2012.05.26 (Sat)
誰も訪れない京都の旧跡・・・・・大極殿跡
このところ涼しくなったり暑くなったり天候が大荒れだったりはっきりしないが、もう初夏の雰囲気である。今年は原子力発電所が完全に稼働を停止(まだ決定ではないが)するということで計画停電もあり得るらしい。するとエアコンも一日中つけていられない。困ったものだがしょうがない。暑がりの小生としては今からどうしよかと思案中である。出勤すると職場の中は冷房が効いているからいいが、休日の昼間、エアコンをつけられない酷暑の家に居るわけにもいかないな。本当にどうしよか・・・・・。まあ、それはさておいといて、3月に誰も訪れない京都の旧跡と題して羅城門跡を訪ねたが、今回は大極殿跡を訪ねてみた。それで大極殿(だいごくでん)って何だということになるが、都の大内裏の中にある正殿ということになる。それなら大内裏って何だとなるが、大内裏は都の宮城ということになる。つまり遠い時代の都の宮城にある天皇がいる正殿ということになるのだろうか。原典は中国から来ているから定義付けは難しい。それが日本に文化が伝わり飛鳥の時代に飛鳥京という都が形成される中で日本最初の大極殿が置かれた。それがやがて藤原京、難波京、平城京、恭仁京、長岡京、平安京と都が置かれると必ず大極殿があった。それで794年に平安京に都が移されると都が造営された。平安京の入口が羅城門だということは前回に述べたと思うが、その羅城門から真っすぐに北の大内裏に向かって朱雀大路が伸びていた。こうして平安京はこの大内裏の中で政治が行われたのであろう。
大極殿というのは上記のようなものであるが、そこで小生は暑いさなか大極殿の跡がどこにあるのか、このほど訪れてみた。生まれてこのかた長い間、京都に住んでいるので(一時、離れていた時期もあるが)、所在する場所はだいたい判っている。今の千本通が昔の朱雀大路なので千本通沿いにあるのに決まっている。地下鉄二条駅で降りて千本通を500m上がったところが千本丸太町の交差点である。このあたりに大極殿があったとされるが、実は交差点の西北角の路地を入ったところに児童公園がある。その中に大極殿のあったところと記された石碑がある。この石碑は1895年に平安遷都1100年を記念して建てられた石碑である。実際に大極殿は千本丸太町の交差点辺りにあったとされるのだが、交差点だと往来があるので石碑は建てられないということか。まあ、この周辺一帯に巨大な大極殿が威容を誇っていたと思えばいい。なにしろ当時の大極殿は奈良の東大寺、島根の出雲大社に匹敵する大きさだったといわれるからとんでもない大建築物だったのだろう。今の平安神宮はその時の大極殿を含めた朝堂院を模倣して1895年に造営されたことは言うまでもないが(ただし3/4の規模)。それにしても千本丸太町周辺は何の変哲もないごくありふれた街並みである。悠久の昔、都の宮城の正殿があったところとは現在の姿からは想像もできない。京都の街はその後、全体的に北東へ移動したから大内裏も今の京都御苑へ移っていき、千本丸太町周辺は都の中心ではなくなってしまったからである。それに大極殿そのものは何度かの火災で再建されたのち、朝廷の儀式が同じ大内裏の中にある紫宸殿へ移って行き、大極殿の存在価値が薄れていき、やがて1177年の安元の大火で焼失。それ以降、再建されることはなかった。
実は1895年(明治28年)3月15日に平安遷都1100年を記念して内国勧業博覧会が行われたのであるが、その目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。その計画というのは大極殿があったとされる千本丸太町の交差点付近一帯に大内裏と朱雀門を建てるというものであった。しかし用地買収に敗。結局、京都の郊外である岡崎に5/8の規模で大内裏の一部が復元された。それが今の平安神宮である。それで現在、大極殿跡の石碑だけが、千本丸太町西北角の路地裏にある児童公園に立っている。
大極殿というのは上記のようなものであるが、そこで小生は暑いさなか大極殿の跡がどこにあるのか、このほど訪れてみた。生まれてこのかた長い間、京都に住んでいるので(一時、離れていた時期もあるが)、所在する場所はだいたい判っている。今の千本通が昔の朱雀大路なので千本通沿いにあるのに決まっている。地下鉄二条駅で降りて千本通を500m上がったところが千本丸太町の交差点である。このあたりに大極殿があったとされるが、実は交差点の西北角の路地を入ったところに児童公園がある。その中に大極殿のあったところと記された石碑がある。この石碑は1895年に平安遷都1100年を記念して建てられた石碑である。実際に大極殿は千本丸太町の交差点辺りにあったとされるのだが、交差点だと往来があるので石碑は建てられないということか。まあ、この周辺一帯に巨大な大極殿が威容を誇っていたと思えばいい。なにしろ当時の大極殿は奈良の東大寺、島根の出雲大社に匹敵する大きさだったといわれるからとんでもない大建築物だったのだろう。今の平安神宮はその時の大極殿を含めた朝堂院を模倣して1895年に造営されたことは言うまでもないが(ただし3/4の規模)。それにしても千本丸太町周辺は何の変哲もないごくありふれた街並みである。悠久の昔、都の宮城の正殿があったところとは現在の姿からは想像もできない。京都の街はその後、全体的に北東へ移動したから大内裏も今の京都御苑へ移っていき、千本丸太町周辺は都の中心ではなくなってしまったからである。それに大極殿そのものは何度かの火災で再建されたのち、朝廷の儀式が同じ大内裏の中にある紫宸殿へ移って行き、大極殿の存在価値が薄れていき、やがて1177年の安元の大火で焼失。それ以降、再建されることはなかった。
実は1895年(明治28年)3月15日に平安遷都1100年を記念して内国勧業博覧会が行われたのであるが、その目玉として平安京遷都当時の大内裏の一部復元が計画された。その計画というのは大極殿があったとされる千本丸太町の交差点付近一帯に大内裏と朱雀門を建てるというものであった。しかし用地買収に敗。結局、京都の郊外である岡崎に5/8の規模で大内裏の一部が復元された。それが今の平安神宮である。それで現在、大極殿跡の石碑だけが、千本丸太町西北角の路地裏にある児童公園に立っている。
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このところ涼しくなったり暑くなったり天候が大荒れだったりはっきりしないが、もう初夏の雰囲気である。今年は原子力発電所が完全に稼働を停止(まだ決定ではないが)するということで計画停電もあり得るらしい。するとエアコンも一日中つけていられない。困ったものだが...
2012/05/26(土) 20:20:56 | まとめwoネタ速neo
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