2014.05.18 (Sun)
長浜城、彦根城に行く
3月の末のことだが長浜城と彦根城に行ったので、その時のことを今頃になって記事にしてみることにする。
何で今頃になってかというと最近は出不精気味、それと筆不精というか、記事もあまり書いていないので突然、3月末に行ったお城のことを思い出し記事にしてみよと思っただけである。
長浜も彦根も滋賀県の北部。所謂、湖北地方で、3月上旬までは積雪があったところだ。3月も末になると雪はないけど肌寒さは残っている。大津あたりの湖南とは雰囲気も随分と違っていて、滋賀県は琵琶湖を中心にして南北に長いということを感じさせる。また京都からだと意外と遠く、滋賀県内の大津からでもかなり行くのに時間を要する。それに野洲までは電車の本数は多いが、それより先はもうローカル線そのものである。目に入るものは田畑ばかりで民家がちらほらとあるのみ。そこは何処にでもある日本の田舎の風景だ。1時間ほど電車に乗って米原に到着。そこから乗り換えて北陸線へ・・・。やっと長浜駅に着いた。人のあまりいない淋しい街だ。平日だったので駅前でも人があまりいない。滋賀県は人口が増え続けているというが、それは京都、大阪への通勤が可能な南部のみ。この北部と言ったら冬は豪雪地域で住みにくいというのもあるだろう。実際に大阪より名古屋へ行く方が近いぐらいで、若者も街を離れていくという。
そもそも長浜は今浜と呼ばれていてところに羽柴秀吉(豊臣秀吉)が1575年に主君の織田信長の長をとって長浜に改名し長浜城を築城。それと共に城下町として発展したところ。今は人口が12万人を超えるが、これは平成の2回による大合併により周辺の浅井町、びわこ町、虎姫町、湖北町、高月町、木乃本町、余呉町、西浅井町を吸収しての人口なので、1970年当時でも長浜の人口は11万人いたことを考えれば、この湖北地方一帯では大幅な人口減が見られる。したがって今の長浜市は滋賀県北部一帯に及び、面積においては大阪市のほぼ3倍。それでいて人口は22分の1という少なさである。実際、長浜駅の周辺だけ民家が密集しているが、あとは田園地帯。
その駅から近い湖岸に長浜城がある。そもそもはこの長浜城こそが秀吉最初の居城で、後の伏見城や大阪城を築城するにおいてその城下町も、この長浜で養ったことがその後に活かされている。ただ残念ながら市街地には幾つか、その頃の面影を残すが、当時のお城そのものは何も残ってなく現在の天守閣は1983年に犬山城、伏見城をモデルにして模擬復元されたものとされ、内部は例によって博物館となっている。また長浜市内には浅井長政が居城にした小谷城もあるが、長浜駅からだと車がないと行けないほど離れている。まあ、何れ訪れようとは思うが・・・・。
長浜から引き返して彦根に戻ってきた。彦根は長浜よりは繁華な街である。人口は11万人ほどであるが、市街地そのものは長浜とは比べられないほど賑やかであるとい言っても、大阪や阪神間の街の賑やかさと比べてもらっても困るが、滋賀県の湖北では賑やかな街の方である。彦根駅を降りて15分ほど歩くと彦根城の入口に到着する。実のところ彦根城に来るのは4回目である。最初は小学校4年の時の遠足で来た。当時、バスに乗って日本で最初の高速道路として開通した名神高速道路で京都南IC~栗東IC(まだ尼崎~栗東間しか開通していなかった)を経て一般道路に降りて長い時間バスに乗っていたような記憶がある。2回目は高校生の時の遠足で来た。この時もバスで行ったが既に東名も全通していた時代で、彦根ICから一般道経由で彦根城へ来た。3回目は大学生の時で仲間と共に電車で来た。すると彦根城に来るのは30何年振りだろうか。
そもそも徳川四天王の一人である井伊直政の嫡男である井伊直継の時代に、幼い直継に代わって家老の木俣安勝が徳川家康と相談して築城したのが彦根城である。開城は1606年で金亀城ともいわれ50mもの丘の上に天主閣が建てられた。それ以来、井伊家14代の居城となった。三層の天守閣は国宝で、大津城から移築したものとされ、その際、四層だったものを三層に縮小。またその他の天秤櫓も長浜城から、西ノ丸三重櫓は小谷城、太鼓門も観音寺城からの移築? ともいわれ、至る所コスト削減して築き上げられ城である。しかし文化財も多く、昭和になって再建された多くのお城とは一線を画している。
考えてみると太平洋戦争までは国内に20の現存天守閣があった。それが昭和20年のアメリカ軍の空襲で水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城の天守閣は何れも焼失。松前城は昭和24年の火事で焼失。結局、現存天守閣と言うのは12城。弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城であり全て重要文化財である。その中で国宝は松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城であることを思うと彦根城天守閣は実に貴重な建築物と言うことになる。
長浜城の天守閣。1983年に再建され館内は博物館になってる。
彦根城の天守閣に行くには、この石段を登らねばならない。
坂を上がると天秤櫓へと続く橋脚が目に入る。
橋を渡ると天秤櫓がある。この櫓は長浜城から移築したもので重要文化財に指定されている。
彦根城天守閣。これも大津城からの移築なのだが、全国で四つしかない国宝の天守閣の一つである。
彦根城から琵琶湖を望む。
何で今頃になってかというと最近は出不精気味、それと筆不精というか、記事もあまり書いていないので突然、3月末に行ったお城のことを思い出し記事にしてみよと思っただけである。
長浜も彦根も滋賀県の北部。所謂、湖北地方で、3月上旬までは積雪があったところだ。3月も末になると雪はないけど肌寒さは残っている。大津あたりの湖南とは雰囲気も随分と違っていて、滋賀県は琵琶湖を中心にして南北に長いということを感じさせる。また京都からだと意外と遠く、滋賀県内の大津からでもかなり行くのに時間を要する。それに野洲までは電車の本数は多いが、それより先はもうローカル線そのものである。目に入るものは田畑ばかりで民家がちらほらとあるのみ。そこは何処にでもある日本の田舎の風景だ。1時間ほど電車に乗って米原に到着。そこから乗り換えて北陸線へ・・・。やっと長浜駅に着いた。人のあまりいない淋しい街だ。平日だったので駅前でも人があまりいない。滋賀県は人口が増え続けているというが、それは京都、大阪への通勤が可能な南部のみ。この北部と言ったら冬は豪雪地域で住みにくいというのもあるだろう。実際に大阪より名古屋へ行く方が近いぐらいで、若者も街を離れていくという。
そもそも長浜は今浜と呼ばれていてところに羽柴秀吉(豊臣秀吉)が1575年に主君の織田信長の長をとって長浜に改名し長浜城を築城。それと共に城下町として発展したところ。今は人口が12万人を超えるが、これは平成の2回による大合併により周辺の浅井町、びわこ町、虎姫町、湖北町、高月町、木乃本町、余呉町、西浅井町を吸収しての人口なので、1970年当時でも長浜の人口は11万人いたことを考えれば、この湖北地方一帯では大幅な人口減が見られる。したがって今の長浜市は滋賀県北部一帯に及び、面積においては大阪市のほぼ3倍。それでいて人口は22分の1という少なさである。実際、長浜駅の周辺だけ民家が密集しているが、あとは田園地帯。
その駅から近い湖岸に長浜城がある。そもそもはこの長浜城こそが秀吉最初の居城で、後の伏見城や大阪城を築城するにおいてその城下町も、この長浜で養ったことがその後に活かされている。ただ残念ながら市街地には幾つか、その頃の面影を残すが、当時のお城そのものは何も残ってなく現在の天守閣は1983年に犬山城、伏見城をモデルにして模擬復元されたものとされ、内部は例によって博物館となっている。また長浜市内には浅井長政が居城にした小谷城もあるが、長浜駅からだと車がないと行けないほど離れている。まあ、何れ訪れようとは思うが・・・・。
長浜から引き返して彦根に戻ってきた。彦根は長浜よりは繁華な街である。人口は11万人ほどであるが、市街地そのものは長浜とは比べられないほど賑やかであるとい言っても、大阪や阪神間の街の賑やかさと比べてもらっても困るが、滋賀県の湖北では賑やかな街の方である。彦根駅を降りて15分ほど歩くと彦根城の入口に到着する。実のところ彦根城に来るのは4回目である。最初は小学校4年の時の遠足で来た。当時、バスに乗って日本で最初の高速道路として開通した名神高速道路で京都南IC~栗東IC(まだ尼崎~栗東間しか開通していなかった)を経て一般道路に降りて長い時間バスに乗っていたような記憶がある。2回目は高校生の時の遠足で来た。この時もバスで行ったが既に東名も全通していた時代で、彦根ICから一般道経由で彦根城へ来た。3回目は大学生の時で仲間と共に電車で来た。すると彦根城に来るのは30何年振りだろうか。
そもそも徳川四天王の一人である井伊直政の嫡男である井伊直継の時代に、幼い直継に代わって家老の木俣安勝が徳川家康と相談して築城したのが彦根城である。開城は1606年で金亀城ともいわれ50mもの丘の上に天主閣が建てられた。それ以来、井伊家14代の居城となった。三層の天守閣は国宝で、大津城から移築したものとされ、その際、四層だったものを三層に縮小。またその他の天秤櫓も長浜城から、西ノ丸三重櫓は小谷城、太鼓門も観音寺城からの移築? ともいわれ、至る所コスト削減して築き上げられ城である。しかし文化財も多く、昭和になって再建された多くのお城とは一線を画している。
考えてみると太平洋戦争までは国内に20の現存天守閣があった。それが昭和20年のアメリカ軍の空襲で水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城の天守閣は何れも焼失。松前城は昭和24年の火事で焼失。結局、現存天守閣と言うのは12城。弘前城、松本城、丸岡城、犬山城、彦根城、姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城であり全て重要文化財である。その中で国宝は松本城、犬山城、彦根城、姫路城の4城であることを思うと彦根城天守閣は実に貴重な建築物と言うことになる。
長浜城の天守閣。1983年に再建され館内は博物館になってる。
彦根城の天守閣に行くには、この石段を登らねばならない。
坂を上がると天秤櫓へと続く橋脚が目に入る。
橋を渡ると天秤櫓がある。この櫓は長浜城から移築したもので重要文化財に指定されている。
彦根城天守閣。これも大津城からの移築なのだが、全国で四つしかない国宝の天守閣の一つである。
彦根城から琵琶湖を望む。
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