2011.11.13 (Sun)
ジョー・フレージャーのこと
このところ記事が書けなかったので、少々、遅くなったとは思いながらもジョー・フレージャーのことを書いてみる。先日の11月7日に元世界ヘビー級チャンピオンだったジョー・フレージャーが肝臓がんで亡くなった。
昨今はボクシングといっても世間の注目を浴びることも少なくなったし、世界ヘビー級チャンピオンが誰だかマニア以外、判らない時代である。それだけ世界チャンピオンの価値が昔に比べて低くなったということだしし、世界タイトルマッチでもテレビ中継されることがだんだんと無くなってきた。それはボクシングを統括する団体が増え、それぞれの団体がチャンピオンを認定しているといったことと、階級もより細分化され昔よりも王座につきやすくなったからでもある。それで日本では現在世界チャンピオンが8人もいる有様である。しかし、彼らの名前を言える人はほとんどいないだろう。でもこれが1960年代のように統括団体が一つで、階級も当時のままだと、この中で世界チャンピオンになれたのがはたして何人いるだろうか・・・・・・??
小生が小学校に入った頃には世界チャンピオンが日本にいなかった。当時は世界中で世界チャンピオンが全階級を通しても11人しかいなかったから無理もない。なにしろ統括団体が一つで、階級も1番軽いのがフライ級、その上がバンタム、そしてフェザーというように階級がもっと大雑把だった。今のようにフライよりも下のクラスがあり、フライ、バンタム、フェザーとの間にも階級が設けられた。それだと当然、チャンピオンになりやすいことは誰が考えても判るだろう。なのであの頃の世界チャンピオンはどの階級でも猛者ぞろいであった。そんな中でファイティング原田がポーン・キングピッチを11回KOで倒し世界フライ級チャンピオンになった時は大ニュースになったほどだ。もっとも原田は、その後に一つ上の階級であるバンタム級でも世界チャンピオンに輝いている。またこの時、闘った相手が黄金のバンタムと言われた不沈艦エデル・ジョフレ(ブラジル)である。エデル・ジョフレは原田に負けるまで無敗。でも当時、専門家の多くがあの怪物ジョフレに勝てるなんて考えてなかったようだ。とにかくエデル・ジョフレは強かった。その後、ジョフレはフェザー級タイトルも獲得するが、生涯で2度しか負けなかった。しかし、負けた相手が何れも原田だったというのも面白い。そのジョフレに2度にわたって勝ったということで、原田は日本人ボクサーでただ一人世界ボクシング殿堂に入っている。
さて、ジョー・フレージャーに話を戻そう。実はジョー・フレージャーは原田が大好きな世界ヘビー級チャンピオンだった。それはヘビー級ボクサーにしては背が低く、ずんぐりした体形でありながら、強烈な左フックを武器に猛進するファイターだったところが原田と似通っていたからであろう。ジョー・フレージャーは東京オリンピックの金メダリストである。翌年にプロデビューし連戦連勝。その頃の世界ヘビー級チャンピオンといえば言わずと知れたカシアス・クレイことモハメド・アリである。アリは1964年に時の世界チャンピオンのソニー・リストンをTKOで破り若くして世界王座についた。法螺吹きクレイといわれ、言いたいことをずけずけ言う。しかしボクシングスタイルはそれ以上に驚かされた。あの当時のヘビー級において、これだけフットワークがありパンチにスピードのあるボクサーはいなかった。まさに蝶のように舞い蜂のように刺すだった。でもアリはベトナム戦争に反対するあまり徴兵を拒否した。結局、これが彼のボクシング生命を変えることとなる。アリは無敗のまま世界チャンピオンのタイトルを剥奪され、ボクシングライセンスをも失う。アリがリングから去ったヘビー級のボクシングシーンというのは寂しかった。
その間、WBAは世界ランカーを集めて王座決定トーナメントというのをおっぱじめた。参加したボクサーは元チャンピンのアーニー・テレルを始めサッド・スペンサー、ジェリー・クォーリー等。そのトーナメントを制したのはアリの元スパーリング・パートナーだったジミ-・エリスである。こうしてWBA世界ヘビー級チャンピン、ジミー・エリスが誕生した。一方、WBAとは別にニューヨーク州公認世界ヘビー級チャンピオンに輝いた者がいる。それがジョー・フレージャーだった。ニューヨーク州認定とはどういうものだったのか、今でもよく判らないが、この当時にボクシング統括団体が増えていったので、理由はいくつかあるだろうがその詳細までは知るところではない。
ジョー・フレージャーは空位の世界ヘビー級を王座をかつてアマチュア時代に敗れたバスター・マシスと争い、これを11回KOで仕留めた。こうして世界ヘビー級チャンピオンに輝いたジョー・フレージャーを小生は意識することになるが、とにかくブルファイター。上体を揺すりながら左右のフックで相手を威圧しながら前へどんどんと進む。接近戦で強烈なパンチを見舞いKOの山を築きあげるのだった。ジョー・フレージャーは1970年2月にジミー・エリスと統一世界ヘビー級タイトルを争うこととなるが、4回KOで倒し名実ともに世界王者となる。ところが徴兵拒否からタイトル剥奪後、長いブランクからモハメド・アリが裁判で勝訴しリングに復帰してきた。やはりブランクがあった感は否めず、若いころのアリと比較すると動きは鈍っていた。ただし体重が増え、パンチ力は増していたように思う。
1971年3月、26戦全勝のジョー・フレージャーは31戦全勝のモハメド・アリの挑戦を受けた。試合はブンブンと突進するフレージャーをアリがかわし時々、速いストレートをアリが放つが、全般的にロープを背にして闘うアリが往年のスピードがなく、15回判定でフレージャーが勝った。これでフレージャーはアリに初めて土をつけたボクサーとして知られることとなり、また真の王者にやっと認められた瞬間でもあった。しかしながら、この頃が一番フレージャーの絶頂期であっただろう。メキシコ・オリンピックの金メダリストであるジョージ・フォアマンがプロ転向後に連戦連勝。だんだんとフレージャーの王座を脅かす存在になっていた。
1973年1月、ジョー・フレージャーの世界王座にジョジ・フォアマンが挑戦してきた。フレージャーは29戦29勝(25KO)無敗。ジョージ・フォアマンは31戦31勝(28KO)無敗。雌雄を決する一戦であった。でもフォアマンは今まで闘った相手が軽く予想ではフレージャーが有利であったように思う。試合はあっけなかった。身長リーチともに上回るジョージ・フォアマンのハードパンチがさく裂。初回からフレージャーはダウンを奪われ2回には像をもなぎ倒すと言われるフォアマンの強烈なフックを受けてマットに沈んでしまった。
その後、フレージャーは世界王座に2度と輝けなかった。そんなフレージャーだが、1975年10月フォアマンから王座を奪回したアリにフレージャーはフィリピンのマニラで挑戦した。これは死闘になり体力の消耗を強いられた。結局、フレージャーは14回終了時でTKO負けとなったが、両者とも激しく撃ち合う名勝負となった。もうアリもフレージャーも峠をこしたボクサーであったが、お互いライバルと認め合う相手だから意地で闘ったところがある。
ジョー・フレージャーは結局、37戦32勝(27KO)4敗1分けの戦績で引退した。でも生涯の4敗はアリに2敗(1勝)、フォアマンに2敗だけで、他の相手には負けていない。つまりこういった役者が多くいたからこの当時のヘビー級は面白かったといえよう。まさにボクシング・ヘビー級の黄金時代である。
その後、ヘビー級にはマイク・タイソンが出現するが、王座転落後のタイソンはどうもいただけない。ボクシングをすっかり汚してしまった。もっと節制して精神を鍛えればアリにも負けないほどのカリスマになりうる素質があったのにもったいない。今は世界ヘビー級タイトルマッチといってもテレビ中継はないし、たとえ中継はされても視聴率も低いだろう。それだけ役者が減ったということだ。
ジョー・フレージャーはそんなボクシング・ヘビー級黄金時代に輝いていたまさに一等星だったのである。前から肝臓癌だとは聞いていたがパーキンソン病のアリよりも先に死ぬとは意外だった。まだ67歳だった。
統一世界ヘビー級タイトル・マッチ1 ジョー・フレージャーVSジミー・エリス
昨今はボクシングといっても世間の注目を浴びることも少なくなったし、世界ヘビー級チャンピオンが誰だかマニア以外、判らない時代である。それだけ世界チャンピオンの価値が昔に比べて低くなったということだしし、世界タイトルマッチでもテレビ中継されることがだんだんと無くなってきた。それはボクシングを統括する団体が増え、それぞれの団体がチャンピオンを認定しているといったことと、階級もより細分化され昔よりも王座につきやすくなったからでもある。それで日本では現在世界チャンピオンが8人もいる有様である。しかし、彼らの名前を言える人はほとんどいないだろう。でもこれが1960年代のように統括団体が一つで、階級も当時のままだと、この中で世界チャンピオンになれたのがはたして何人いるだろうか・・・・・・??
小生が小学校に入った頃には世界チャンピオンが日本にいなかった。当時は世界中で世界チャンピオンが全階級を通しても11人しかいなかったから無理もない。なにしろ統括団体が一つで、階級も1番軽いのがフライ級、その上がバンタム、そしてフェザーというように階級がもっと大雑把だった。今のようにフライよりも下のクラスがあり、フライ、バンタム、フェザーとの間にも階級が設けられた。それだと当然、チャンピオンになりやすいことは誰が考えても判るだろう。なのであの頃の世界チャンピオンはどの階級でも猛者ぞろいであった。そんな中でファイティング原田がポーン・キングピッチを11回KOで倒し世界フライ級チャンピオンになった時は大ニュースになったほどだ。もっとも原田は、その後に一つ上の階級であるバンタム級でも世界チャンピオンに輝いている。またこの時、闘った相手が黄金のバンタムと言われた不沈艦エデル・ジョフレ(ブラジル)である。エデル・ジョフレは原田に負けるまで無敗。でも当時、専門家の多くがあの怪物ジョフレに勝てるなんて考えてなかったようだ。とにかくエデル・ジョフレは強かった。その後、ジョフレはフェザー級タイトルも獲得するが、生涯で2度しか負けなかった。しかし、負けた相手が何れも原田だったというのも面白い。そのジョフレに2度にわたって勝ったということで、原田は日本人ボクサーでただ一人世界ボクシング殿堂に入っている。
さて、ジョー・フレージャーに話を戻そう。実はジョー・フレージャーは原田が大好きな世界ヘビー級チャンピオンだった。それはヘビー級ボクサーにしては背が低く、ずんぐりした体形でありながら、強烈な左フックを武器に猛進するファイターだったところが原田と似通っていたからであろう。ジョー・フレージャーは東京オリンピックの金メダリストである。翌年にプロデビューし連戦連勝。その頃の世界ヘビー級チャンピオンといえば言わずと知れたカシアス・クレイことモハメド・アリである。アリは1964年に時の世界チャンピオンのソニー・リストンをTKOで破り若くして世界王座についた。法螺吹きクレイといわれ、言いたいことをずけずけ言う。しかしボクシングスタイルはそれ以上に驚かされた。あの当時のヘビー級において、これだけフットワークがありパンチにスピードのあるボクサーはいなかった。まさに蝶のように舞い蜂のように刺すだった。でもアリはベトナム戦争に反対するあまり徴兵を拒否した。結局、これが彼のボクシング生命を変えることとなる。アリは無敗のまま世界チャンピオンのタイトルを剥奪され、ボクシングライセンスをも失う。アリがリングから去ったヘビー級のボクシングシーンというのは寂しかった。
その間、WBAは世界ランカーを集めて王座決定トーナメントというのをおっぱじめた。参加したボクサーは元チャンピンのアーニー・テレルを始めサッド・スペンサー、ジェリー・クォーリー等。そのトーナメントを制したのはアリの元スパーリング・パートナーだったジミ-・エリスである。こうしてWBA世界ヘビー級チャンピン、ジミー・エリスが誕生した。一方、WBAとは別にニューヨーク州公認世界ヘビー級チャンピオンに輝いた者がいる。それがジョー・フレージャーだった。ニューヨーク州認定とはどういうものだったのか、今でもよく判らないが、この当時にボクシング統括団体が増えていったので、理由はいくつかあるだろうがその詳細までは知るところではない。
ジョー・フレージャーは空位の世界ヘビー級を王座をかつてアマチュア時代に敗れたバスター・マシスと争い、これを11回KOで仕留めた。こうして世界ヘビー級チャンピオンに輝いたジョー・フレージャーを小生は意識することになるが、とにかくブルファイター。上体を揺すりながら左右のフックで相手を威圧しながら前へどんどんと進む。接近戦で強烈なパンチを見舞いKOの山を築きあげるのだった。ジョー・フレージャーは1970年2月にジミー・エリスと統一世界ヘビー級タイトルを争うこととなるが、4回KOで倒し名実ともに世界王者となる。ところが徴兵拒否からタイトル剥奪後、長いブランクからモハメド・アリが裁判で勝訴しリングに復帰してきた。やはりブランクがあった感は否めず、若いころのアリと比較すると動きは鈍っていた。ただし体重が増え、パンチ力は増していたように思う。
1971年3月、26戦全勝のジョー・フレージャーは31戦全勝のモハメド・アリの挑戦を受けた。試合はブンブンと突進するフレージャーをアリがかわし時々、速いストレートをアリが放つが、全般的にロープを背にして闘うアリが往年のスピードがなく、15回判定でフレージャーが勝った。これでフレージャーはアリに初めて土をつけたボクサーとして知られることとなり、また真の王者にやっと認められた瞬間でもあった。しかしながら、この頃が一番フレージャーの絶頂期であっただろう。メキシコ・オリンピックの金メダリストであるジョージ・フォアマンがプロ転向後に連戦連勝。だんだんとフレージャーの王座を脅かす存在になっていた。
1973年1月、ジョー・フレージャーの世界王座にジョジ・フォアマンが挑戦してきた。フレージャーは29戦29勝(25KO)無敗。ジョージ・フォアマンは31戦31勝(28KO)無敗。雌雄を決する一戦であった。でもフォアマンは今まで闘った相手が軽く予想ではフレージャーが有利であったように思う。試合はあっけなかった。身長リーチともに上回るジョージ・フォアマンのハードパンチがさく裂。初回からフレージャーはダウンを奪われ2回には像をもなぎ倒すと言われるフォアマンの強烈なフックを受けてマットに沈んでしまった。
その後、フレージャーは世界王座に2度と輝けなかった。そんなフレージャーだが、1975年10月フォアマンから王座を奪回したアリにフレージャーはフィリピンのマニラで挑戦した。これは死闘になり体力の消耗を強いられた。結局、フレージャーは14回終了時でTKO負けとなったが、両者とも激しく撃ち合う名勝負となった。もうアリもフレージャーも峠をこしたボクサーであったが、お互いライバルと認め合う相手だから意地で闘ったところがある。
ジョー・フレージャーは結局、37戦32勝(27KO)4敗1分けの戦績で引退した。でも生涯の4敗はアリに2敗(1勝)、フォアマンに2敗だけで、他の相手には負けていない。つまりこういった役者が多くいたからこの当時のヘビー級は面白かったといえよう。まさにボクシング・ヘビー級の黄金時代である。
その後、ヘビー級にはマイク・タイソンが出現するが、王座転落後のタイソンはどうもいただけない。ボクシングをすっかり汚してしまった。もっと節制して精神を鍛えればアリにも負けないほどのカリスマになりうる素質があったのにもったいない。今は世界ヘビー級タイトルマッチといってもテレビ中継はないし、たとえ中継はされても視聴率も低いだろう。それだけ役者が減ったということだ。
ジョー・フレージャーはそんなボクシング・ヘビー級黄金時代に輝いていたまさに一等星だったのである。前から肝臓癌だとは聞いていたがパーキンソン病のアリよりも先に死ぬとは意外だった。まだ67歳だった。
統一世界ヘビー級タイトル・マッチ1 ジョー・フレージャーVSジミー・エリス
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