルズ騒動だったことがうかがえる。結局は正力松太郎が政治家や右翼団体を説得。警察庁にも国を挙げて警備してくれるように長官を口説いたという。このあたり正力松太郎の中にどのような変化があったのだろうか。今となっては判らない。
当時、日本武道館理事長だった赤松宗徳が「武道の殿堂であり、青少年の心身育成の場である武道館の使用は再三お断りしたのですが、主催者側はもとより、英国側からも重ねて強い要請があり諸処の情勢を検討した結果、使用を許可することにしました」と発表。これでビートルズの日本武道館公演が決定したのである。このバックには正力松太郎が動いたのであろうが、この頃の識者たちはビートルズが海外でどうなっているのか皆目、判らなかったということが判る。また日本では一部の若者達が騒いでいるが、どういった音楽を演っているのかも知らない大人達は多かった。また、そういう時代であった。それが前年、大英帝国で勲章を貰ったとかで、とんでもない若者達らしいということが徐々に認識され始めたのである。これはもしかすると大指揮者のカラヤン以上の人気を誇っているミュージシャンだと言うことを大人達がわかり始めたというか、とにかく大変な連中が来日すると言うことで大騒ぎに発展してしまったようだ。
こうしてビートルズは来日し、物々しい警備の中でホテルへ直行。彼等はホテルへ缶詰状態。6月30日、7月1日、2日の計5回の公演で5万人を動員した。コンサートはアリーナ席に人を入れず、ステージの前にも警官、客席にも警官が陣取り、客席から立ち上がることも許されない今では考えられないコンサートとなった。一度だけテレビ放送があり、それを姉と二人で観ていたのを思い出す。司会がE・H・エリックで、前座にブルー・コメッツ、尾藤イサオやドリフターズ、内田裕也とかが出演したが、テレビではビートルズの経歴だとかが紹介された後、30分の演奏を全編ノーカットでテレビ中継したもので間にCMは一切入れなかった。曲目は
1 .Rock And Roll Music
2 .She's A Woman
3 .If I Needed Someone
4 .Day Tripper
5 .Baby's In Black
6 .I Feel Fine
7 .Yesterday
8 .I Wanna Be Your Man
9 .Nowhere Man
10 .Paperback Writer
11 .I'm Down
の11曲。ところで、このときの映像は生中継だと思っていたのだが、どうやら7月1日の昼の公演の録画を、その日の夜に中継したみたいである。
翌日、学校に行くとビートルズの演奏の中継を観たという連中が多く、これまでビートルズに興味がない女生徒まで観ていたから驚いた。実に視聴率は56%。30代の教師まで「あんなん観たのか」と扱き下ろしていながら観ていたというから呆れる。考えてみたら社会的現象だったなあと実感するしかないが、まだこの頃のビートルズは、さほど音楽的に認められていたのでもなく、実際にはこの夏に公演活動をやめて、レコーディング活動のみを行うと発表してから彼等の音楽性、芸術性が認められるようになったものである。しかし、その後、名マネージャーのブライアン・エプスタインが死去し、四人の間に隙間風が入り出すようになる。ただの音楽的アイドルバンドから段々とプロのミュージシャン仲間にも認められる存在となっていき、この1966年以降のビートルズは以前のビートルズとは明らかに違っていた。もうファンに追いまくられ、公演で泣き叫ぶ少女達。こういった映像から違った所謂、アーティスティックなミュージシャンへと脱皮していった。出すレコードがシングル盤、LP盤にかかわらず、どれもこれも実験音楽的な要素を含み色々な試みを繰り返す。この頃のビートルズから触発され、彼等の後追いをやり出したミュージシャンも数え切れない。謂わば後半期のビートルズはファンの前にこそ姿を現さないが、やることなすこと全てが革命的であったし音楽的に認められていったのである。ただ各個人の活動も目立ちだし、発言力も以前とは違っていた。ジョン・レノンなどは政治的発言を口にするようにもなるし、初期のビートルズとはなにかが違っていた。
四人の間に亀裂が入るようになり、1969年に入ってその兆候が始まり、秋にアルバム『アビィ・ロード』の録音が終わる。これ以降、四人が揃ってレコーディング・スタジオに集まることはなかった。1970年の春、ポール・マッカートニーが事実上の解散宣言をする。ちょうど巷では『Let It Be』が流行っていた。なんか切なく聴こえる。
考えてみれば、今から50年前の武道館公演。あれがビートルズの転換期でもあり、ロック・ミュージックや日本の音楽の転換期でもあったような気がする。あれ以降、日本ではグループ・サウンズが流行、武道館でのコンサートは当たり前になる。洋楽の分野でも、よりジャンルが細かくなり色々な系統の音楽が散見されるようになり、また活発化したものである。ちょうど戦後生まれの世代が20歳を前後になり、世界中にスチューデントパワーが吹き荒れた。古い価値観が壊されていき、新しい文化が芽生えていた。ちょうど日本ではそういった時期にビートルズが来日した。高度成長期であり新しい物がなんか新鮮に感じた。
今となっては懐かしいビートルズ来日騒動だが、当時、まだ古い価値観が世間を支配していた。
あれから50年。早いようで長かったような気もする。小生はまだビートルズの歌も真面に歌えないガキだったのだが、今や初老のおっさんだ。今、振り返ってみると時代背景も何もかも変わってしまった。取り巻く環境も変わってしまった。あの当時、エレキの音楽を聴くと不良のレッテルが貼られた。今はそんなことを言う人はいない。高校で軽音楽部がありみんながエレキギターを弾いていて大会もある時代だ。あの頃のことを若い人に言ってもしょうがない。ああいった時代だったのだと。それは戦時中を潜ってきた人が小生に戦争体験を語るのと同じことである。ただあの当時、大人達から煙たく思われ毛嫌いされたビートルズが、今じゃ、音楽の教科書に載り、ジョン・レノンの語録が本になり、今でもポール・マッカートニーの曲は聴き続けられているという現実がある。そういった事実を考えると。あの50年前のビートルズの来日公演は、商業音楽史上においては、とんでもない出来事だったんだなと痛感する思いである。
当時のニュース映像
ビートルズ公演を観た三島由紀夫と遠藤周作の感想
49年ぶりに武道館でコンサートをするポール・マッカートニー。何と2曲以外はビートルズ時代の曲ばかり演奏。最後の曲が『アビィ・ロード』B面最後の曲で”The End”で締めくくるとは。
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