2013.07.26 (Fri)
退院しました
ようやく退院にこぎつけた。1ヶ月半ぐらい入院していたのかな。生涯で初めての入院で本当に長かったし辛かった。入院の頃はまだ梅雨の最中だったのに、退院するとすっかり真夏になっていて暑いこと暑いこと。これでは身体の方がついていけないな。退院してくるなり身体の方が全く対応できないでいる。発汗が凄くて水分ばかり摂る状態である。それに体力の方も衰えているようだ。とくに持続力に問題があるようだ。
そもそも6月の10日にふらふらするのでおかしいなあと思い病院に検査を受けに行ったら即入院だった。すぐにMRIで調べてもらったら脳幹梗塞だという。頭の天辺の方に薄い小さな小豆大ほどの影が見つかった。顔の左顔面に症状が出ていて、右手と左脚が熱を感じにくく、それ以上に困ったのは嚥下障害になったことである。それで即日入院でいきなり点滴を2本を2週間つけっぱなしというからとんでもない環境下に陥ってしまった。1日点滴を8時間ごとに入れ替えるので、寝るときも昼間も繋ぎっぱなしだからどうしようもない。点滴台から2袋ぶら下げて点滴台を押して移動させる毎日。あいにく軽度だったので言語障害もないし身体に麻痺もない。ただ嚥下障害で食べ物が摂取できないという切実な問題にぶち当たったのである。入院した当初は唾も飲み込めないという最悪な状況であった。それで簡単な訓練で水ぐらいは飲めるようになり、そこで与えられたのがアイソカル2Kという大豆味の栄養補助食品。所謂、紙パックに入っている飲料水のような流動食である。200mlほどの紙パックなので普通のジュース位の大きさであるが、カロリーは400キロカロリーもあるので、これを1日3回していれば生きてはいけるといわれホッとしたのである。そして朝、昼、晩と3食ともしばらくは流動食で毎日腹が減って腹が減ってどうしようもない。何しろ嚥下障害で食道が開かないから器官に入ってしまうので食べられない。それでどんなリハビリを行うかと言うと、これがまた奇妙というかどういったらいいのか。直径5ミリくらいのゴムの管を飲むのである。ただし器官入れてはいけないのでゴム管を咽喉に入れていき咽喉に当たったと感じたら唾と共にゴクンと飲み込むのである。しかし、それが出来ない。嗚咽感が凄いのでとても飲み込めるものではない。
最初の1週間はそのゴム管も飲めないので訓練が進まない。それがゴム管が一度飲めて食道に入ったのである。すると注射器のようなもので空気を入れてやると食道に入ったゴム管の先が膨らむのである。こうして食道を広げていくというリハビリである。そこからの回復度が自分でも驚くべきで、1週間後にはゼリーが食べれれるようになり、10日後にはおかゆ食べれれるほどに回復。そして3週間後には一般食が食べられるようになったのである。
リハビリには小生には3人の担当がついて、理学療法士、作業療法士、言語療法士兼嚥下訓練担当。1日3時間のリハビリテーションをこなす毎日。だから昼間はけっこう忙しくて、時間が経つのは速い、ただし夜が地獄であった。病院と言うのは夕食が午後6時と早いが、消灯は午後9時。これにどうしてもなじめず最初の3日はまったく眠れなかった。また自分で動けない患者ばかりの大部屋に放り込まれたのでとても寝れたものではない。薄いカーテンで仕切られただけの中にベッドがあるが、隣の病人は車椅子でしか動けない。また認知症が進んでいるみたいで、いきなり病院に運ばれて来るや否や点滴の針を引きぬいて血だらけになっていたし、朝は起きると「おい、新聞持ってきたか」「ここは何処や」と家と病院の区別がついていない。小生なんかは夜中になっても寝れないのでちょっと廊下に出ようとしたら、この爺さんが「お前だれや」と言いだすし困ったものだ。他には寝た切りの患者も多く、おむつをしているので交換の時には例の人糞の臭いが漂う。こちらとしてはちょっと耐えられないので、その間病室を抜け出すありさまであった。
また夜中に肺炎に罹っている患者が痰の吸引を行うので喧しくて寝ていても目が覚める。それにひっきりなしに看護士が入ってきて点灯するので目が覚める。また自分でトイレに行けない人ばかりで、すぐにナースコールで看護士を呼ぶ。ただでさえ寝つきが悪いのに、毎日、このような状況下におかれていたので毎日寝れず、すっかり不眠症になってしまった。それで睡眠剤を貰うようにしたのだが、最初の日はぐっすり寝れたが、次からは2時間か3時間ほどしか寝れなくなった。こういう夜を毎晩過ごすと、いい加減ノイローゼになってくる。朝は6時なると一斉に病室の蛍光灯を点灯させるし眩しくて仕方がない。それにしては朝飯は朝の8時で夕食との時間が開き過ぎである。そして朝食を済ませると9時からは早速リハビリが始まる。恒例の筋肉トレーニングとストレッチ。そして嚥下障害克服の訓練の毎日。でもリハビリ以外はやることがない。暇すぎて気が狂いそうであった。テレビも面白くないし、トランジスターラジオを買ってきてもらって聴いていた。ただし鉄筋コンクリートの中なのでFMしか入らない。でもJポップばっかり流している。今時のJポップなんか聴いてもさっぱり判らない。クラシックやジャズ何てあまりやらないのだな。どうせ夜寝れないから聴いていたが、今時のポップスはメロディが乏しく単調な旋律が多い。それでいて小刻みで同じ調子のリズムが続くので癒しにもならない。せめてウォークマンを持ってくればと後悔。家族の者に探さしたが何処にあるのか判らないというではないか。小生は判りやすいところに置いていた筈なのにと不服をいっても始まらない。それで病院に置いてある蔵書を幾つか読んだが、あまり面白い本を置いてないのですぐに飽きる。
それにしても他の患者は毎日か隔日に家族や知り合いの人が訪ねてくるものである。それに比べると小生はほったらかしで週に1か2回。洗濯物の交換だけであっさり帰って行く。日によってはこちらのリハビリの時間とダブるので会えない日もある。まあ、自分で自由に動けるので入院と言っても気にならないようである。またなまじっか動けるだけに病院から出れないという不自由さにはストレスがたまる毎日ではあった。それと驚いたことにほとんど寝たきりの人で当然、喋れない。しかし、奥さんと娘さんが毎日、昼と夜に訪れていたのには感心した。昼間は奥さんが毎日来ていた。それも車で1時間ぐらいかかるところらしい。もっと近くに入院する病院がなかったのかということは別にして、まあ献身的であった。外見は70歳前後の白髪が目立つ夫人なのであるが驚嘆するぐらい声が若い。顔を見ないと20代の女性が話しているようにしか聞こえない。「お父ちゃん。来たよ」「もう、すっかり外は暑いよ」「また頑張ろね」一方的に話しかけているだけである。旦那の方は理解出来てるのだろうかと思いながらも話し声が聞こえてくるのでただ聞いていた。また夜になると娘さんが今度は訪れるのである。20代だろうか30代だろうか・・・・・女性の年齢は判らない。仕事を終えてから毎日、夜の7時過ぎに訪れて面会時間いっぱいまで父の横で話しかけるのである。当然、返事はない。「お父さん、また車運転して何処か行こうね」「お父さんは昔はダンディやったねと近所の人がいわはるのよ」何時も7時過ぎに訪れて面会時間いっぱいまで父の横で話しかけるのである。当然、返事はない。「お父さんと元気なったら映画観に行こね」・・・・いやはや親子愛を感じないわけにはいかない。この娘さん、かなりお父さん子だったようである。
それにしても長く感じたな。その間、この入院生活の中で色々と思うところがあった。人は自分だけで生きていけない。また頼りすぎてもいけないが頼るときは頼ればいい。今まで以上に健康であることのありがたさを感じた。今まで何も感じないで行っていたことが出来なくなることの不自由さを痛感した。もう不摂生はやめて、健全な生活を送らなければならない。せめてあと20年は歩けて自分のことは自分でできる生活を送れるように精進するべきかな。けして簡単なことではないが・・・・・。
そもそも6月の10日にふらふらするのでおかしいなあと思い病院に検査を受けに行ったら即入院だった。すぐにMRIで調べてもらったら脳幹梗塞だという。頭の天辺の方に薄い小さな小豆大ほどの影が見つかった。顔の左顔面に症状が出ていて、右手と左脚が熱を感じにくく、それ以上に困ったのは嚥下障害になったことである。それで即日入院でいきなり点滴を2本を2週間つけっぱなしというからとんでもない環境下に陥ってしまった。1日点滴を8時間ごとに入れ替えるので、寝るときも昼間も繋ぎっぱなしだからどうしようもない。点滴台から2袋ぶら下げて点滴台を押して移動させる毎日。あいにく軽度だったので言語障害もないし身体に麻痺もない。ただ嚥下障害で食べ物が摂取できないという切実な問題にぶち当たったのである。入院した当初は唾も飲み込めないという最悪な状況であった。それで簡単な訓練で水ぐらいは飲めるようになり、そこで与えられたのがアイソカル2Kという大豆味の栄養補助食品。所謂、紙パックに入っている飲料水のような流動食である。200mlほどの紙パックなので普通のジュース位の大きさであるが、カロリーは400キロカロリーもあるので、これを1日3回していれば生きてはいけるといわれホッとしたのである。そして朝、昼、晩と3食ともしばらくは流動食で毎日腹が減って腹が減ってどうしようもない。何しろ嚥下障害で食道が開かないから器官に入ってしまうので食べられない。それでどんなリハビリを行うかと言うと、これがまた奇妙というかどういったらいいのか。直径5ミリくらいのゴムの管を飲むのである。ただし器官入れてはいけないのでゴム管を咽喉に入れていき咽喉に当たったと感じたら唾と共にゴクンと飲み込むのである。しかし、それが出来ない。嗚咽感が凄いのでとても飲み込めるものではない。
最初の1週間はそのゴム管も飲めないので訓練が進まない。それがゴム管が一度飲めて食道に入ったのである。すると注射器のようなもので空気を入れてやると食道に入ったゴム管の先が膨らむのである。こうして食道を広げていくというリハビリである。そこからの回復度が自分でも驚くべきで、1週間後にはゼリーが食べれれるようになり、10日後にはおかゆ食べれれるほどに回復。そして3週間後には一般食が食べられるようになったのである。
リハビリには小生には3人の担当がついて、理学療法士、作業療法士、言語療法士兼嚥下訓練担当。1日3時間のリハビリテーションをこなす毎日。だから昼間はけっこう忙しくて、時間が経つのは速い、ただし夜が地獄であった。病院と言うのは夕食が午後6時と早いが、消灯は午後9時。これにどうしてもなじめず最初の3日はまったく眠れなかった。また自分で動けない患者ばかりの大部屋に放り込まれたのでとても寝れたものではない。薄いカーテンで仕切られただけの中にベッドがあるが、隣の病人は車椅子でしか動けない。また認知症が進んでいるみたいで、いきなり病院に運ばれて来るや否や点滴の針を引きぬいて血だらけになっていたし、朝は起きると「おい、新聞持ってきたか」「ここは何処や」と家と病院の区別がついていない。小生なんかは夜中になっても寝れないのでちょっと廊下に出ようとしたら、この爺さんが「お前だれや」と言いだすし困ったものだ。他には寝た切りの患者も多く、おむつをしているので交換の時には例の人糞の臭いが漂う。こちらとしてはちょっと耐えられないので、その間病室を抜け出すありさまであった。
また夜中に肺炎に罹っている患者が痰の吸引を行うので喧しくて寝ていても目が覚める。それにひっきりなしに看護士が入ってきて点灯するので目が覚める。また自分でトイレに行けない人ばかりで、すぐにナースコールで看護士を呼ぶ。ただでさえ寝つきが悪いのに、毎日、このような状況下におかれていたので毎日寝れず、すっかり不眠症になってしまった。それで睡眠剤を貰うようにしたのだが、最初の日はぐっすり寝れたが、次からは2時間か3時間ほどしか寝れなくなった。こういう夜を毎晩過ごすと、いい加減ノイローゼになってくる。朝は6時なると一斉に病室の蛍光灯を点灯させるし眩しくて仕方がない。それにしては朝飯は朝の8時で夕食との時間が開き過ぎである。そして朝食を済ませると9時からは早速リハビリが始まる。恒例の筋肉トレーニングとストレッチ。そして嚥下障害克服の訓練の毎日。でもリハビリ以外はやることがない。暇すぎて気が狂いそうであった。テレビも面白くないし、トランジスターラジオを買ってきてもらって聴いていた。ただし鉄筋コンクリートの中なのでFMしか入らない。でもJポップばっかり流している。今時のJポップなんか聴いてもさっぱり判らない。クラシックやジャズ何てあまりやらないのだな。どうせ夜寝れないから聴いていたが、今時のポップスはメロディが乏しく単調な旋律が多い。それでいて小刻みで同じ調子のリズムが続くので癒しにもならない。せめてウォークマンを持ってくればと後悔。家族の者に探さしたが何処にあるのか判らないというではないか。小生は判りやすいところに置いていた筈なのにと不服をいっても始まらない。それで病院に置いてある蔵書を幾つか読んだが、あまり面白い本を置いてないのですぐに飽きる。
それにしても他の患者は毎日か隔日に家族や知り合いの人が訪ねてくるものである。それに比べると小生はほったらかしで週に1か2回。洗濯物の交換だけであっさり帰って行く。日によってはこちらのリハビリの時間とダブるので会えない日もある。まあ、自分で自由に動けるので入院と言っても気にならないようである。またなまじっか動けるだけに病院から出れないという不自由さにはストレスがたまる毎日ではあった。それと驚いたことにほとんど寝たきりの人で当然、喋れない。しかし、奥さんと娘さんが毎日、昼と夜に訪れていたのには感心した。昼間は奥さんが毎日来ていた。それも車で1時間ぐらいかかるところらしい。もっと近くに入院する病院がなかったのかということは別にして、まあ献身的であった。外見は70歳前後の白髪が目立つ夫人なのであるが驚嘆するぐらい声が若い。顔を見ないと20代の女性が話しているようにしか聞こえない。「お父ちゃん。来たよ」「もう、すっかり外は暑いよ」「また頑張ろね」一方的に話しかけているだけである。旦那の方は理解出来てるのだろうかと思いながらも話し声が聞こえてくるのでただ聞いていた。また夜になると娘さんが今度は訪れるのである。20代だろうか30代だろうか・・・・・女性の年齢は判らない。仕事を終えてから毎日、夜の7時過ぎに訪れて面会時間いっぱいまで父の横で話しかけるのである。当然、返事はない。「お父さん、また車運転して何処か行こうね」「お父さんは昔はダンディやったねと近所の人がいわはるのよ」何時も7時過ぎに訪れて面会時間いっぱいまで父の横で話しかけるのである。当然、返事はない。「お父さんと元気なったら映画観に行こね」・・・・いやはや親子愛を感じないわけにはいかない。この娘さん、かなりお父さん子だったようである。
それにしても長く感じたな。その間、この入院生活の中で色々と思うところがあった。人は自分だけで生きていけない。また頼りすぎてもいけないが頼るときは頼ればいい。今まで以上に健康であることのありがたさを感じた。今まで何も感じないで行っていたことが出来なくなることの不自由さを痛感した。もう不摂生はやめて、健全な生活を送らなければならない。せめてあと20年は歩けて自分のことは自分でできる生活を送れるように精進するべきかな。けして簡単なことではないが・・・・・。
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