2009.02.09 (Mon)
手塚治虫没後20年
手塚治虫が亡くなって今日で、ちょうど20年になるという。月日の経つのは年々、早くなるように感じるが、もうそんなに経過したのかと改めて驚いている。
私が手塚治虫の織り成す世界に初めて触れたのはTVの『鉄腕アトム』だった。といってもアニメではない。人間が演じている『鉄腕アトム』である。少年がアトムのコスチュームを着て正義のために戦うという少年少女向けのドラマだった。私はまだ小学校に上がってなかったと思うが、真剣になって観ていたものだ。だから『鉄腕アトム』の主題歌というと ~空をこえて ラララ星の彼方 ゆくぞアトム ジェットの限り 心やさし ラララ 科学の子 十万馬力だ 鉄腕アトム~ ではなくて、 ~僕は無敵だ鉄腕アトム 良い子のために戦うぞ 勝ったつもりか 負けやしないぞ さあ来い悪者 やって来い ジェット推進 十万馬力 僕は鉄腕アトム 七つの威力を持っている~ の歌を真っ先に連想してしまうのである。
あの頃、まだ『鉄腕アトム』が手塚治虫の原作であることも知らなくて(幼稚園児だったので、当たり前だが)、ただ漠然と観ていた気がする。それで小学校に上がり漫画というものに出会い、よく通っていた近所の散髪屋で漫画を貪り読むようになったのである。だから私は漫画を読みたいがばかりに、散髪屋に通っていたようなものである。既に週刊誌の『サンデー』『マガジン』は創刊されていたが、毎週、散髪屋に通う訳にもいかず、したがって読むのは何時も月刊誌であった。
当時だと『漫画王』『冒険王』『ぼくら』『少年』『少年画報』『少年ブック』といった漫画雑誌があったと思うが、その中で私が1番気に入っていたのが『少年』である。散髪屋に行ったものの、すぐに散髪の順番が回ってくると『少年』が読めないので、わざわざ順番待ちの多いときを選んで散髪屋に行き、読み終えない間に順番が回ってくると、後から来た子を先に刈らせたというほど漫画が好きだった。
そんな漫画月刊誌『少年』に連載されていたのが『鉄腕アトム』であり、横山光輝の『鉄人28号』であった。だから小学校に上がり、漫画を読み始めて『鉄腕アトム』の存在を知ったときの印象は強烈であった。それまで観ていたテレビのアトムが実に陳腐なものに見えてしまい、手塚治虫の漫画のアトムの話は、もっとスケールが大きくてストーリーも遥かに面白かった。こうして私は手塚治虫の名を知った訳である。それから数年、とうとう手塚治虫が自ら製作に加わったアニメ版『鉄腕アトム』の本放送が始まり、日本に本格的アニメ・ブームがやってくることになる。
アニメ『鉄腕アトム』が始まってから以降は、どんなアニメがテレビで放送されたかは、ほとんどの人が知っているので、この先は書かない。でも今や、世界中で愛される日本制アニメと日本のコミックの、礎を築いた人物こそ手塚治虫その人といっても過言ではないだろう。つまり現在活躍中の漫画家の大半の人は、何らかの形で手塚治虫の影響を受けているからである。
戦前から、田川水泡の『のらくろ』、阪本牙城の『タンクタンクロー』、島田啓三の『冒険ダン吉』といった児童漫画はあったが、展開も遅く、舞台芝居を観ているようなのんびりとした話が多く、如何にも少年向けの内容であった。それが戦後に登場した手塚治虫の漫画は新鮮に映ったであろうと思える。私が、その後に手塚治虫初期の作品である『新宝島』『ロストワールド』を読み直したとき、これが昭和20年代初頭に描かれた漫画なのかと驚くやら、手塚治虫の斬新な手法に唸ったというべきなのかもしれない。それまでの舞台劇のような漫画から、映画のような動きのある漫画に変えてしまった最大の功労者が手塚治虫である。こうして児童向けのストーリー漫画は、大きく可能性を秘めるようになり、飛躍して行ったのである。
その後に手塚治虫に触発された漫画家の卵たちが手塚治虫の下へ集まるようになったことは言うまでもないだろう。これはトキワ荘の話として有名であるが、寺田ヒロオ、よこたとくお、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、つのだじろう等・・・・・現在、漫画界の重鎮として名を残した人ばかりであるが、このような人材が集い、日本の漫画が世界へ飛躍していく出発点がここにあるとしたら、手塚治虫の残した功績というのは余りにも大きいといわざるを得ない。
こうして漫画にはまった手塚少年は大阪府立北野中学校(現・北野高校)に進み、ちょうど戦時中、強制的に軍需工場に駆り出され不遇の時代を送るがまもなく終戦。やがて大阪帝国大学附属医学専門部(現・大阪大学医学部)に進み、医者としての道を歩むものの、結局は漫画家になったという変り種ではある。
このような学識経験があり、豊富な知識と教養があって、構想が和泉の如く湧いてくるのだろう。手塚治虫の膨大な作品群『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『マグマ大使』『ビッグX』『バンパイヤ』『海のトリトン』『どろろ』『不思議なメルモ』『火の鳥』『ワンダー3』『ブラック・ジャック』『ブッダ』『アドルフに告ぐ』『ルートヴィヒ・B』・・・・・・・これらを読み漁ってきた漫画世代としては、現在の日本の漫画家がおかれている地位が、昔よりも格段に上がったのも、ジャパニメーションとして世界から羨望の眼差しで見られるようになったのも、手塚治虫の獅子奮迅の活躍があったからに他ならない。
手塚治虫の死後20年で、日本の漫画がどれだけ文化として認められるようになり、世界中で愛されるようになったかというのは、誰でも知っている現在、手塚治虫はどのような位置づけになるのか判らないが、もしこの世に手塚治虫が誕生しなかったとしたら、日本の漫画は今日の隆盛を築けたのか大いに疑問が残るところである。それだけに手塚治虫の業績は計り知れないほど大きかったといわざるを得ないだろう。それ故に『アストロボーイ』は偉大なのである。
死の3ヶ月前(1988年)、母校で講演する手塚治虫。すでに胃癌が進行していた。
私が手塚治虫の織り成す世界に初めて触れたのはTVの『鉄腕アトム』だった。といってもアニメではない。人間が演じている『鉄腕アトム』である。少年がアトムのコスチュームを着て正義のために戦うという少年少女向けのドラマだった。私はまだ小学校に上がってなかったと思うが、真剣になって観ていたものだ。だから『鉄腕アトム』の主題歌というと ~空をこえて ラララ星の彼方 ゆくぞアトム ジェットの限り 心やさし ラララ 科学の子 十万馬力だ 鉄腕アトム~ ではなくて、 ~僕は無敵だ鉄腕アトム 良い子のために戦うぞ 勝ったつもりか 負けやしないぞ さあ来い悪者 やって来い ジェット推進 十万馬力 僕は鉄腕アトム 七つの威力を持っている~ の歌を真っ先に連想してしまうのである。
あの頃、まだ『鉄腕アトム』が手塚治虫の原作であることも知らなくて(幼稚園児だったので、当たり前だが)、ただ漠然と観ていた気がする。それで小学校に上がり漫画というものに出会い、よく通っていた近所の散髪屋で漫画を貪り読むようになったのである。だから私は漫画を読みたいがばかりに、散髪屋に通っていたようなものである。既に週刊誌の『サンデー』『マガジン』は創刊されていたが、毎週、散髪屋に通う訳にもいかず、したがって読むのは何時も月刊誌であった。
当時だと『漫画王』『冒険王』『ぼくら』『少年』『少年画報』『少年ブック』といった漫画雑誌があったと思うが、その中で私が1番気に入っていたのが『少年』である。散髪屋に行ったものの、すぐに散髪の順番が回ってくると『少年』が読めないので、わざわざ順番待ちの多いときを選んで散髪屋に行き、読み終えない間に順番が回ってくると、後から来た子を先に刈らせたというほど漫画が好きだった。
そんな漫画月刊誌『少年』に連載されていたのが『鉄腕アトム』であり、横山光輝の『鉄人28号』であった。だから小学校に上がり、漫画を読み始めて『鉄腕アトム』の存在を知ったときの印象は強烈であった。それまで観ていたテレビのアトムが実に陳腐なものに見えてしまい、手塚治虫の漫画のアトムの話は、もっとスケールが大きくてストーリーも遥かに面白かった。こうして私は手塚治虫の名を知った訳である。それから数年、とうとう手塚治虫が自ら製作に加わったアニメ版『鉄腕アトム』の本放送が始まり、日本に本格的アニメ・ブームがやってくることになる。
アニメ『鉄腕アトム』が始まってから以降は、どんなアニメがテレビで放送されたかは、ほとんどの人が知っているので、この先は書かない。でも今や、世界中で愛される日本制アニメと日本のコミックの、礎を築いた人物こそ手塚治虫その人といっても過言ではないだろう。つまり現在活躍中の漫画家の大半の人は、何らかの形で手塚治虫の影響を受けているからである。
戦前から、田川水泡の『のらくろ』、阪本牙城の『タンクタンクロー』、島田啓三の『冒険ダン吉』といった児童漫画はあったが、展開も遅く、舞台芝居を観ているようなのんびりとした話が多く、如何にも少年向けの内容であった。それが戦後に登場した手塚治虫の漫画は新鮮に映ったであろうと思える。私が、その後に手塚治虫初期の作品である『新宝島』『ロストワールド』を読み直したとき、これが昭和20年代初頭に描かれた漫画なのかと驚くやら、手塚治虫の斬新な手法に唸ったというべきなのかもしれない。それまでの舞台劇のような漫画から、映画のような動きのある漫画に変えてしまった最大の功労者が手塚治虫である。こうして児童向けのストーリー漫画は、大きく可能性を秘めるようになり、飛躍して行ったのである。
その後に手塚治虫に触発された漫画家の卵たちが手塚治虫の下へ集まるようになったことは言うまでもないだろう。これはトキワ荘の話として有名であるが、寺田ヒロオ、よこたとくお、藤子不二雄、石森章太郎、赤塚不二夫、水野英子、つのだじろう等・・・・・現在、漫画界の重鎮として名を残した人ばかりであるが、このような人材が集い、日本の漫画が世界へ飛躍していく出発点がここにあるとしたら、手塚治虫の残した功績というのは余りにも大きいといわざるを得ない。
【More・・・】
手塚治虫は1928年に大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市)で生まれた。父は会社員であったが、祖父は手塚太郎という司法官で、関西法律学校(現・関西大学)の創始者の1人として名を連ねている。手塚治虫は5歳で、兵庫県の宝塚に引越し、ここで宝塚歌劇を知る。それが後年の彼の作品『リボンの騎士』として花開くこととなるが、池田師範附属小学校(現・国立大阪教育大学附属池田小学校)に入ったときは、既に漫画を描いていたようである。昆虫が好きで、とくにオサムシが気に入っていたのか、自分の名前にまで虫をくっつけて、治虫と書いてオサムと読ませているが、当初はオサムシと呼ばせていたらしい。こうして漫画にはまった手塚少年は大阪府立北野中学校(現・北野高校)に進み、ちょうど戦時中、強制的に軍需工場に駆り出され不遇の時代を送るがまもなく終戦。やがて大阪帝国大学附属医学専門部(現・大阪大学医学部)に進み、医者としての道を歩むものの、結局は漫画家になったという変り種ではある。
このような学識経験があり、豊富な知識と教養があって、構想が和泉の如く湧いてくるのだろう。手塚治虫の膨大な作品群『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『マグマ大使』『ビッグX』『バンパイヤ』『海のトリトン』『どろろ』『不思議なメルモ』『火の鳥』『ワンダー3』『ブラック・ジャック』『ブッダ』『アドルフに告ぐ』『ルートヴィヒ・B』・・・・・・・これらを読み漁ってきた漫画世代としては、現在の日本の漫画家がおかれている地位が、昔よりも格段に上がったのも、ジャパニメーションとして世界から羨望の眼差しで見られるようになったのも、手塚治虫の獅子奮迅の活躍があったからに他ならない。
手塚治虫の死後20年で、日本の漫画がどれだけ文化として認められるようになり、世界中で愛されるようになったかというのは、誰でも知っている現在、手塚治虫はどのような位置づけになるのか判らないが、もしこの世に手塚治虫が誕生しなかったとしたら、日本の漫画は今日の隆盛を築けたのか大いに疑問が残るところである。それだけに手塚治虫の業績は計り知れないほど大きかったといわざるを得ないだろう。それ故に『アストロボーイ』は偉大なのである。
死の3ヶ月前(1988年)、母校で講演する手塚治虫。すでに胃癌が進行していた。
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