2016.06.04 (Sat)
モハメド・アリ死去
プロ・ボクシングの元世界ヘビー級チャンピオンだったモハメド・アリがアメリカのアリゾナ州フェニックスの病院で現地時間3日に亡くった。74歳。外国のボクシングの元世界チャンピオンが亡くなったぐらいで記事にするなと言われそうだが、我々の年代にとってはモハメド・アリというのは特別な意味があった。
何時の頃だろうか、モハメド・アリの名が出てきたのは。小生が小学生の頃だった。ボクシングの全盛期だったというか、日本ではテレビ局が週三回ボクシングの生中継を行っていた。ちょうどフライ級三羽烏が出てきた頃で、テレビの普及と共にボクシング人気が沸騰していて視聴率も高かったのである。でも当時、日本に世界チャンピオンはいなかった。今と違って統括団体が一つしかなく、階級も11階級しかない時代だから当然、世界チャンピオンの生まれる可能性も低い時代。今のように世界チャンピオンが60人~70人もいる訳ではない。したがって日本は最軽量のフライ級に逸材が揃っていて、盛り上がりがピークに達していた。そんな中で小学生だった小生も1番体重の重いヘビー級チャンピオンが最強であるということは知っていたが、まだ当時、ヘビー級の試合映像など観たこともなかった。一応、新聞とかの記事で世界ヘビー級チャンピオンはフロイド・パターソンだと言うことは知っていた。それがある日、ソニー・リストンがフロイド・パターソンを1RKOで破り新チャンピオンになったということを知ったときの衝撃は忘れない。まだ小学校の低学年だったが、新聞記事の興味あるところは読んでいるガキだった小生は、そのことを今でも覚えている。当時、海外のボクシング中継というのはテレビではなくラジオでやっていた時代であるが、これは日本人が世界タイトル戦を行うときに限り中継するので、外国人同士の試合など中継することもなかった。
それが、同じ年のことである。世界フライ級タイトルマッチが行われ、ファイティング原田がタイのポーン・キングピッチを11RKOに破り、日本人史上二人目の世界チャンピオンになった。この辺りから日本のボクシング界は異様な盛り上がりを見せるようになった。ちょうど東京オリンピック開催に向け、日本経済が右肩上がりの頃だった。すると東京オリンピック開催の年の1964年の初頭だったか、カシアス・クレイという若いボクサーがソニー・リストンを6R終了TKOで破り世界ヘビー級の新チャンピオンになったという記事を読んだ。そのときの記事では鋭い動きと共に速いフックとストレートを武器にリストンを翻弄したと書いてあったように思う。それも無敗での世界チャンピオン誕生と・・・・・。
するとクレイは次々と防衛回数を増やし王座に君臨するようになった。初めてクレイの映像を観たのはいつ頃だろうか。65年か66年だろうか。もうこの頃は世界ヘビー級タイトルマッチだけは日本でも例外的に人気があったので、試合の生中継をするようになっていた。初めて観たクレイの印象は背が高いこととフットワークがあることと、パンチにスピードがあること。とにかくクレイの対戦相手はベタ足で動きが遅いのに、クレイは中量級ボクサー並みの動きの速さから的確に速いワンツーを当て、相手が反撃に出ると瞬時にサッと避けるように動く。これを蝶のように舞い、蜂のように刺すと形容された。ビッグマウスで試合前に相手を罵り、付いたニックネームが法螺吹きクレイ。とにかくよく喋る。黙ってなく相手を口で攻撃し怒らせる。こんな選手だった。
ところがクレイはいつの間にか改名してモハメド・アリと呼ぶようになっていた。それはマルコムXと出会いイスラム教に改宗したからのようだ。またベトナム戦争が激化した頃で、徴兵拒否をしていた関係から、とうとう9度目の防衛を終えた後に世界タイトルが剥奪され、ライセンスも失いリングに上がれなくなっていた。とにかく口が達者で政治を批判しマスコミを罵り、リング外での方が当時は目立っていた。彼は一介のボクサーという括りでは狭すぎるカリスマ性を持っていたように思う。ただしいくらリング外で目立ってもリングには上げれない。アリが不在の間にジョー・フレージャーが世界チャンピオンにのし上がっていた。アリは3年7ヶ月のブランクの後リング界に復帰したが、全盛期を過ぎていて、動きもパンチもスピード往年のものではなかった。ジョー・フレージャーに挑戦したものの動きが鈍く、体重も増えていて15R判定負け。初の敗戦であった。ところがフレージャーが新進のジョージ・フォアマンに2RでKOされ、新チャンピオンの座を譲る。強打のファイターだと思っていたフレージャーを滅多打ちにしてKOしたジョージ・フォアマン。当時の印象からは長期王座の世界チャンピオンだろうという気がするほどの強さがあって、このフォアマンを倒す奴は当分出てこないと思えた。こんな全盛期のフォアマン(当時40戦全勝37KO)にロートル32歳のアリが挑戦したのだった。1974年の10月30日。アフリカはザイール(現コンゴ)のキンシャサで行われ、若くて勢いがあり猛烈なハードパンチャーだったフォアマンが圧倒的有利だった。しかし、試合は思わない展開になる。アリは舞うのをやめ、ロープを背にして顔をガードし、ボディを打たせた。フォアマンにパンチを打たせている間、相手を口で罵っている。それに釣られてフォアマンはさらにパンチをこれでもかというほど打ちまくるが、アリは倒れない。上手くパンチを紙一重の差で交わしきっている。大方の人はアリが3R持つかなと考えていただろうが、アリは序盤を凌いだ。フォアマンは当時、ほとんどの相手を3Rで倒していたほどの強打者だったが、序盤で倒せなかった焦りからスタミナを考えず、相変わらず打ちまくる。だが、空振りが目立つようになりアリの術中に填まっていくようになる。スタミナに陰りが見えてきた8R。フォアマンが息を抜いた瞬間である。アリが一気に反撃した。速いストレートが矢継ぎ早にフォアマンの顔面を三発四発捉えていた。するとフォアマンは回転するようにリングに倒れた。場内は騒然。フォアマンが立ち上がったときはカウント10でアリの右手が上がっていた。これこそ老獪アリの真骨頂だろう。若いときの溌剌さはなかったが戦術で若い強打者フォアマンを倒したのである。これが世にいうキンシャサの奇跡である。この日、小生は大学の講義をさぼって昼間のテレビ生中継を友人と食い入るように観ていたものだ。
この後、アリは引退をすれば良いのにと思いながらも何故か、引退せず何年間もリングに上がり続け、1981年まで現役だった。もう39歳になっていて、もう哀れというか鋭さの欠片もなく若いときのアリを覚えている者にとっては何時まで醜態をさらすのかという感じでしかなかった。色々と大金が必要だったのか、寄付するために闘っていたとか言われたが、理由はよくわからない。結局、その後遺症が引退してからも残りパーキンソン病となって現れる。1996年のアトランタ・オリンピックでの聖火最終点火者として現れたアリの姿を観た人は驚いただろう。アリは完全に手が震えていた。結局は通算56勝5敗。この5敗は全てカムバック以降のものであり、全盛期のブランクがなければ、成績は少し違っていたかもしれない。ただアリは史上最強ではないかもしれないが、史上最高に偉大なボクサーだといえるかもしれないし印象に最も強く残るボクサーであったといえよう。
カシアス・クレイの名でソニー・リストンを破って22歳で世界チャンピオンになった1964年の試合。往年の世界チャンピオン、ジョー・ルイス、ロッキー・マルシアノ、シュガー・レイ・ロビンソンの姿も見られる。
若きジョージ・フォアマンを倒して再び世界チャンピオンになったキンシャサの奇跡と言われる1974年の試合。このときアリは32歳。
何時の頃だろうか、モハメド・アリの名が出てきたのは。小生が小学生の頃だった。ボクシングの全盛期だったというか、日本ではテレビ局が週三回ボクシングの生中継を行っていた。ちょうどフライ級三羽烏が出てきた頃で、テレビの普及と共にボクシング人気が沸騰していて視聴率も高かったのである。でも当時、日本に世界チャンピオンはいなかった。今と違って統括団体が一つしかなく、階級も11階級しかない時代だから当然、世界チャンピオンの生まれる可能性も低い時代。今のように世界チャンピオンが60人~70人もいる訳ではない。したがって日本は最軽量のフライ級に逸材が揃っていて、盛り上がりがピークに達していた。そんな中で小学生だった小生も1番体重の重いヘビー級チャンピオンが最強であるということは知っていたが、まだ当時、ヘビー級の試合映像など観たこともなかった。一応、新聞とかの記事で世界ヘビー級チャンピオンはフロイド・パターソンだと言うことは知っていた。それがある日、ソニー・リストンがフロイド・パターソンを1RKOで破り新チャンピオンになったということを知ったときの衝撃は忘れない。まだ小学校の低学年だったが、新聞記事の興味あるところは読んでいるガキだった小生は、そのことを今でも覚えている。当時、海外のボクシング中継というのはテレビではなくラジオでやっていた時代であるが、これは日本人が世界タイトル戦を行うときに限り中継するので、外国人同士の試合など中継することもなかった。
それが、同じ年のことである。世界フライ級タイトルマッチが行われ、ファイティング原田がタイのポーン・キングピッチを11RKOに破り、日本人史上二人目の世界チャンピオンになった。この辺りから日本のボクシング界は異様な盛り上がりを見せるようになった。ちょうど東京オリンピック開催に向け、日本経済が右肩上がりの頃だった。すると東京オリンピック開催の年の1964年の初頭だったか、カシアス・クレイという若いボクサーがソニー・リストンを6R終了TKOで破り世界ヘビー級の新チャンピオンになったという記事を読んだ。そのときの記事では鋭い動きと共に速いフックとストレートを武器にリストンを翻弄したと書いてあったように思う。それも無敗での世界チャンピオン誕生と・・・・・。
するとクレイは次々と防衛回数を増やし王座に君臨するようになった。初めてクレイの映像を観たのはいつ頃だろうか。65年か66年だろうか。もうこの頃は世界ヘビー級タイトルマッチだけは日本でも例外的に人気があったので、試合の生中継をするようになっていた。初めて観たクレイの印象は背が高いこととフットワークがあることと、パンチにスピードがあること。とにかくクレイの対戦相手はベタ足で動きが遅いのに、クレイは中量級ボクサー並みの動きの速さから的確に速いワンツーを当て、相手が反撃に出ると瞬時にサッと避けるように動く。これを蝶のように舞い、蜂のように刺すと形容された。ビッグマウスで試合前に相手を罵り、付いたニックネームが法螺吹きクレイ。とにかくよく喋る。黙ってなく相手を口で攻撃し怒らせる。こんな選手だった。
ところがクレイはいつの間にか改名してモハメド・アリと呼ぶようになっていた。それはマルコムXと出会いイスラム教に改宗したからのようだ。またベトナム戦争が激化した頃で、徴兵拒否をしていた関係から、とうとう9度目の防衛を終えた後に世界タイトルが剥奪され、ライセンスも失いリングに上がれなくなっていた。とにかく口が達者で政治を批判しマスコミを罵り、リング外での方が当時は目立っていた。彼は一介のボクサーという括りでは狭すぎるカリスマ性を持っていたように思う。ただしいくらリング外で目立ってもリングには上げれない。アリが不在の間にジョー・フレージャーが世界チャンピオンにのし上がっていた。アリは3年7ヶ月のブランクの後リング界に復帰したが、全盛期を過ぎていて、動きもパンチもスピード往年のものではなかった。ジョー・フレージャーに挑戦したものの動きが鈍く、体重も増えていて15R判定負け。初の敗戦であった。ところがフレージャーが新進のジョージ・フォアマンに2RでKOされ、新チャンピオンの座を譲る。強打のファイターだと思っていたフレージャーを滅多打ちにしてKOしたジョージ・フォアマン。当時の印象からは長期王座の世界チャンピオンだろうという気がするほどの強さがあって、このフォアマンを倒す奴は当分出てこないと思えた。こんな全盛期のフォアマン(当時40戦全勝37KO)にロートル32歳のアリが挑戦したのだった。1974年の10月30日。アフリカはザイール(現コンゴ)のキンシャサで行われ、若くて勢いがあり猛烈なハードパンチャーだったフォアマンが圧倒的有利だった。しかし、試合は思わない展開になる。アリは舞うのをやめ、ロープを背にして顔をガードし、ボディを打たせた。フォアマンにパンチを打たせている間、相手を口で罵っている。それに釣られてフォアマンはさらにパンチをこれでもかというほど打ちまくるが、アリは倒れない。上手くパンチを紙一重の差で交わしきっている。大方の人はアリが3R持つかなと考えていただろうが、アリは序盤を凌いだ。フォアマンは当時、ほとんどの相手を3Rで倒していたほどの強打者だったが、序盤で倒せなかった焦りからスタミナを考えず、相変わらず打ちまくる。だが、空振りが目立つようになりアリの術中に填まっていくようになる。スタミナに陰りが見えてきた8R。フォアマンが息を抜いた瞬間である。アリが一気に反撃した。速いストレートが矢継ぎ早にフォアマンの顔面を三発四発捉えていた。するとフォアマンは回転するようにリングに倒れた。場内は騒然。フォアマンが立ち上がったときはカウント10でアリの右手が上がっていた。これこそ老獪アリの真骨頂だろう。若いときの溌剌さはなかったが戦術で若い強打者フォアマンを倒したのである。これが世にいうキンシャサの奇跡である。この日、小生は大学の講義をさぼって昼間のテレビ生中継を友人と食い入るように観ていたものだ。
この後、アリは引退をすれば良いのにと思いながらも何故か、引退せず何年間もリングに上がり続け、1981年まで現役だった。もう39歳になっていて、もう哀れというか鋭さの欠片もなく若いときのアリを覚えている者にとっては何時まで醜態をさらすのかという感じでしかなかった。色々と大金が必要だったのか、寄付するために闘っていたとか言われたが、理由はよくわからない。結局、その後遺症が引退してからも残りパーキンソン病となって現れる。1996年のアトランタ・オリンピックでの聖火最終点火者として現れたアリの姿を観た人は驚いただろう。アリは完全に手が震えていた。結局は通算56勝5敗。この5敗は全てカムバック以降のものであり、全盛期のブランクがなければ、成績は少し違っていたかもしれない。ただアリは史上最強ではないかもしれないが、史上最高に偉大なボクサーだといえるかもしれないし印象に最も強く残るボクサーであったといえよう。
カシアス・クレイの名でソニー・リストンを破って22歳で世界チャンピオンになった1964年の試合。往年の世界チャンピオン、ジョー・ルイス、ロッキー・マルシアノ、シュガー・レイ・ロビンソンの姿も見られる。
若きジョージ・フォアマンを倒して再び世界チャンピオンになったキンシャサの奇跡と言われる1974年の試合。このときアリは32歳。
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