2009.02.01 (Sun)
田中英光『オリンポスの果実』を読む
秋ちゃん。
と呼ぶのも、もう可笑しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房を貰い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体育教師をしていると、近頃風の便りにききました。
時間というのは、変なものです。十年近い歳月が、当時あれほど、あなたの事というと興奮して、こうした追憶をするのさえ、苦しかったぼくを、今では冷静におししずめ、ああした愛情は一体なんであったろうかと、考えてみるようにさせました。
恋というには、あmりにも素朴な愛情、ろくろく話さえしなかった仲でしたから、あなたはもう忘れているかもしれない。しかし、ぼくは今日、ロスアンゼルスで買った記念日の財布のなかから、あのとき大洋丸で、あなたに貰った、杏の実を、とりだし、ここ京城のろう屋の陽もささぬ裏庭に棄てました。そのとき、急にこうしたものが書きたくなったのです。
・・・・・・・・・・『オリンポスの果実』はこのような書き出しで始まるが、全編、熊本秋子という女性を好きだ好きだといった雰囲気が漂う小説である。学生の頃に読んだときは、このような純粋な恋の表現もあるのかと思ったものだが、今、読み返すとアホらしいとも感じられ、歳老いて読む小説ではないなあとも思った。
田中英光は1913年生まれで、大きな体の持ち主ゆえに早稲田のボート部員となり、実際に1932年(昭和7年)のロサンジェルス・オリンピックに日本代表のクルーの一員として参加している。彼はボートのクルーの一員として、アメリカ行きの船に乗り込み、そこで知り合った走り高跳びの女子選手に熱を上げる。結局、その時の甘い切ない体験を小説にしたのだが、当時もお文学界で、スポーツ選手の恋を切実に表現した作品というものが稀有だったので新鮮であったろうと思える。
この小説の中で、彼が初めて熊本秋子と出会ったときのことが書かれてあるが、それは純粋そのものである。船内で観た映画が済んでデッキに出てきた彼は彼女と出会う・・・・・・・・・・・・ぼくが「活動みていたんですか」ときいた。あなたは驚いたように顔をあげて、ぼくをまいた、真面目になった。あなたの顔が、月光に、青白く輝いていた。それは、童女の貌と、成熟した女の貌との混こうによる奇妙な魅力でした。
みじんも化粧せず、白粉のかわりに、健康がぷんぷん匂う清潔さで、あなたはぼくを惹きつけた。あなたの言葉は田舎の女学生丸出し、髪はまるで、老嬢のような、ひっつめでしたが、それさえ、なにか微笑ましい魅力でした。・・・・・・
・・・・・・・何とも時代を感じさせるような形容が並ぶが、今で言うところのプラトニックな恋であろう。この小説は、船で渡米し五輪に参加し、アメリカでの日々、帰りの船での出来事が主であるが、今ならこのような精神的な恋慕を綴った作品というのは滅多にないだろうが、男女七歳にして同席ならずなんていっていた戦前の話である。当時としては国を代表するオリンピック選手同志の恋愛はご法度であろうからして、今の感覚からして何をウダウダと書き貫いているのかと思ってしまう。それほど表立った男女の恋愛は許されてなかった時代なのである。
しかし彼女を好きだ好きだというニュアンスが小説の大半を占める中、最後に締められている文章が面白い。
・・・・・あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか。
田中英光が、この小説を発表したのは1940年のことで、ロサンゼルス・オリンピックからすでに8年の歳月が経っている。彼が19歳で出場したオリンピックというのは、すべてにおいて初体験で、彼の目には何もかも新鮮に映ったろう。そんな淡い恋の思いが、既に既婚者になり、子供もいる身になってから、一篇の詩の様に若年の思いを書き留めなくてはならないという心境に駆られたのかもしれないが、その後の彼を考えると、この小説は一体、何なのだろうと思ってしまう。
田中英光は戦後、間もなく左翼思想に染まり共産党に入党。だが党活動及び、党そのものに疑問を感じ翌年には離党。その後に共産党やスターリン批判の作品を残し、彼が兄として慕っていた太宰治の自殺を追うように、妻を残し別邸で同棲生活を始めるが、やがて薬物に手をつけ同棲相手を刺してしまう。そして1949年11月。太宰治の墓前で睡眠薬を服用し手首を切って自殺してしまった。そのとき彼は、まだ36歳だった。一体、田中英光という人は、どんな人だったのだろうか。よく判らない・・・・・。
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