2017.03.05 (Sun)
かまやつひろしが亡くなった
3月1日にムッシュこと・かまやつひろしが亡くなった。死因は膵臓がんだったという。それも何と78歳だったというから驚いた。かまやつひろしというと長い髪でひょうひょうとしてドラマに出ていたこともあり面白そうな人というイメージがあった。最初にかまやつひろしを知ったのは当然ザ・スパイダース時代である。昭和41年(1966年)にスパイダースの『夕陽が泣いている』のヒットによってである。これ以来テレビによく出るようになった。もちろんかまやつひろしは後ろでサイドギターを弾いていたのでそんなに目立つわけではない。目立っていたのはヴォーカルの堺正章と横でタンバリンを叩いていた井上順である。なにしろ7人組というから人数が多いなあと思った。こういった後にグループサウンズと呼ばれるようになるエレキギターのヴォーカルグループが出てきたのはこの辺りからだった。時を同じくしてブルー・コメッツの『青い瞳』『青い渚』もヒットしていたからグループ・サウンズの黎明期はこの頃になるのだろうか。またアマチュアの番組『勝ち抜きエレキ合戦』で優勝したザ・サベージも同じ頃出てきた。俳優・宇野重吉の息子(寺尾聰)がいるというので話題になった。そもそも日本でエレキバンドが流行出すのはザ・ヴェンチャーズが来日した後である。1965年だろうか。まだ歌謡曲と言い方が主流の時代でジャンル分けなんてなかった。それがアメリカからインストゥルメンタルのエレキバンド、ザ・ヴェンチャーズが来日して日本公演を行う。これに触発された若者の多くがエレキギターを手に取り演奏するようになった。このときに『勝ち抜きエレキ合戦』なんて番組がテレビで放映された。もう当時にビートルズやローリングストーンズ、アニマルズ、ビーチ・ボーイズの音楽も日本に入ってきていたが、ごくマニアの一部しか聴いていなかった時代である。多くの若者は日本のテレビで聴ける歌謡曲を主流に聴いていた。そして『勝ち抜きエレキ合戦』に出てくるバンドはイストゥルメンタルが主体でヴォーカル付きのバンドはほとんどなかった。日本のエレキブームはビートルズではなく飽くまでヴェンチャーズだったのである。そんな頃、すでにザ・スパイダースはヴォーカルをフィーチャーしたエレキバンドを組織してレコードを出していた。『フリフリ』がそうだがヒットにまで至らず知る人も少なかった。多くの日本人の若者は和製ポップスといわれるような歌謡曲の中でも洋楽風のサウンドを聴く人が増えてきた時代である。まだこの頃は演歌だとかいった形容もなく、商業音楽は全て歌謡曲。それ以外は洋楽と言われていた時代である。
さて1966年、日本の音楽シーンが大きく変わるようになる。ビートルズの来日である。それ以前からエレキブームは起こっていたが、ヴォーカル付きのエレキバンドが一躍若者に浸透していく。猫も杓子もエレキギターを弾きだし下手な歌を歌い始めた。また同時にフォークソング・ブームもやってくる。この頃が日本の商業音楽の一大転換期と言えるだろう。若者達が自ら作詞作曲をして歌い出すようになった。
ザ・スパイダースの話に戻ろう。ザ・スパイダースは田辺昭知が1961年に結成したバンドが元になっている。当時はブルー・コメッツにも言えるがバックバンドをやっていて目立つことはなかった。ところが1964年にリバプール・サウンドの洗礼を受け、スパイダースもそのサウンドを取り入れることになる。この頃に堺正章、大野克夫、かまやつひろし、井上順が加わり後のスパイダースの形となる。またこの頃だが後のワイルド・ワンズのリーダーだった加瀬邦彦もメンバーに名を連ねている。そして1965年にアルバムやシングル『フリ・フリ』を出すも大ヒットせず、結局、彼等が有名になるのは歌謡曲の大御所作曲家・浜口庫之助の『夕陽が泣いている』によってである。しかし、その次にはかまやつひろしの作曲による『なんとなくなんとなく』がヒットして、やっとスパイダースらしい音楽が出来るようになり人気も上がっていった。当時、このグループ・サウンズの御三家というのはスパイダース、ブルー・コメッツ、サベージであった。それがである1967年に入りタイガースがデビュー、さらにワイルド・ワンズ、テンプターズ、ゴールデン・カップス、カーナ・ビーツ、ジャガーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、オックス等、雨後の竹の子のようにバンドが現れ、瞬く間にスパイダースやブルー・コメッツ、サベージは目立たなくなってしまう。これをグループ・サウンズというようになり、エレキ=不良と言うレッテルを貼られるようになった。彼等の多くは長髪でまたオックスの赤松愛のように演奏中失神するといったこともあった。これで大人達の間ではGSへの風当たりがだんだんと強くなっていった。ブルコメ以外のバンドは紅白歌合戦に呼ばれなかった。まさに大人と若者との間に亀裂が生じだした最初の時代だろ。子供から一気に大人になるのではなく、その過程で若者の文化が芽生えていた。それまでの歌謡曲を言うのは世代間関係なく聴いていたが、この頃から若者が聴く音楽と大人が聴く音楽に分れていき、またそれぞれのジャンルが出来ていった。しかし、グループ・サウンズというのはまさにバブルであった。正直の話ブームは2年ほどしかなく、1969年にはGSブームは去っていて、代わりにフォークソングを歌う若者の方が主流であった。
ところでかまやつひろしであるが、彼は父がディーブ釜萢という有名なジャズシンガーであり、その息子と言うことで外国の音楽に子供の頃から傾倒していた。スパイダース時代も彼の作曲による『バン・バン・バン』『ノー・ノー・ボーイ』『あの時君は若かった』『いつまでもどこまでも』の曲がヒットしている。スパイダースはGS人気が消滅した1970年に解散。かまやつひろしはソロ活動を行うが、合間にテレビ出演。ドラマ『時間ですよ』の風呂焚きの釜田さん役は良い味を出していた。音楽活動も盛んで『シンシア』『我が良き友よ』ヒット曲もあり、その後も色んなところで目にしたのだが突然の訃報で驚いた。昨年の秋に肝臓癌が見つかってから体調が急激に悪くなったのだろう。
音楽的な素養については父・ディーブ釜萢からの影響もあるだろうが、母方の影響もある。従兄弟はフォーク・シンガーの森山良子だし、従甥は森山直太朗。また叔母はジャズ・シンガーの浅田陽子。従姪は元歌手の森山奈歩という音楽ファミリーである。こういった環境下からかまやつひろしは出てきたのである。羨ましくもあるが出るべくして出てきたような人なんだと思った。それにしてもかまやつひろしって78歳で死去ってことは、スパイダースで堺正章や井上順と歌の合間のコントをやっていた頃は30に近かったんだ。随分と気の若い人だったんだってことに正直驚いている。
『あの時君は若かった』この曲を聴くと、若かった頃に心から戻りたくなる。小生も年とって最近は少年時代を懐かしむようになった。
さて1966年、日本の音楽シーンが大きく変わるようになる。ビートルズの来日である。それ以前からエレキブームは起こっていたが、ヴォーカル付きのエレキバンドが一躍若者に浸透していく。猫も杓子もエレキギターを弾きだし下手な歌を歌い始めた。また同時にフォークソング・ブームもやってくる。この頃が日本の商業音楽の一大転換期と言えるだろう。若者達が自ら作詞作曲をして歌い出すようになった。
ザ・スパイダースの話に戻ろう。ザ・スパイダースは田辺昭知が1961年に結成したバンドが元になっている。当時はブルー・コメッツにも言えるがバックバンドをやっていて目立つことはなかった。ところが1964年にリバプール・サウンドの洗礼を受け、スパイダースもそのサウンドを取り入れることになる。この頃に堺正章、大野克夫、かまやつひろし、井上順が加わり後のスパイダースの形となる。またこの頃だが後のワイルド・ワンズのリーダーだった加瀬邦彦もメンバーに名を連ねている。そして1965年にアルバムやシングル『フリ・フリ』を出すも大ヒットせず、結局、彼等が有名になるのは歌謡曲の大御所作曲家・浜口庫之助の『夕陽が泣いている』によってである。しかし、その次にはかまやつひろしの作曲による『なんとなくなんとなく』がヒットして、やっとスパイダースらしい音楽が出来るようになり人気も上がっていった。当時、このグループ・サウンズの御三家というのはスパイダース、ブルー・コメッツ、サベージであった。それがである1967年に入りタイガースがデビュー、さらにワイルド・ワンズ、テンプターズ、ゴールデン・カップス、カーナ・ビーツ、ジャガーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、オックス等、雨後の竹の子のようにバンドが現れ、瞬く間にスパイダースやブルー・コメッツ、サベージは目立たなくなってしまう。これをグループ・サウンズというようになり、エレキ=不良と言うレッテルを貼られるようになった。彼等の多くは長髪でまたオックスの赤松愛のように演奏中失神するといったこともあった。これで大人達の間ではGSへの風当たりがだんだんと強くなっていった。ブルコメ以外のバンドは紅白歌合戦に呼ばれなかった。まさに大人と若者との間に亀裂が生じだした最初の時代だろ。子供から一気に大人になるのではなく、その過程で若者の文化が芽生えていた。それまでの歌謡曲を言うのは世代間関係なく聴いていたが、この頃から若者が聴く音楽と大人が聴く音楽に分れていき、またそれぞれのジャンルが出来ていった。しかし、グループ・サウンズというのはまさにバブルであった。正直の話ブームは2年ほどしかなく、1969年にはGSブームは去っていて、代わりにフォークソングを歌う若者の方が主流であった。
ところでかまやつひろしであるが、彼は父がディーブ釜萢という有名なジャズシンガーであり、その息子と言うことで外国の音楽に子供の頃から傾倒していた。スパイダース時代も彼の作曲による『バン・バン・バン』『ノー・ノー・ボーイ』『あの時君は若かった』『いつまでもどこまでも』の曲がヒットしている。スパイダースはGS人気が消滅した1970年に解散。かまやつひろしはソロ活動を行うが、合間にテレビ出演。ドラマ『時間ですよ』の風呂焚きの釜田さん役は良い味を出していた。音楽活動も盛んで『シンシア』『我が良き友よ』ヒット曲もあり、その後も色んなところで目にしたのだが突然の訃報で驚いた。昨年の秋に肝臓癌が見つかってから体調が急激に悪くなったのだろう。
音楽的な素養については父・ディーブ釜萢からの影響もあるだろうが、母方の影響もある。従兄弟はフォーク・シンガーの森山良子だし、従甥は森山直太朗。また叔母はジャズ・シンガーの浅田陽子。従姪は元歌手の森山奈歩という音楽ファミリーである。こういった環境下からかまやつひろしは出てきたのである。羨ましくもあるが出るべくして出てきたような人なんだと思った。それにしてもかまやつひろしって78歳で死去ってことは、スパイダースで堺正章や井上順と歌の合間のコントをやっていた頃は30に近かったんだ。随分と気の若い人だったんだってことに正直驚いている。
『あの時君は若かった』この曲を聴くと、若かった頃に心から戻りたくなる。小生も年とって最近は少年時代を懐かしむようになった。
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