2ntブログ
2024年11月 / 10月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫12月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
EDIT  |  --:--  |  スポンサー広告  |  Top↑

2008.12.06 (Sat)

コロー展に行く

s-P1010468.jpg

 寒風吹きすさぶ今日、神戸の市立博物館で開催されている
コロー展に行った。そういえば、今から30年前になるが、バルビゾン派美術展というものがあって、そのときも神戸の美術館で開催されていたと思う。当時は王子公園の近くに美術館があって、ミレーの作品を中心に何人かの画家の絵を拝見したものなのだが、その中にコローの絵も何点か展示されていた。だからコローの絵をゆっくり拝むのは、そのとき以来ということになるだろうか・・・・・。

 コローというと風景画、人物画で知られるが、柔らかなタッチの古典的画法で描かれた絵が多いように思う。コローは印象派画家よりも僅かに時代が古いせいか、マネ、モネ、ルノワールといった画家達の影響を受けず、この辺り彼らとは一線を画しているから面白い。

 コローは1796年、パリの裕福な織物商人の子として生まれ、学生時代はルーアン、ポワシーの寄宿学校で学んだという。コローは画家になりたかったが、画家になることに反対していた父親に従い、いったんは商人としての修業をする。でも1822年、26歳の時、やっと父の許しを得て画家を志し、当時のアカデミックな風景画家アシール=エトナ・ミシャロン、ジャン=ヴィクトール・ベルタンに師事する。当時としては画家を志すには遅いスタートだった。最初はミシャロンに師事したが、コローが師事してから数か月後、26歳の若さで他界したのである。師を失ったコローは、ミシャロンの師であったベルタンに師事することになった。ベルタンは大きな画塾を構え、当時のフランス風景画の第一人者でもあった。こうしてコローは風景画家として飛び立ったのである。そして、画家になり当時の画家の憧れだった土地であるイタリアに行き、多くの作品を残すこととなる。

 コローは生涯に3度のイタリア旅行をしていて、1回目の旅行はもっとも長かった。それは1825年9月から1828年秋に及び、ローマとその近郊を中心にヴェネツィアなどにも滞在している。この時、屋外で制作した習作風景画には色彩感覚や構図法などに近代的感覚を見せるものが多く、後の印象派などの世代の画家に影響を与えている。コローはその後1834年と1843年にもそれぞれ半年ほどイタリアに滞在している。このような理由で彼の初期の作品はイタリア物が多い。

 一方コローは、晩年に至るまでフランス各地にも精力的に旅行し、各地の風景をキャンバスにとどめている。特にパリの西の郊外にあるヴィル=ダヴレーには父の購入した別荘があったことから頻繁に滞在している。また、フォンテーヌブローの森においても絵の制作を行っていた。そして、サロンには、イタリア滞在中の1827年に『ナルニの橋』などを出品して以来、晩年まで精力的に出品し、1848年にはコロー自身がサロンの審査員に任命された。1855年にはパリ万国博覧会に6点の作品を出品し、グランプリを得ている。晩年は大家として認められるようになり、死の直前までフランス各地への旅行と制作を続けた。1875年2月22日、病のため死去。生涯未婚であった。

 彼の風景画は、神話や歴史物語の背景としての風景ではなく、イタリアやフランス各地のごくあたり前の風景を描いたものが多い。特に1回目のイタリア滞在の際に制作した風景習作には、その光の明るさ、大胆なタッチなどに近代性を見せるものが多い。春から夏に屋外で制作を開始し、それを秋から冬にかけてアトリエで仕上げるのがコローの風景画制作の基本であった。こういった絵画制作の過程においては、どこから見ても印象派の画家ではないことが判る。また、後半生には、画面全体が銀灰色の靄に包まれたような、独特の色調の風景画を描いた。こうした風景画は、明確な主題のある歴史画とも、現実の風景をそのまま再現した風景画とも異なるもので、現実の風景の写生を土台にしつつ、想像上の人物を配した叙情的風景画である。コローは、こうした風景画のいくつかに『思い出』(souvenir)というタイトルを与えている。ただ、人物画は、親戚、友人など親しい人々の肖像画と、モデルに民族衣装などを着せて描いた空想的人物像に分かれるのだ。

 それで、結局、コローの影響を受けた画家としては、印象派、ポスト印象派のピサロ、モネ、セザンヌ、フォーヴィスムのマティス、ドラン、キュビスムのピカソ、ブラック、グリスなど多くの画家が挙げられる。ピサロは1855年のパリ万国博覧会でコローの作品を見ており、ピカソは何点かのコロー作品を収集していた。1909年にサロン・ドートンヌで開かれたコローの人物画の特別展示はピカソらに影響を与えたことが指摘されている。また、日本でもコローは早くから紹介され、浅井忠ら影響を受けた画家が多いことも知れ渡っている。

 今回、コローの絵は100点近く展示されていたが、最も注目されていた作品は1858年~1868年にかけて描かれたとされる『真珠の女』である。この絵はダ・ヴィンチの『モナ・リザ』を意識したのか、コロー自身も非常に気に入っていたらしく、彼が亡くなる居間に飾ってあったらしい。彼としたら風景画ではなく、人物画を気に入っていたというのも興味深いが、いずれのジャンルでも、古典の伝統をふまえつつ、鋭敏なレアリスムの感覚と確かな造形力によって独自の詩的世界を作り上げ、印象派をはじめ、多くの画家たちに多大な影響を与えている。 そんな画家がジャン=バティスト・カミーユ・コローなのである。
EDIT  |  16:12  |  美術  |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

*Comment

コメントを投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメントを表示
 

*Trackback

この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック

 | BLOGTOP |