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2008.08.24 (Sun)

人見絹枝とは・・・・・

 北京オリンピックも今日で終わる。私は中継を皆目、観なかったのでその詳細までを知ることはないが、毎朝、テレビでその結果が嫌が上でも報道されるから、ある程度はニュースが入ってくる。でも北京オリンピックには興味が無いといったから、ほとんど何の感想も無いのだが、昨日の朝のニュースで、陸上男子400mリレーで日本チームが銅メダルを獲得したというニュースを聞いて、思わず「ウソ!」と叫んでしまった。でもニュース映像を観ると銅メダルに輝いたのは事実で、正直いって驚いた。

 ただアメリカ、イギリス、ナイジェリア、フランス、イタリアといった強豪チームが相次いでバトンリレーに失敗し、棚からぼた餅式に強豪が敗退し、日本が繰り上がって銅メダルに輝いたことを知ったのは、その後のことであるが、それでも銅メダルには違いない。まさに日本の陸上では80年ぶりの快挙という。過去、日本はオリンピックの陸上競技で、メダルに輝いたことは何度かあるが、そのほとんどが三段跳び、走り幅跳び、棒高跳び、ハンマー投げとっいったフィールド種目であり、あとは競技場外を走るマラソンでのメダルに限られていた。それで今回、トラック種目で日本男子初のメダル獲得に輝いた塚原、末続、高平、朝原の4人を讃えると共に、私は80年前の女性メダリストの名前を思い出したのである。その人こそが人見絹枝である。

 今回の400mリレーは80年ぶりの快挙だといわれたが、突如として名前の挙がった人が80年前のメダリスト人見絹枝である。でも今の人は名前さえも知らないだろうし、そんな天才アスリートがいたことさえ信じないかもしれない。その人こそがオリンピックで日本人史上ただ一人、トラック種目でメダルを獲得した人見絹枝である。それで私は今回、人見絹枝のことで少し記事を書いてみようと思ったのである。

 私が小学生の頃、東京オリンピックが開催されたが、まだあの当時は日本人初の金メダリスト織田幹雄(三段跳び)が健在であったし、南部忠平、金栗四三、西田修平、村社講平、田島直人といった陸上競技界の重鎮が生きていて、この人たちがテレビに出演すると必ずと言っていいほど名を出す人がいた。その人が人見絹枝であった。そして異口同音に言うことは、稀代の天才アスリートであったということだ。とにかく驚異的な日本人女性であったという。

 人見絹枝は明治40年(1907年)に岡山で生まれ、子供の頃から抜群の運動神経をしていたという。岡山県立高等女学校ではテニスの選手として活躍していたが、類希な才能を活かして陸上競技に出場するようになる。そして1924年には女子三段跳びで10m33の世界記録を出す。さらに翌年の1925年、三段跳びの自らの世界記録を破る(11m62)。

 1926年には大毎新聞(大阪・毎日新聞)に記者として入社。スウェーデンのゴールテンブルグで開催された第2回国際女子陸上競技大会に出場した。その大会で人見絹枝は走り幅跳び5m50(世界記録)で優勝。立ち幅跳び2m47で優勝。円盤投げ32m62で2位。100ヤード走12秒0で3位。60m走5位。250走35秒で6位となり個人総合優勝を果たす。

 そして1928年(昭和3年)には100m12秒2、走り幅跳び5m98と2つの世界記録を出し、同年夏の第9回アムステルダム・オリンピックに出場するのである。人見絹枝が出場するのは女子100m。当時の世界記録を持っていたので、日本での期待度は大きかった。だが、よりによって彼女は準決勝で4位になり敗退。彼女は号泣し「この成績だと日本に帰れない」と言ったという。同じ大会に出ていた南部忠平や織田幹夫たちに、人見絹枝は走ったことも無い800m走に急遽出ると言い出した。周囲は反対したが、彼女の意志は強く、短距離の選手が中距離の種目に出ることになった。

 そしてたてた作戦が、1周目はみんなについていって、2周目に勝負をかけるというものであった。予選を突破して、決勝へ・・・・・。だが人見絹枝は100mの世界記録保持者である。スタートから知らぬ間に先頭に立っていた。これだと最後までもたないというので、織田や南部が「下がれ!下がれ!」と人見絹枝に向って叫んだという。結局、彼女はラストスパートでドイツのラトケに続いてゴールし、2分17秒6のタイムで銀メダルに輝いたのである。この時の話であるが、ゴールした女子選手はみんなバッタリと倒れ、起き上がることが出来なかった。それで女子に800mはきつ過ぎるという事になり、その後、1960年のオリンピックで復活するまで女子800mは行なわれることがなかった。でも今では女子マラソンが当たり前のように行なわれているので隔世の感がある。

 帰国した人見絹枝は記者である本業を活かし、オリンピックの記事を書いたり、全国に講演に出かけ、また女子選手の発展に貢献しようとした。

 1930年には後輩の女子選手も育ってきて、プラハで行なわれた第3回万国女子オリンピックにチームとして参加した。でもこの時は天候が不順で、雨がちの天気であった。あいにく風邪をひいていて咳に悩まされていた人見絹枝は後輩日本人選手と共に出場したものの、後輩選手の相次いだ予選落ちの中、孤軍奮闘した。60m、100m、200m、走り幅跳び、三種競技、やり投げ等、6種目に出て、走り幅跳びに優勝。だが体調不良のため、あとの競技では優勝することが出来なかった。

 1930年9月25日、彼女達一向はロンドからの船で帰国の途につく。だがこの時に、マルセイユで受け取った日本の新聞を見て人見絹枝は愕然とする。日本の新聞に大きなことをいっておきながら、成績が揮わなかったというので扱き下ろされたのである。この時、人見絹枝は「あまりにも故郷の人は勝負にとらわれ過ぎる」といった感想を持っていたという。

 帰国した人見絹枝は多忙を極めていた。1930年秋から1931年冬にかけて、新聞に連載記事を書く合間、京都、大津、名古屋、東京、高知、徳島と講演につぐ講演。新幹線どころか長距離電車も走ってない時代である。蒸気機関車で各地の講演に出かけて行った。雄弁家でいて天才アスリートである故に、人気もあり、また断れなかったという。

 1931年の3月、人見絹枝は体調も優れず、講演の傍ら大阪の十三から尼崎の塚口へ引越しをしたと父の猪作の手記に書いてある。ところが翌月の4月、喀血し助膜炎、肺炎を併発して阪大病院に入院した。かなり病魔は進んでいた模様で、疲労困憊していた彼女の病室の名札には軽井直子の名札がかけられてあったという。

 そして、1931年8月1日、乾酪性肺炎により人見絹枝は逝去する。まだ24歳であった。なんと短すぎる一生であっただろうか・・・・・。亡くなった8月1日は奇しくも彼女が、3年前に銀メダルを獲得したアムステルダム・オリンピック800m決勝の日であった。

 その後、彼女を失った日本の女子陸上界は進歩の度合いが遅れた。日本の女子陸上界にとって彼女の早すぎる死は大きな痛手であった。その後、トラック競技でオリンピック・メダリストに輝いた日本人選手は皆無であった。そして、ようやく80年目にして男子400mリレーで銅メダル獲得とあいなったが、このように考えると人見絹枝という人は、如何に凄い選手であったかということが、これで説明がつくであろう。後にも先にも彼女以外、日本人が陸上のトラック種目でメダルを獲った人がいないのだから、おそらく空前絶後の天才アスリートとっいってもいいだろう。とにかく当時の日本人女性の規範から外れた規格外の女性で、身長が170㎝強、体重56kg、大正末期、昭和初期の女性の平均身長は140cm程度だったから、体格も欧米の女性並かそれ以上だったといわれる。そこへ持ってきて、天性の運動神経が備わっていて、短距離種目だけにとどまらず跳躍、投てき種目まで世界水準であったという。おそらく日本の陸上界に突如として現れ、異次元の強さを持っていた選手ではないだろうか・・・・。今日でも彼女の記録は、幾つかの種目で現在の日本記録とあまり遜色が無いことを考えると、このような世界的女性アスリートが日本に存在したことが信じられない。だが、あまりにも短命であったがため、彼女の真実の姿を今日では知ることが出来ずに残念ではある。もし彼女が戦後も生き続けていたとしたら、その後の陸上界に何を思っただろうか・・・・・・・・。まさに不毛の日本の女子陸上界に輝く一等星というべき存在、それが人見絹枝だったのである。


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*Comment

♪はじめまして

 あまっこさん、はじめまして。
人見絹枝という人は男性説まで出るほど、記録がスバ抜けだアスリートだったようです。確かに体つきも記録も当時の女性の水準からはかけ離れていましたが、まあ男性説は芸能ネタの水準の域を出ていないでしょう。だから私は否定します。でも、突然変異でこの世に現れた女性アスリートというべきでしょうか。まさに100年に一人と言ってもいい天才アスリートでしょう。でも岡山は、人見絹枝といい有森裕子といい、木原美知子といい、森末慎二といい、辰吉丈一郎といい、星野仙一といいスケールの大きなスポーツマンが良く出てきます。それは気候が温暖で、性格が温厚で、大陸的な性格の人が多いからなのでしょうか・・・・・・・。そのへんは仮説の域を出ませんが。

 競馬観戦歴は小学生の頃からで、40年以上になります。福永祐一が父・福永洋一に並ぶところまでやってきたんですねえ。ついこの前にデビューしたと思っていたのですが。稀代の天才騎手と呼ばれた父・福永洋一が騎手生命を断たれて、来年でちょうど30年になります。その頃、幼児であった福永祐一君が騎手デビューして、父の記録に並ぼうとしているというのも感慨深いものがあります。彼は天才の息子として色々と言われますが、彼は彼なりに活躍していると思います。まあ、父の変幻自在の騎乗と比較すると、物足りなさはありますが・・・・・。もうそろそろ中堅騎手ですから、ここらでそろそろビッグレースを片っ端から勝つような活躍を見てみたいものです。
uncleyie |  2008.09.27(土) 09:33 |  URL |  【コメント編集】

♪人見絹枝

偶然、キーワード検索したらこの記事がヒットしました。

岡山の桃太郎スタジアムという大きな陸上競技場入口にも人見絹枝さんの銅像が立っていました。

もう80年以上前の人なのに凄い人なんですね!

名前は知っていましたが、記録を見て改めて驚きました!

競馬もやられるんですか?

福永祐一が父の記録に並ぶまでマジック1ですね!
あまっこ |  2008.09.27(土) 01:51 |  URL |  【コメント編集】

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