2008.10.03 (Fri)
名馬リボーのお話
今週の日曜日、凱旋門賞が行なわれ、そのレースに日本のメイショウサムソンも出走する。一昨年はディープインパクトの出走で、NHKがテレビ生中継を敢行した事で、競馬ファン以外の方にも知れ渡ったレースであるが、1920年に第1回が開催されて以来、数々の名馬を生んできた凱旋門賞である。おそらく今週の凱旋門賞もどのようなレースになるのか注目されるところであるが、過去の凱旋門賞馬の名前を見ると、それこそヨーロッパの名馬の歴史である。最近だとハリケーンランやエルコンドルパサーを破ったモンジューなんていうのも日本人には馴染み深いが、おそらく日本の競馬ファンで1番印象に残っている馬というとダンシングブレーヴかパントレセレブルではないだろうか。もっとも私の世代では、ヴェイグリーノーブルだとかミルリーフだとかアレフランス、アレッジド、スリートロイカズといった馬の方が印象深いが・・・・・・。でも私が凱旋門賞に勝った歴代の馬の中で、最高の名馬は何だろうかと問われると、間違いなくリボーの名前を挙げるだろう。それで今日はリボーという馬のお話をしようと思うのである。
まずそれではリボーを生産したフェデリコ・テシオの話から・・・・・・。フェデリコ・テシオは1869年に生まれたイタリアの馬産家である。1898年、そのテシオがイタリア北部マッジョーレ湖の近くにドルメロ牧場を開く。イタリアというとヨーロッパの中では競馬後進国である。生産頭数も少なく馬の実力もイギリス、フランス、アイルランドと比べると2流である。そんなイタリアでフェデリコ・テシオはサラブレッドの生産を始めたのである。だが、すぐに実績を上げ、イタリア全土で生産頭数300頭という時代にドルメロ牧場生産の各馬がイタリアの競馬場を暴れまくった。代表的な馬だけを羅列すると、スコパス(ミラノ大賞典)、デレアナ(伊1000ギニー、伊2000ギニー)、アペレ(伊ダービー)、カヴァリエレダルピノ(ミラノ大賞典)、ベリーニ(伊ダービー、伊セントレジャー)、ニッコロデラルカ(伊3冠)、ドナテロ(伊ダービー)、テネラニ(伊ダービー、伊セントレジャー)、ドーミエ(伊ダービー、伊セントレジャー)、トゥルーズロートレック(ミラノ大賞典)、トレヴィサナ(伊セントレジャー)、ボッティチェリ(伊3冠)・・・・・とテシオガ亡くなる1954年の春までにイタリアの大レースを総なめにしている。でも敢えて書かなかったが、最も有名なドルメロ牧場の生産馬といえばネアルコ(Nearco)であろう。このネアルコは、1935年に生まれ、2歳時にはイタリアで走り7戦7勝。翌年の3歳時にはイタリア2000ギニーとイタリア・ダービーを勝ち、ミラノ大賞典も勝ち、フランスのロンシャンへ遠征し、当時のフランス最高のレースであるパリ大賞典(3000m)に出走。同年のイギリス・ダービー馬ボアルセル、フランス・ダービー馬シラを相手に、問題にせず快勝して、ヨーロッパ最強を印象付けた。通算成績は14戦14勝。その後、ネアルコは種牡馬として大成功。20世紀の偉大なる種牡馬の1頭となる。
さて、ここまで書いてきて、いよいよ本編の主人公リボー(Ribot)の登場となるが、リボーが生まれたのは1952年である。つまりリボーがデビューする年の春にフェデリコ・テシオは亡くなっている。だからリボーの活躍を見ずしてテシオはこの世を去っているのである。ところでリボーとはフランスのあまり有名でない画家の名前からとられた名前で、テシオは自ら絵を描き美術愛好家でもあり、彼の生産した馬はほとんどが芸術家の名前をつけられている。
そんなリボーであるが父のテネラニ、母のロマネラ共にテシオ生産の馬であり、ドロメロ牧場ゆかりの血統といえそうだ。それで1952年に生まれたリボーであるが、残念ながら生まれつき小さい馬でクラシック登録もされず、イタリアのクラシック・レースには出れなかった。テシオはおそらく期待もしてなかったのだろう。でも成長してからは体高162.6、胸囲188.0と立派な体格でデビューから白星街道を突っ走った。2歳時はイタリアで走り3戦3勝。3歳になりクラシックに出走出来ないリボーは、エマヌエレ・フィリベルト賞を含めデビューから7戦7勝。そしていよいよ、フランスのロンシャンで行なわれる凱旋門賞に駒を進めた。リボーは好位につけ、直線コースに入りラストスパート。見事ボープリンス以下に3馬身をつける快勝で通算成績を8戦8勝とした。さらに3歳時、ジョッキー・クラブ大賞を一走りして楽勝。通算で9戦9勝とした。
それでリボーは芝生の深い起伏のあるイギリスの競馬場でも苦もなく突っ走り、2着に5馬身差をつける快勝。その後、リボーはレースを1つ勝って、通算で15戦15勝となり、20世紀のヨーロッパ無敗記録を更新したのである。そして、16戦目、最後のレースとして目標となったレースが前年にも勝っている凱旋門賞であった。リボーは2連覇を目指していた。リボーの出現前にはクサール(1921年~22年)、コリダ(1936年~37年)、タンティエーム(1950年~51年)と3頭しか成し遂げていない凱旋門賞2連覇。リボーはその偉業に挑戦した。
カミーチ騎手に操られたリボーは、この引退の花道を飾るのに相応しい凱旋門賞に出て、最後のストレートで狂ったように先頭に立った。リボーと後続とはあっという間に差が開き、2着タルゴとの着差は6馬身。まさに驚異的な爆発力で、あっさりと凱旋門賞2連覇を達成した。
こうしてリボーは凱旋門賞2連覇と16戦16勝の戦績を残し引退していったのである。まさしくサラブレッド生産弱小国のイタリアで、突然ふって沸いたように出現したリボーである。種牡馬となってからはアメリカで種牡馬生活を送り、その後にヨーロッパにも戻りるが、やはりリボーの産駒はアメリカよりも直線の長いヨーロッパに向いているようだ。数々の活躍馬を世に送り出したのである。生前テシオはリボーを見て「わからない、わからない」を連発し、「この馬には何かある」という見解を示していた。結局、ドルメロ牧場の最高傑作と言われるようになったリボーであるが、その現役時代を待たずして死んでしまったフェデリコ・テシオ。もし生きていればリボーをどのように評価していただろうか。とにかく驚異的な爆発力で、16戦全勝。2着につけた着差は通算で100馬身という。自己の生産馬ネアルコでさえ、あまり評価しなかったテシオが、リボーの活躍を目の当たりにすると、どのように思ったであろうか。まさしくリボーこそ20世紀最高の名馬の1頭で、フェデリコ・テシオ生産馬の最高傑作であるといっても過言ではないだろう。
1955年の凱旋門賞。
1956年のキング・ジョージⅥ&クイーン・エリザベスS。
1956年の凱旋門賞。
まずそれではリボーを生産したフェデリコ・テシオの話から・・・・・・。フェデリコ・テシオは1869年に生まれたイタリアの馬産家である。1898年、そのテシオがイタリア北部マッジョーレ湖の近くにドルメロ牧場を開く。イタリアというとヨーロッパの中では競馬後進国である。生産頭数も少なく馬の実力もイギリス、フランス、アイルランドと比べると2流である。そんなイタリアでフェデリコ・テシオはサラブレッドの生産を始めたのである。だが、すぐに実績を上げ、イタリア全土で生産頭数300頭という時代にドルメロ牧場生産の各馬がイタリアの競馬場を暴れまくった。代表的な馬だけを羅列すると、スコパス(ミラノ大賞典)、デレアナ(伊1000ギニー、伊2000ギニー)、アペレ(伊ダービー)、カヴァリエレダルピノ(ミラノ大賞典)、ベリーニ(伊ダービー、伊セントレジャー)、ニッコロデラルカ(伊3冠)、ドナテロ(伊ダービー)、テネラニ(伊ダービー、伊セントレジャー)、ドーミエ(伊ダービー、伊セントレジャー)、トゥルーズロートレック(ミラノ大賞典)、トレヴィサナ(伊セントレジャー)、ボッティチェリ(伊3冠)・・・・・とテシオガ亡くなる1954年の春までにイタリアの大レースを総なめにしている。でも敢えて書かなかったが、最も有名なドルメロ牧場の生産馬といえばネアルコ(Nearco)であろう。このネアルコは、1935年に生まれ、2歳時にはイタリアで走り7戦7勝。翌年の3歳時にはイタリア2000ギニーとイタリア・ダービーを勝ち、ミラノ大賞典も勝ち、フランスのロンシャンへ遠征し、当時のフランス最高のレースであるパリ大賞典(3000m)に出走。同年のイギリス・ダービー馬ボアルセル、フランス・ダービー馬シラを相手に、問題にせず快勝して、ヨーロッパ最強を印象付けた。通算成績は14戦14勝。その後、ネアルコは種牡馬として大成功。20世紀の偉大なる種牡馬の1頭となる。
さて、ここまで書いてきて、いよいよ本編の主人公リボー(Ribot)の登場となるが、リボーが生まれたのは1952年である。つまりリボーがデビューする年の春にフェデリコ・テシオは亡くなっている。だからリボーの活躍を見ずしてテシオはこの世を去っているのである。ところでリボーとはフランスのあまり有名でない画家の名前からとられた名前で、テシオは自ら絵を描き美術愛好家でもあり、彼の生産した馬はほとんどが芸術家の名前をつけられている。
そんなリボーであるが父のテネラニ、母のロマネラ共にテシオ生産の馬であり、ドロメロ牧場ゆかりの血統といえそうだ。それで1952年に生まれたリボーであるが、残念ながら生まれつき小さい馬でクラシック登録もされず、イタリアのクラシック・レースには出れなかった。テシオはおそらく期待もしてなかったのだろう。でも成長してからは体高162.6、胸囲188.0と立派な体格でデビューから白星街道を突っ走った。2歳時はイタリアで走り3戦3勝。3歳になりクラシックに出走出来ないリボーは、エマヌエレ・フィリベルト賞を含めデビューから7戦7勝。そしていよいよ、フランスのロンシャンで行なわれる凱旋門賞に駒を進めた。リボーは好位につけ、直線コースに入りラストスパート。見事ボープリンス以下に3馬身をつける快勝で通算成績を8戦8勝とした。さらに3歳時、ジョッキー・クラブ大賞を一走りして楽勝。通算で9戦9勝とした。
【More・・・】
リボーは4歳馬となった1956年、イタリアで楽勝ばかりの3連勝の後、イタリア最大のレース、ミラノ大賞(2400m)に出て2着に8馬身をつけて勝つと、次は競馬の母国イギリスへ乗り込んだ。当時のイギリス人はあれほどの成績を残しつつあるリボーを認めようとしなかった。それでリボー陣営は、それならとばかりアスコットのキング・ジョージⅥ&クイーン・エリザベスS(1マイル半)でライバルを蹴散らせば、イギリスのうるさいホースマンも黙るだろうと考えた。それでリボーは芝生の深い起伏のあるイギリスの競馬場でも苦もなく突っ走り、2着に5馬身差をつける快勝。その後、リボーはレースを1つ勝って、通算で15戦15勝となり、20世紀のヨーロッパ無敗記録を更新したのである。そして、16戦目、最後のレースとして目標となったレースが前年にも勝っている凱旋門賞であった。リボーは2連覇を目指していた。リボーの出現前にはクサール(1921年~22年)、コリダ(1936年~37年)、タンティエーム(1950年~51年)と3頭しか成し遂げていない凱旋門賞2連覇。リボーはその偉業に挑戦した。
カミーチ騎手に操られたリボーは、この引退の花道を飾るのに相応しい凱旋門賞に出て、最後のストレートで狂ったように先頭に立った。リボーと後続とはあっという間に差が開き、2着タルゴとの着差は6馬身。まさに驚異的な爆発力で、あっさりと凱旋門賞2連覇を達成した。
こうしてリボーは凱旋門賞2連覇と16戦16勝の戦績を残し引退していったのである。まさしくサラブレッド生産弱小国のイタリアで、突然ふって沸いたように出現したリボーである。種牡馬となってからはアメリカで種牡馬生活を送り、その後にヨーロッパにも戻りるが、やはりリボーの産駒はアメリカよりも直線の長いヨーロッパに向いているようだ。数々の活躍馬を世に送り出したのである。生前テシオはリボーを見て「わからない、わからない」を連発し、「この馬には何かある」という見解を示していた。結局、ドルメロ牧場の最高傑作と言われるようになったリボーであるが、その現役時代を待たずして死んでしまったフェデリコ・テシオ。もし生きていればリボーをどのように評価していただろうか。とにかく驚異的な爆発力で、16戦全勝。2着につけた着差は通算で100馬身という。自己の生産馬ネアルコでさえ、あまり評価しなかったテシオが、リボーの活躍を目の当たりにすると、どのように思ったであろうか。まさしくリボーこそ20世紀最高の名馬の1頭で、フェデリコ・テシオ生産馬の最高傑作であるといっても過言ではないだろう。
1955年の凱旋門賞。
1956年のキング・ジョージⅥ&クイーン・エリザベスS。
1956年の凱旋門賞。
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