2013.10.06 (Sun)
セロニアス・モンクのアルバム『ブリリアント・コナーズ』を聴く

この『ブリリアント・コナーズ』というアルバムは1956年10月~12月のの収録である。1917年生まれのモンクにしてみると40歳になる前の脂ののりきっている頃のアルバムであるが、世に出るのが遅かったモンクにとっては出世作ともいえるアルバムである。とにかく奇人変人と言われるジャズ・ピアニストのセロニアス・モンクである。時代はビ・バップであるが所謂チャーリー・パーカーのような表現形態と違いモンク特異な曲が多く、当初は一般的に受け入れがたかったのかなかなか表舞台に出てこなかった。彼の曲は彼独特のアイデアが盛り込まれており、和音の構成やリズムに対して誰も考えたことのない発想で表現されているので簡単には理解しがたいところがある。このアルバムのタイトル曲である『ブリリアント・コナーズ』でもイントロからいきなり不協和音で始まるなど大胆かつ斬新である。共演は『ブリリアント・コナーズ』『バルー・ボリヴァー・バルーズ・アー』『パノニカ』の3曲がソニー・ロリンズ(テナー・ッサクス)、アーニー・ヘンリー(アルト・サックス)、オスカーペティフォード(ベース)、マックス・ローチ(ドラムス)。『ベムシャ・スウィング』になるとクラーク・テリー(トランペット)が加わり、ベースがポール・チェンバースに交代している。これはベースのペティ・フォードが10月の収録時にモンクと口論になりレコーディング途中で首になったと言われているので12月の収録時にはポール・チェンバースを起用したということである。この話を一つとってもモンクの楽曲に対する拘りが見えてきそうだが、かつてマイルス・デイヴィスとのたった一度の共演でも色々と物議を醸し出している。それだけ奇人変人の多いジャズ・ミュージシャン仲間でもモンクは特別個性が強いみたいだ。
セロニアス・モンクはピアノを始めた子供の頃、クラシックの練習曲よりもジャズに興味を持つようになり、さらには伝道のためオルガンを弾いて全米各地を回ったという経緯がある。20歳の時にミントンズ・プレイハウスに雇われて、その存在が僅かながら知られるようになる。この店は当時、明日のビ・バップを担う若手ミュージシャンが集まるたまり場だったのが幸いしたのか、やがてモンクもレコード会社から声がかかるのである。そして1947年~1952年にまだ当時はマイナーだったブルーノート・レーベルにレコーディングするが、まだ時代が彼を受け入れなかったという。それだけ彼の曲は当時は難解だったのだ。レーベルが移ってもまだ彼本来の楽曲を収録させてもらえず、この『ブリリアント・コナーズ』でようやく本領発揮ということか。
このアルバムではモンクがメンバーに自由奔放に演奏させているように思えるが、それでいてモンク自身主張するべきところはきっちりと主張し、それでいて互いに干渉しあっている。だが、このアルバムの曲を聴いていると収録には一筋縄で収まらなかったであろうと思えるような緊張感がある。オスカー・ペティフォードが途中でポール・チェンバースに代えられた例にも表れているが、セロニアス・モンクが3曲目の『パノニカ』ではピアノではなくチェレスタを使っていたり、5曲目の『ベムシャ・スウィング』でマックス・ローチはドラムスではなくティンパニを使っていたりするなど、ジャズの王道ではない楽器をわざわざ見つけ出してくるあたり何かと騒々しかった収録シーンが浮かんでくる。しかし、その結果、セロニアス・モンクがジャズ・シーンの表舞台に出てくる転換点とアルバムであることは確かなようだ。ただセロニアス・モンクはその後もマニアックな人には支持されたが大衆受けはしなかったようだ。でも彼の死後というと、1980年代のことであるがセロニアス・モンクは再評価されるようになり、ジャズ・ピアノの巨人としてセロニアス・モンクは名が通っている。ただモンクは昔から作曲家としては優れていて、マイルス・デイヴィスは彼の曲『ラウンド・ミッドナイト』を演奏するなど、彼の才能を高く買っているし、その他、今日の多くのミュージシャンが彼の曲を演奏していることでもセロニアス・モンクは昔から見識が高かったことが窺える。
アルバム『ブリリアント・コナーズ』全曲(動画はなし)
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