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2011.09.19 (Mon)

ワシントン・ナショナル・ギャラリー展に行く

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 もう立秋も過ぎたというのに何時までも暑い。南の海上で台風が二つも居座っているから熱い大気ばかりが漂っていて、そこへ湿気まで齎すからよけいに暑いのだろうな。また沖縄近海に停滞している台風が、今週には北上と共に東へ進路を変えるという。またまた招かれざる客が来るのか・・・・・うんざり。

 さて、今日は京都の岡崎にある京都市美術館に行ってきた。目的はフェルメールといいたいが、こちらはどうせ行列してなかなか入れないだろうから、同じ美術館で開催している『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』を観に行くためである。

 暑い中、10時前には美術館に到着。案の定、『フェルメールからのラブレター展』は大行列。待ち時間・・・・・不明。皆、朝の何時から並んでいるのだ。こちらはテレビで特集番組を放送したぐらいだかすごい人気だ。何しろ世界で30数点しか油絵がないという寡作の画家フェルメールの『手紙を読む青衣の女』が修復後、本国オランダより先駆けて京都で世界初公開されるとかで、かなりの遠方からわざわざ観に来ている人もいるという。そこへ他のフェルメールの絵を2作品、そして同時代のオランダの画家ピーテル・デ・ホーホ、ヘラルト・テル・ボルフ、ハブリエル・メツー等も展示されている。とはいうものの展覧会としてのボリューム感に欠けるのでは・・・・・・・。とにかく昨今のフェルメール人気は物凄い。そういえば私が若い頃にもフェルメール作品が他の画家の作品に混じって本邦初公開されたことがあったが、あの当時はこれほど人気がなく、館内は結構空いていたというという記憶がある。その後、フェルメールの価値が急騰したというしかないだろう。いや、本当にすごい行列だ。

 こうしてフェルメール展に入ろうとする長蛇の列を尻目に、私は『ワシントン・ナショナル・ギャラリー展』の会場に入った。でも、こちらの方も大入りだったが・・・・・。ところでワシントン・ナショナル・ギャラリーという美術館は名前の通りアメリカのワシントンDCにある国立美術館である。アメリカ、いや世界でも屈指の美術館であるが、私はこの美術館が誕生した経緯について少しばかり興味があったので、訪れてみたということなのだが・・・・・。

 ナショナル・ギャラリーは国立の美術館ながら、1人の富豪がその誕生に関与している。それはアメリカの資産家であるアンドリュー・メロンである。アンドリュー・メロンは1855年に銀行家トーマス・メロンの長男として生まれたが、父とは関係なく材木事業で成功し財を成し、父親の銀行事業に参加。そこから手を広げ石油、鉄鋼、造船、建設業界にも事業を展開し1890年代にはとうとうジョン・ロックフェラー、ヘンリー・フォードと並んでアメリカ三大富豪と呼ばれるようになるのである。その後、政界に進出し財務長官として所得税減税、公共支出削減等の経済政策を実施し、一応の成果を上げ、世界大恐慌の後に辞任。その後、駐イギリス大使として英国生活を送る。ところが、この英国時代にロンドンのナショナル・ギャラリーを訪れ、その威容さと大量の美術品の所蔵に感激。かねてから美術収集家でもあったアンドリュー・メロンは母国アメリカにも国立美術館を造りたいと思うのである。こうしてアンドリュー・メロンは自己の所有する美術品と現金1000万ドルを寄贈。これを基に首都ワシントンDCに国立美術館(ナショナル・ギャラリー)を建設することとなる。こうしてナショナル・ギャラリーは建設が始まるが、完成を見ずしてアンドリュー・メロンは1937年に亡くなってしまう。

 アンドリュー・メロンは亡くなるが、その意志を継いだのが長男であるポール・メロンであった。ポール・メロンは1907年生まれで父アンドリューが亡くなった時、ポールは30歳だった。エール大学を卒業し銀行には半年務めただけで金儲けに奔走した父と違い若い時から芸術、文学の方に興味を持ち、その後にイギリスに渡りケンブリッジ大学に入り文学士の学位を得て、さらに大学院修士号の称号をも得ている。そして30歳で父の莫大の財産の相続人となり、彼はもっぱら膨大な大金を使う方に奔走したという夢のような生活を送るのである。

 結局、ポール・メロンが親の意志を継いでナショナル・ギャラリーを完成させたのである。それからというもの、ワシントン・ナショナル・ギャラリーは、その後、美術愛好家の寄贈によって所蔵数が増加していったという興味ある美術館となった。それで今回は日本初公開となるゴッホの自画像を始め、主に印象派登場までと印象派以降まで網羅して展示されていた。コロー、クールベ、ドービニー、デュプレ、ブーダン、マネ、バジール、ピサロ、ドガ、シスレー、モネ、ルノワール、カイユボット、ピサロ、カサット、ゴーギャン、ロートレック、シニャック、セザンヌ、スーラといったお馴染みの画家ばかりの展示であったが、こういった主に19世紀の絵画だけでもこれだけの所蔵品があるワシントン・ナショナル・ギャラリーの実力を垣間見た気がした。

 ところで、私が何故これだけアンドリュー・メロンとポール・メロンのことを書いたかというと、高校生の頃にポール・メロンの名を知ってメロン家について調べたことがあったからだ。実は私は高校生の頃、競馬に夢中になっていて、日本の競馬だけでは飽き足らず、ことにヨーロッパ競馬に興味を持ちだしたのであった。それでMill Reefという一頭の名馬の出現により、ポール・メロンの名を知ることとなるのだが・・・・・・・。実際にポール・メロンは資産が30億ドルから50億ドルあるといわれ、石油、鉄鋼、エレクトロニクス関係の一流会社の株、ヴァージニア州、西インド諸島の保有地に散在する広大な別荘用地、ニューヨークとワイントンにある貸しビル、莫大な絵画のコレクションを所有していた。そしてアメリカとヨーロッパに繋養している100頭前後のサラブレッドとシンジケート組織にある種牡馬の株を有し、競馬にも惜しまず資金を投入した。つまりポール・メロンは美術愛好家でもあり、競走馬のオーナー・ブリーダーでもあった。潤沢な資金でヴァージニア州のアッパービルにロックビー牧場を持つ。「売り家と唐様で書く三代目」という川柳があるが、日本では大金持ちは三代以上続かないというのが相場だが、ポール・メロンも三代目である。アイルランド移民の祖父トーマス・メロンはピッツバーグで銀行を設立。南北戦争後の復興景気の波に乗り成功。その息子アンドリューのことは書いた。そしてポール・メロンである。ポール・メロンは大馬主となり、自国アメリカでアーツアンドレタース、フォートマーシー、シーヒーローと言った一流馬の馬主となったが、競馬界で彼の名を有名にしたのは1968年にロックビー牧場で産まれたミルリーフによってである。

 アメリカ産のミルリーフは競馬の母国イギリスでデビューする。1970年2歳のときに新馬でデビュー。翌年、1971年にイギリスのダービー、キング・ジョージ6世&クィーン・エリザベスS、凱旋門賞と勝ちまくり、1972年に引退するが通算14戦12勝2着2回という準パーフェクトの成績を残し、当時において1年先輩の三冠馬ニジンスキーよりも上の評価をされたものである。ミルリーフは種牡馬としても成功。直仔からはイギリス・ダービー馬のシャーリーハイツ、リファレンスポイント、フランス・ダービー馬のアカマス。その系統からは日本でもイナリワン、オサイチジョージ、ミホノブルボン等を輩出している。つまり20世紀屈指の名馬と言われた

 そういった事情もあって、メロン家が造った美術館がワシントン・ナショナル・ギャラリーであるという現実。そういった興味も手伝って長々と書かしてもらった訳なのであるが、結局、メロン家の話ばかりで肝心な展覧会のことはほとんど書かなかったかな。まあ、これも御愛嬌とかでお許しください。



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2011/09/23(金) 10:16:28 | キングオブ競馬
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