2008.04.26 (Sat)
北京オリンピック聖火リレーIN長野
世界各地で騒動を巻き起こしている北京オリンピックの聖火リレーが、とうとう長野にやってきて、今日、その聖火リレーが約4時間に渡って行われた。道中、色々とあったが、物々しい警備の中、無事、目的地まで運ばれ、どうにか終わったようだ。
スタート前から中国人留学生約3000人以人が長野に詰めかけ、聖火リレーの行われる道路わきに散らばって赤い五星紅旗を振りかざし、「中国バンザイ、北京オリンピック、バンザイ」を叫ぶかと思えば、かたやチベット人とチベット支援者がチベットの旗(雪山獅子旗)を降り、「チベット解放」と叫ぶ。お互いの怒号が飛び交う中、静かに聖火リレーが始まった。ただ聖火ランナーの周囲は二重三重の警備で、市民と距離を隔てて、淡々と行われていたように見えた。でも、途中、紙束が投げられたり、生卵が投げられたり、聖火のランナーの群れに乱入して取り押さえられる男。またトマトを投げて逮捕される男。中国人の集団とチベット支援者との小競り合いも起こり、怪我をして救急車で運ばれる者もいたという。これらのいざこざは聖火リレーの始まる前から予想されたとはいえ、警備は厳重で万全である。だが、日本でも静かに行事が運ばれるとはいかなかったようだ。また、それがまたオリンピックというものかもしれないが・・・・。
よくオリンピックはスポーツの祭典で、政治とは切り離されるべきだというが、それは不可能である。そもそもオリンピックなんて、最初から政治ありきであって、国家がいつも前面に出てくるではないか。平和のためのオリンピックであるなんて、建前を言っても所詮、オリンピックを利用している政治家がいるから、政治とオリンピックを切り離して考えるなんて無理だろう。
近代オリンピックが始まったのは1896年だから112年前のことになる。クーベルタン男爵の考案により、古代ギリシャで行われていたオリンピックを現代に甦らせたということになるのだろう。それはスポーツの祭典で、4年に1回、開催都市に世界中からアスリートが集まって、各競技で覇権を争うという。それはそれまでになかった試みで、20世紀の時代になり、世界中に広まったスポーツの向上に一役買ったことになる。だから4年に1回、世界各地から集まって競うということに意味があったのだ。だが、それは何時の間にか巨大イベント化し、政治が利用するのに好都合なスポーツの祭典となった。
1936年には、かのナチス・ドイツがベルリン・オリンピックを開催した。ヒトラー総統率いるナチス・ドイツは、このオリンピックでナチス・ドイツの力を世界に見せ付けるのに大いに利用しようとしたのだ。実は聖火リレーは、このオリンピックで始まったものだけども、ギリシャのオリンピアで採火された聖火を、ランナーのリレーによって開催都市まで運ぶということをやり始めた。そして、このオリンピックのドキュメント映画を、当時の女優で映画監督のレニ・リーフェンシュタールに撮らせたのである。この映画は後年に上映され、オリンピックを記録した映画(民族の祭典、美の祭典の二部作)としては最高傑作とされている。ナチス・ドイツはドイツの力を見せんとばかり、金メダル至上主義を掲げ、米英打倒に躍起になった。陸上男子100mでは、アメリカの黒人ジェシー・オーエンスが圧勝したが、ヒトラーは気分を害し、さっさと競技場から姿を消したという。
つまりこの頃からオリンピックというのは政治が介入し、平和の祭典といいながら、政治の目的手段として使われてきたのだ。だから今さら北京オリンピックが胡散臭いといったってはじまらない。北京がオリンピックを開催する目的も、国威発揚と決まっていて、北京市民の生活を蔑ろにしてまで開催を優先しているのだ。このような事態になることは、北京にオリンピック開催が決定した時から解っていたことだ。
当時、IОC会長のサマランチと中国側は蜜月関係にあったとも言われ、2008年のオリンピックに北京が立候補したことで、すでに開催は決定していたとも考えられる。つまりオリンピックは最初に国家ありきなのである。ただ、ここでオリンピックのあるべき姿や存在価値をここで述べても仕方がないだろう。オリンピックは今や世界が注目する大イベントであり、儲かる祭典であり、街を大いにアピールする上でこれ以上のものはない機会なのである。だから世界のどこの街もオリンピックを招致して、開催権を獲得するのに大枚を叩くのである。たとえどんな汚い手を使ってもオリンピックを開催することで、街には箔がつくというものなので、ゴリ押しをしてまで開催しようとするのだ。
だからオリンピックは、スポーツの祭典で平和の祭典で、政治とは無関係なんてことはけしてないのであって、各国とも金メダルを幾つ獲ったかなんてくだらないことを張り合っているのがオリンピックなのである。だから私はオリンピックは嫌いなのだ。
でも、スポーツは好きなんだが、何故かオリンピックは嫌いなのである。それは、この時とばかり頭を擡げるナショナリズムが好きになれないからだ。日頃、鳴りを潜める日の丸が、テレビの画面で大写しになり、勝てば勝ったで君が代が斉唱される。それで日本人でよかったなんて妙に感動する。でも私は、このような現象に辟易してしまう。
50年前ならいざ知らず、国際化社会になって地球がだんだんと狭くなっている時代に、国家を前面に押し立てて、あたかも代理戦争であるかのように、国を挙げて勝とうとする先に何があるのか・・・・。確かに平和のシンボルであり、平和であるがために行われる祭典であるが、国旗掲揚とか国歌斉唱とか、何かと国家、国家が謳歌されるオリンピック。時々、国家って言うのはそんなに大事なものなのかと問いたくなる。せめてオリンピックは個人やチームに対しての栄誉を称えるべきであろう。また、国家プロのような選手がいて、子供の頃から専門的に育成されて、金メダルを獲ることによって将来の生活までが保障されるという国が少なくない。
もう21世紀になって8年目である。オリンピックの在り方もそろそろ変わって行かなくては、何時までも平和のスポーツ祭典でいられなくなるだろう。現代、ありとあらゆるスポーツで世界選手権やワールド・カップたるものがあって、それらは毎年のように開催されている。だから今さら、スポーツの百貨店のようなオリンピックを開いたからって、今の選手は40年も50年も前の選手とは違うだろう。昔は、それこそ頻繁に強豪同士が顔を合わして競うことはなかったから、オリンピックも価値があったのだ。でも今は、オリンピックの間には世界選手権もあるし、ワールド・カップやワールド・グランプリのような大会が頻繁にある。だからオリンピックを開いたからって、かつてのような意味合いがあるのかとさえ思ってしまう。
ただオリンピックという冠を大会の頭にかぶせれば、莫大なテレビの放映料も入るし、世界中から大いに注目される。それに五輪旗が翻るだけで他の大会とは大きく区別される。それだけではないのか・・・・・・・・。
たぶん私は北京オリンピックの中継は観ないだろう。もうクーベルタンが考案した当時のオリンピックではない。完全に五輪憲章から逸脱してしまい。超巨大な大国エゴに蝕まれた醜いスポーツ大会となってしまった。だから北京オリンピックの聖火リレーが妨害されようが、どうなろうが知ったことではない。もう興味が無いのだ・・・・・・・。それを言いたかっただけである。
スタート前から中国人留学生約3000人以人が長野に詰めかけ、聖火リレーの行われる道路わきに散らばって赤い五星紅旗を振りかざし、「中国バンザイ、北京オリンピック、バンザイ」を叫ぶかと思えば、かたやチベット人とチベット支援者がチベットの旗(雪山獅子旗)を降り、「チベット解放」と叫ぶ。お互いの怒号が飛び交う中、静かに聖火リレーが始まった。ただ聖火ランナーの周囲は二重三重の警備で、市民と距離を隔てて、淡々と行われていたように見えた。でも、途中、紙束が投げられたり、生卵が投げられたり、聖火のランナーの群れに乱入して取り押さえられる男。またトマトを投げて逮捕される男。中国人の集団とチベット支援者との小競り合いも起こり、怪我をして救急車で運ばれる者もいたという。これらのいざこざは聖火リレーの始まる前から予想されたとはいえ、警備は厳重で万全である。だが、日本でも静かに行事が運ばれるとはいかなかったようだ。また、それがまたオリンピックというものかもしれないが・・・・。
よくオリンピックはスポーツの祭典で、政治とは切り離されるべきだというが、それは不可能である。そもそもオリンピックなんて、最初から政治ありきであって、国家がいつも前面に出てくるではないか。平和のためのオリンピックであるなんて、建前を言っても所詮、オリンピックを利用している政治家がいるから、政治とオリンピックを切り離して考えるなんて無理だろう。
近代オリンピックが始まったのは1896年だから112年前のことになる。クーベルタン男爵の考案により、古代ギリシャで行われていたオリンピックを現代に甦らせたということになるのだろう。それはスポーツの祭典で、4年に1回、開催都市に世界中からアスリートが集まって、各競技で覇権を争うという。それはそれまでになかった試みで、20世紀の時代になり、世界中に広まったスポーツの向上に一役買ったことになる。だから4年に1回、世界各地から集まって競うということに意味があったのだ。だが、それは何時の間にか巨大イベント化し、政治が利用するのに好都合なスポーツの祭典となった。
1936年には、かのナチス・ドイツがベルリン・オリンピックを開催した。ヒトラー総統率いるナチス・ドイツは、このオリンピックでナチス・ドイツの力を世界に見せ付けるのに大いに利用しようとしたのだ。実は聖火リレーは、このオリンピックで始まったものだけども、ギリシャのオリンピアで採火された聖火を、ランナーのリレーによって開催都市まで運ぶということをやり始めた。そして、このオリンピックのドキュメント映画を、当時の女優で映画監督のレニ・リーフェンシュタールに撮らせたのである。この映画は後年に上映され、オリンピックを記録した映画(民族の祭典、美の祭典の二部作)としては最高傑作とされている。ナチス・ドイツはドイツの力を見せんとばかり、金メダル至上主義を掲げ、米英打倒に躍起になった。陸上男子100mでは、アメリカの黒人ジェシー・オーエンスが圧勝したが、ヒトラーは気分を害し、さっさと競技場から姿を消したという。
つまりこの頃からオリンピックというのは政治が介入し、平和の祭典といいながら、政治の目的手段として使われてきたのだ。だから今さら北京オリンピックが胡散臭いといったってはじまらない。北京がオリンピックを開催する目的も、国威発揚と決まっていて、北京市民の生活を蔑ろにしてまで開催を優先しているのだ。このような事態になることは、北京にオリンピック開催が決定した時から解っていたことだ。
当時、IОC会長のサマランチと中国側は蜜月関係にあったとも言われ、2008年のオリンピックに北京が立候補したことで、すでに開催は決定していたとも考えられる。つまりオリンピックは最初に国家ありきなのである。ただ、ここでオリンピックのあるべき姿や存在価値をここで述べても仕方がないだろう。オリンピックは今や世界が注目する大イベントであり、儲かる祭典であり、街を大いにアピールする上でこれ以上のものはない機会なのである。だから世界のどこの街もオリンピックを招致して、開催権を獲得するのに大枚を叩くのである。たとえどんな汚い手を使ってもオリンピックを開催することで、街には箔がつくというものなので、ゴリ押しをしてまで開催しようとするのだ。
だからオリンピックは、スポーツの祭典で平和の祭典で、政治とは無関係なんてことはけしてないのであって、各国とも金メダルを幾つ獲ったかなんてくだらないことを張り合っているのがオリンピックなのである。だから私はオリンピックは嫌いなのだ。
でも、スポーツは好きなんだが、何故かオリンピックは嫌いなのである。それは、この時とばかり頭を擡げるナショナリズムが好きになれないからだ。日頃、鳴りを潜める日の丸が、テレビの画面で大写しになり、勝てば勝ったで君が代が斉唱される。それで日本人でよかったなんて妙に感動する。でも私は、このような現象に辟易してしまう。
50年前ならいざ知らず、国際化社会になって地球がだんだんと狭くなっている時代に、国家を前面に押し立てて、あたかも代理戦争であるかのように、国を挙げて勝とうとする先に何があるのか・・・・。確かに平和のシンボルであり、平和であるがために行われる祭典であるが、国旗掲揚とか国歌斉唱とか、何かと国家、国家が謳歌されるオリンピック。時々、国家って言うのはそんなに大事なものなのかと問いたくなる。せめてオリンピックは個人やチームに対しての栄誉を称えるべきであろう。また、国家プロのような選手がいて、子供の頃から専門的に育成されて、金メダルを獲ることによって将来の生活までが保障されるという国が少なくない。
もう21世紀になって8年目である。オリンピックの在り方もそろそろ変わって行かなくては、何時までも平和のスポーツ祭典でいられなくなるだろう。現代、ありとあらゆるスポーツで世界選手権やワールド・カップたるものがあって、それらは毎年のように開催されている。だから今さら、スポーツの百貨店のようなオリンピックを開いたからって、今の選手は40年も50年も前の選手とは違うだろう。昔は、それこそ頻繁に強豪同士が顔を合わして競うことはなかったから、オリンピックも価値があったのだ。でも今は、オリンピックの間には世界選手権もあるし、ワールド・カップやワールド・グランプリのような大会が頻繁にある。だからオリンピックを開いたからって、かつてのような意味合いがあるのかとさえ思ってしまう。
ただオリンピックという冠を大会の頭にかぶせれば、莫大なテレビの放映料も入るし、世界中から大いに注目される。それに五輪旗が翻るだけで他の大会とは大きく区別される。それだけではないのか・・・・・・・・。
たぶん私は北京オリンピックの中継は観ないだろう。もうクーベルタンが考案した当時のオリンピックではない。完全に五輪憲章から逸脱してしまい。超巨大な大国エゴに蝕まれた醜いスポーツ大会となってしまった。だから北京オリンピックの聖火リレーが妨害されようが、どうなろうが知ったことではない。もう興味が無いのだ・・・・・・・。それを言いたかっただけである。
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