2015.04.19 (Sun)
加山雄三を聴く
このタイトルからして珍しく思われるかもしれない。小生は洋楽一辺倒で聴いてきたから日本の歌手の曲なんてほとんど聴いてない。が、幼少の頃は親がラジオを聴いていたので春日八郎や三橋美智也、美空ひばり、島倉千代子なんていうのはよく知っていた。また当時の家にハンドル式の蓄音器があってSP盤で藤山一郎、ディック・ミネ、淡谷のり子、東海林太郎の曲なんてよく歌っていた。それが家にテレビが来た。昭和33年のことである。その頃に覚えた曲は『月光仮面』『まぼろし探偵』『少年ジェット』『鉄腕アトム(実写版)』『赤胴鈴之助』『少年探偵団』といった少年向けドラマの主題曲。または『ローハイド』『スーパー・マン』『ララミー牧場』等のアメリカの輸入ドラマのテーマ曲だった。またテレビでは歌番組が頻繁にあって、このころに多くの歌手を知ることとなる。やがて小生は小学校に上がる。
あれは昭和36年の秋だった。宝塚ファミリーランドという今はない遊園地に学校から遠足に行った時、当時に人気のあった坂本九と森山加代子が来ていたのを思い出す。みんなギャーギャー言い出す始末。小学校の低学年ならこんなものかな。高学年ならもっとワーワーキャーキャー言いだすだろうが・・・・。ちょうどその頃に『上を向いて歩こう』だとか『じんじろげ』『パイのパイのパイ』が流行っていたのでガキどもも顔と名前は知っていた。また映画にも連れて行ってもらって、時々は外国映画も観にっていたものだ。学校の仲間と東宝の怪獣映画を観に行ったのを覚えている。それが『大怪獣モスラ』だった。そもそも怪獣映画は『ゴジラ』から始まったのだが、その頃はまだ小生が生まれた頃で知る筈もなく、リアルタイムで観た最初の怪獣映画としては『モスラ』だったのだ。この時に双子歌手ザ・ピーナッツを知り、『シャボン玉ホリデー』をよく観るようになる。そしてクレ-ジー・キャッツの歌もよく歌った。また東宝映画で若大将シリーズの加山雄三の映画を何本か観ることとなる『ハワイの若大将』『海の若大将』『エレキの若大将』等。この時に母から戦前の大物俳優である上原謙の息子であることを教えられ、加山雄三の母も小桜葉子という女優で、芸能人の両親で生まれた加山雄三。映画を観てその名を知ることとなったのだが1966年(昭和41年)だった。ちょうそビートルズが来日すると言うので大騒ぎしていたころに加山雄三が颯爽とテレビの歌番組で出てきた。『君といつまでも』『夜空の星』『蒼い星くず』『お嫁においで』『夜空を仰いで』『旅人よ』・・・。時期も時期、スパイダースやブルー・コメッツ、寺内タケシといったエレキサウンドのグループ(GSと言われ出したのはもっと後だった)が出だした頃と時を同じくして。一方ではジョーン・バエズやPPMの影響でフォーク・ソングが密かに歌われ始めていた時代である。
加山雄三は盛んにヒット曲を連発していたので矢鱈テレビに出ては歌っていた。それもエレキを弾きながら。また曲名と作詞、作曲のテレップが画面に出て作詞・岩谷時子、作曲・弾厚作が気になって当時調べてみたら、加山雄三の作曲の時のペンネームであることを知る。加山雄三が尊敬する團伊玖磨、山田耕作、2人の名前を合わせてペンネームにしたという。つまり日本のシンガー・ソング・ライターの先駆け的な人であり、ちょうどビートルズが来日した時でもあり、自作自演することがステータスの様になっていた頃である。人気俳優の子として生まれ、ちゃっかり親の七光を利用しているようで実は親以上に色んな才能を持っていたというから羨ましい限りだ。光進丸という自ら設計した船舶を保有し操る姿が映画やテレビで披露され、日本で最初にサーフィンをした人として採り上げられ、スキーも上手く、ピアノも弾き、ウクレレも弾く、絵も描き、料理の腕も素人の域ではないというから、当時は恰好のいい兄貴的存在であり、多くの少年があのようになりたいと思っていたのも事実であろう。それ以外にも加山雄三の逸話は幾らでもあるが、ここでは語りきれない。ビートルズが来日した時に4人と一緒に会食したというし、何かとエピソードの事欠かない人である。本来は俳優なのだが、小生なんか加山雄三の映画は若大将シリーズの数本以外は黒澤明の『椿三十郎』『赤ひげ』ぐらいしか観たことがないので、テレビで自作の曲をランチャーズと共に歌っている姿ばかりが記憶にある。ヴェンチャーズと共演していたのもこの頃かな。その後はワイルド・ワンズを生みだし共演したり、今はバラエティ番組でよく顔を見かける。もう80歳近いというのに何時までも気が若いなあと敬服するばかりである。本当に~かわらないいつまでも~
なお加山雄三と言う芸名(本名・池端直亮)は加賀、富士山、英雄、小林一三(阪急・東宝創設者)から一字ずつ採られたと言われていたが本人曰く、祖母に姓名判断で付けてもらった名前らしい。、
『エレキの若大将』で『君といつまでも』を歌う。後にシングル盤が発売されたが~いつまでも~のところのメロディが違っている
『お嫁においで』
つい最近のテレビ番組でBABYMETALが好きだと言っていた。いや何時までも気が若いねえ(7.38あたり)。
あれは昭和36年の秋だった。宝塚ファミリーランドという今はない遊園地に学校から遠足に行った時、当時に人気のあった坂本九と森山加代子が来ていたのを思い出す。みんなギャーギャー言い出す始末。小学校の低学年ならこんなものかな。高学年ならもっとワーワーキャーキャー言いだすだろうが・・・・。ちょうどその頃に『上を向いて歩こう』だとか『じんじろげ』『パイのパイのパイ』が流行っていたのでガキどもも顔と名前は知っていた。また映画にも連れて行ってもらって、時々は外国映画も観にっていたものだ。学校の仲間と東宝の怪獣映画を観に行ったのを覚えている。それが『大怪獣モスラ』だった。そもそも怪獣映画は『ゴジラ』から始まったのだが、その頃はまだ小生が生まれた頃で知る筈もなく、リアルタイムで観た最初の怪獣映画としては『モスラ』だったのだ。この時に双子歌手ザ・ピーナッツを知り、『シャボン玉ホリデー』をよく観るようになる。そしてクレ-ジー・キャッツの歌もよく歌った。また東宝映画で若大将シリーズの加山雄三の映画を何本か観ることとなる『ハワイの若大将』『海の若大将』『エレキの若大将』等。この時に母から戦前の大物俳優である上原謙の息子であることを教えられ、加山雄三の母も小桜葉子という女優で、芸能人の両親で生まれた加山雄三。映画を観てその名を知ることとなったのだが1966年(昭和41年)だった。ちょうそビートルズが来日すると言うので大騒ぎしていたころに加山雄三が颯爽とテレビの歌番組で出てきた。『君といつまでも』『夜空の星』『蒼い星くず』『お嫁においで』『夜空を仰いで』『旅人よ』・・・。時期も時期、スパイダースやブルー・コメッツ、寺内タケシといったエレキサウンドのグループ(GSと言われ出したのはもっと後だった)が出だした頃と時を同じくして。一方ではジョーン・バエズやPPMの影響でフォーク・ソングが密かに歌われ始めていた時代である。
加山雄三は盛んにヒット曲を連発していたので矢鱈テレビに出ては歌っていた。それもエレキを弾きながら。また曲名と作詞、作曲のテレップが画面に出て作詞・岩谷時子、作曲・弾厚作が気になって当時調べてみたら、加山雄三の作曲の時のペンネームであることを知る。加山雄三が尊敬する團伊玖磨、山田耕作、2人の名前を合わせてペンネームにしたという。つまり日本のシンガー・ソング・ライターの先駆け的な人であり、ちょうどビートルズが来日した時でもあり、自作自演することがステータスの様になっていた頃である。人気俳優の子として生まれ、ちゃっかり親の七光を利用しているようで実は親以上に色んな才能を持っていたというから羨ましい限りだ。光進丸という自ら設計した船舶を保有し操る姿が映画やテレビで披露され、日本で最初にサーフィンをした人として採り上げられ、スキーも上手く、ピアノも弾き、ウクレレも弾く、絵も描き、料理の腕も素人の域ではないというから、当時は恰好のいい兄貴的存在であり、多くの少年があのようになりたいと思っていたのも事実であろう。それ以外にも加山雄三の逸話は幾らでもあるが、ここでは語りきれない。ビートルズが来日した時に4人と一緒に会食したというし、何かとエピソードの事欠かない人である。本来は俳優なのだが、小生なんか加山雄三の映画は若大将シリーズの数本以外は黒澤明の『椿三十郎』『赤ひげ』ぐらいしか観たことがないので、テレビで自作の曲をランチャーズと共に歌っている姿ばかりが記憶にある。ヴェンチャーズと共演していたのもこの頃かな。その後はワイルド・ワンズを生みだし共演したり、今はバラエティ番組でよく顔を見かける。もう80歳近いというのに何時までも気が若いなあと敬服するばかりである。本当に~かわらないいつまでも~
なお加山雄三と言う芸名(本名・池端直亮)は加賀、富士山、英雄、小林一三(阪急・東宝創設者)から一字ずつ採られたと言われていたが本人曰く、祖母に姓名判断で付けてもらった名前らしい。、
『エレキの若大将』で『君といつまでも』を歌う。後にシングル盤が発売されたが~いつまでも~のところのメロディが違っている
『お嫁においで』
つい最近のテレビ番組でBABYMETALが好きだと言っていた。いや何時までも気が若いねえ(7.38あたり)。
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