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2009.03.18 (Wed)

ピンク・フロイドのアルバム『原子心母』を聴く

 アルバム『原子心母』
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 ピンク・フロイドの京都公演の時のチケット(1972年3月10日)
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 1972年3月10日だったと思うが、その日の夜、ピンク・フロイドの生ライヴに行った。場所は京都の大将軍にある京都府立体育館。高校生だった私は、夕方からのアルバイトを休んで阪急京都線の西院の駅に降りたった。でも京都府立体育館なんて聞いたことがない。そもそもピンク・フロイドのライヴに行く筈だった姉が、急に私用で行けなくなったから、チケットが私に回ってきたという訳だ。もとからピンク・フロイドは好きなグループであった。当時のロック仲間の大半がガチガチのハードロックしか聴かない中、私はこのようなプログレシッブ・ロックも好んで聴いていたので、来日してライヴがあれば行きたかった。それで前年の1971年8月に来日し、箱根と大阪でライヴを敢行した。ところが残念なことに、その夏は1ヶ月にわたって私は奄美大島、与論島へ行ってたので、ピンク・フロイドのライヴに行けなかった。それで1972年の3月にピンク・フロイドが2度目の来日ツアーを行なうというのでチケットを購入しようとしたが、貧乏な高校生のこと、そんな金がどこにもある筈がなくやむなく残念した。でも、突然、姉が行けなくなったというので、替わりにライヴに行ってくれと言われ、棚からぼた餅式にチケットが回ってきたのである。

 さて、西院の駅に降り立ったが京都府立体育館の場所が判らない。最初は京都市立体育館とばかり思っていたので、西京極の駅に降り立ったが周辺は静まりかえっていて、ライヴがある様子には思えなかった。それで駅員にチケットを見せて聞くと、それは府立体育館だという。それも新しく出来たばかりの体育館だという。なるほど、それで初めて聞く名称だったということが判る。私は急いで西院駅に行き、駅前から市電に跳び乗った。大将軍で降りればいいということだけ判っている。西大路通りを市電が上がって行き三条、御池、太子道、円町と停留所を通過、やっと大将軍に到着。25円を払って市電を降りる(時代が判りそうだ)。でも電停からどちらへ行けばいいか判らない。しょうがないから付近を歩いていた高校生らしき男の子に聞いてみた(といっても私と同年代だが)。すると「僕らの高校に行く手前にあるよ」と言って西の方角を指示した。「何処の高校?」と聞き返すと「山城高校」という答えが返ってきて、ようやく京都府立体育館に辿り着いたという苦い思い出がある。

 前置きが長くなったが、ライヴのことは余り覚えてない。今から37年も前のことなので僅かな記憶でしかないが、大きな体育館のアリーナ席は埋まっているが、それを取り囲むスタンド席は空席が目立ち、プログレシッブは人気がもう一つないことに気がつく。でも彼らの演奏は見事であった。ムーヴ・シンセサイダーをはじめ彼らが使う最新の機械類がステージ狭しと並べられ、発炎筒を焚いたりして演出に凝らしていた。消防法にひかからないのかと思いながらも、煙と光の中で4人の演奏が見事に調和していて、2時間に及ぶライヴは無事、終了した。何曲演奏したのか今となっては良く判らないが、延々20数分にも及ぶ『原子心母』や『吹けよ風、呼べよ嵐』は圧巻だったことだけは明確に記憶している。

 そもそも私がピンク・フロイドの名前を聞いたのは1967年だった。彼らのデビューアルバム『夜明けの口笛吹』を姉が誰かから借りてきて聴いたときだった。風変わりな音楽だなあという印象があったぐらいだが、その頃は、オリジナル・メンバーであるシド・バレットのバンドといった認識でしかなかった。その後にシド・バレットが脱退し、ロジャー・ウォーターズ、ニック・メイスン、リック・ライト、デイヴ・ギルモアの4人で再出発することになるが、これからピンク・フロイドがピンク・フロイドらしくなっていくのである。2枚目のアルバム『神秘』を1968年に出し独自性をアピールし、3枚目のアルバム『モア』は同名の映画のサウンド・トラックとして発売されるが、この映画は見逃してしまった。1969年には2枚組みのアルバム『ウマグマ』を出す。その後、1970年になりミケランジェロ・アントニオーニ監督の映画『砂丘』のサウンドトラックに彼らの曲『51号の幻想』が使われ評判となり、この年の秋にアルバム『原子心母』が登場することになる。

 この『原子心母』が発売されてジャケットをはじめて見た時、思わず笑ってしまった。なんとアルバムジャケットのどこにも文字は印刷されておらず、ただホルシュタイン系の乳牛が1頭、草原に仁王立ちしてこちらを振り返っているところが写っていいるだけで、裏側もやはり乳牛3頭がキョトンとしてこちら側を訝しげに見つめている姿が写っているだけであったが、まあ、何とも妙なアルバムジャケットである。

 でもアルバムを買ってレコード盤に針を落とした瞬間から、すっかりピンク・フロイドの世界に引きずり込まれてしまった。いわゆるハードロックのような激しいリズムもシャウトする歌声もなく、弦を爪弾くギターの音色も特殊な彼らの音楽が始まる。『原子心母』は組曲といってもいいのだろうか、20数分に及ぶインスルメンタル曲である。6曲からなり『父の叫び』『ミルクたっぷりの乳房』『マザー・フォア』『むかつくばかりのこやし』『喉に気をつけて』『再現』・・・・・つまり、原子心母という標題があって、全曲が組曲からなる交響詩のような形式で曲が構成されているということである。ころらはよくクラシック音楽で見られる音楽様式だが、当時、ロック音楽というのはギターテクニックがあって、シャウトする歌があって、リズムがあって当たり前という輩が私の周囲には蔓延っていた。だからクラシック音楽の素養もない彼らは、こんなのロックではないと言い放ち、ピンク・フロイドの評判は良くなかった。ロックはこんなものなんて誰が決めたのか知らないが、音楽なんてどんどん変わっていく。ピンク・フロイドは時代の中枢にあったなのではなく、ある程度、時代の先を行っていたように思う。1970年頃と言うのは、まさにハードロック全盛の時代だったからやむを得ないが、あの頃、ピンク・フロイドが好きというロックファンに会ったことがない。

 結局、ピンク・フロイドは、その後に出したアルバム『狂気』が絶賛されることになるものの、日本人のプログレシッブロック嫌いは今でも解消されていないのではないかと思う。ピンク・フロイドは、その後も紆余曲質を繰り返しながら、現在でも活動しているのだろうか。もっとも昨年、メンバーであったリック・ライトが亡くなったが・・・・・・・・。

オーケストラをバックに 『原子心母』を演奏するピンク・フロイド(1971年2月25日、西ドイツ・ハンブルグにて)

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