2ntブログ
2025年03月 / 02月≪ 12345678910111213141516171819202122232425262728293031≫04月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
EDIT  |  --:--  |  スポンサー広告  |  Top↑

2012.07.29 (Sun)

オリンピックって何だ?

 ロンドン・オリンピックが始まった。テレビはどこもこればかり。前回の北京オリンピックはあまりにも国威発揚が露骨過ぎて小生はほとんどテレビ中継を観なかった。それで今回オリンピックの故郷と言ってもいいイギリスで行われることに何かがあると思い朝早くから開会式を観ていたのだが、あまりにもイベント化された巨大ページェントにやや食傷気味になってしまった。

 本来は選手が主にならなけらばならないのに、選手入場がなかなか始まらない。これでは待っている選手も草臥れそうである。それと開会式の姿も以前とはすっかり変わってしまったなという思いを強くした。何時の頃からかオリンピックの開会式がショー化され、段々と派手になってきている。おそらく1984年のロサンジェルス・オリンピック辺りからであろうが、この当時はまだ開会式は明るい昼間にやっていた。それが1992年のバルセロナ・オリンピックから夜に開会式を行うようになり、より一層派手になりショウ化されたように思う。ことに炎を使った演出に聴衆を酔わす作用がある故、より派手になってきたのではないだろうか。かつては昼間の開会式で、選手入場がメインであり、各国の選手が整然と並んで行進する姿がオリンピックであるという認識があった。それが夜の開会式になり、選手が整然と行進することはなくなった。各国とも一応は並んでいるが、一糸乱れずとはほど遠く、バラバラの隊列でそれも各自カメラを持って撮影している選手が実に多い。ここらあたり全く昔とは変わってしまった。

 なんだか一見だらけたように見えるが選手は楽しんでいるようで、かつての国家を支えている国を代表していると言った趣とは異なっていて実にフレンドリーに思える。これはかつて近代オリンピックの理念を掲げたクーベルタンの意志と通じるものがあり微笑ましく思える。近代オリンピックの父ともいえるクーベルタンは「オリンピックの理想は人間を作ること、つまり参加までの過程が大事であり、オリンピックに参加することは人と付き合うこと、すなわち世界平和の意味を含んでいる」と言った。スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍等、様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神を持って理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献するというものである。

 そもそもフランス人であるピエール・ド・クーベルタンは、若き日の頃のフランスは普仏戦争の敗戦を引きずり重苦しい沈滞ムードが蔓延っていたという。この状況を打開するには教育改革しかないと考え、その道での先進国イギリスへ視察に出かけたのである。目的はイギリスのパブリックスクールを見るためである。フランスと違って当時イギリスの学生は、積極的に紳士的にスポーツに取り組んでいた。このことに感銘を受けたクーベルタンは「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と確信に至るのである。さらに新興国であるアメリカにも行き受けた刺激も強烈であった。アメリカではヨーロッパのように階級、伝統、慣習に縛られてなく古代ギリシャの都市国家の自由さに似ていると感じたのである。そこでスポーツを通じて教育改革を推し進める上で、より国際的競技会の構想が膨らんでくるのであった。世界各地を視察し、海外からの選手の招聘、交流試合等に携わることで、スポーツが果たしうるもう一つの役割である国際交流、平和が見えてきたということである。こうして古代オリンピックに倣い4年に1回、各国の選手が1か所に集結し、平和の祭典であるスポーツ競技大会を開く。即ち近代オリンピックが1896年にアテネで開催されることとなったのである。

 ここで考えられるのは今から100年以上前に近代オリンピックが始まっているということである。つまり、まだ人類の歴史に飛行機が存在しなかったという現実につきあたる。こんな時代にクーベルタンは国際的なスポーツ競技大会の開催を開いたことに意義があったのだと思う。これにより平和の意味がより助長されるのだ。おそらく当時はそれこそ船や鉄道での移動となるので、オリンピックの開催地まで何週間もかかっただろう。それでも開催する意義があったのだと思う。それに世界中から選手が集まってスポーツ競技大会を開くことなど初めてのことだっただろう。この状況そのものが偉大で在り行う価値があったものだと思う。

 さて、それから100年以上経過し21世紀の現在であるが、大陸間の移動も簡単になった。国際交流も容易になった。そして、ありとあらゆるスポーツの大会が世界中で年から年中開かれるようになり、各競技それぞれのプロが闊歩する時代である。今やオリンピック以外にも各競技に世界選手権、ワールドカップ、ワールドグランプリといった名の大会が存在する。オリンピックが唯一の世界大会でもなくなっている。何も今更、世界中の人が集って平和の祭典の中で国際交流をといったところで絵空事でしかない。それにメダル至上主義になり、参加までの過程が大事といって美化しても無意味である。そこで思うのだが、現代においてオリンピックが必要なのかどうかという問題を考えた場合、はたしてどうだろうか。

 正直なところ小生はもうオリンピックなんていらないと考える。もう本来のオリンピックの果たす意味は20世紀で終わっているような気がするのである。でもオリンピックは今も開催され続けている。それもより巨大になりイベント化され、よりショウ的要素を含め、金のかかるイベントとして、また儲かるイベントとしてまかり通るようになった。要は本来の目的から逸脱し、都市や国の発展、且つ潤うイベントとしてオリンピックは利用されるようになってしまったのである。それで現在はオリンピックの開催を立候補する都市が溢れてしまい、開催の招致にも大金が動く時代である。その招致には裏話があり駆け引きがある。結局は平和の祭典、国際交流の場だといっても本末転倒の巨大イベントでしかなくなってしまった。

 ただ中継すれば誰もが観てしまうし人を熱くする。オリンピックが嫌いだと言っておきながら、悔しいが知らぬ間にテレビ画面にくぎ付けになっている。それがオリンピックと言うものかもしれない。ただ小生はスポーツ中継はもとから好きだったのだが、だんだんと関心がなくなってきたというのもあるが・・・・・・・。
EDIT  |  17:27  |  時事  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

*Comment

コメントを投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメントを表示
 

*Trackback

この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック

 | BLOGTOP |