2009.04.28 (Tue)
チェーホフ 『桜の園』を読む

昔、物の本に、その国のことを知りたければ、その国の二流文学を読むとお国事情が良く判る。ロシアを知れたければ、ドストエフスキーやトルストイではなく、チェーホフのような文学を読むと良いなんてことが書いてあった。私はチェーホフを二流の人と見てないので、この意見には抵抗があるが的外れなことは言ってないなあとは思った。つまりチェーホフという人の書いた物語というのは、そういった感想を抱かせる文学なのである。
チェーホフという人は医者の資格を持ちながら、医者としての収入はほとんどなく、大半は戯曲や短編小説と書いて収入を得ていたという。つまり医者らしく一人、一人、患者を診るように人物を描いた人で、これといってドラマチックな物語もなく、大局的な世の中の動きを書いたのでもなく、淡々としたストーリーであるにも係わらず人物が巧に物語の中で生かされているのである。
この『桜の園』は、チェーホフ最後の戯曲で4大戯曲の一つとされるが、この作品のテーマも当時、大変革期にあったロシアという国の政治の動きなどがテーマにあるようなものではなく、落ちぶれていく貴族階級の人それぞれを描いているだけである。だが、一見、軽いタッチで書かれているようで、各自の人物像が見事に描出されていることに目を奪われてしまうのだ。
ラネーフスカヤ夫人という女地主がいる。夫人は夫と息子を失った後は外国へ逃れて、相変わらず贅沢三昧な生活に明け暮れていた。そんなラネーフスカヤ夫人がパリから桜の園へ5年ぶりに帰ってきた。それは桜の園の今後について話し合うためである。この桜の園という土地は、先祖代々から守ってきた土地であったが、その土地が競売にかけられようとしていた。夫人を久々迎えた兄ガーエフと養女ワーリャ達だったが、一家は昔の裕福な暮らしは望むべくもなく、桜の園が借金返済のため売りに出されたというのだ。そこへかつて桜の園で働いていた農奴の息子ロパーヒンが、別荘を人に貸したらどうかという提案を出す。別荘を貸し指せば、その賃料で借金は返済できるし生活費も捻出できるというものである。でも経済観念に疎いロパーヒンは言ってることの意味さえ理解できない。おまけに生活が逼迫しているにも関わらず、贅沢な暮らしをやめようとしない。結局、競売の日を迎え、桜の園を落札したのがロパーヒンだということを知るとラネーフスカヤ夫人は泣き崩れる・・・・・・・。
19世紀末のロシアでは、旧来の秩序が崩壊しつつあったのだ。様々な政治制度は現実の発展と調和しなくなり、大土地所有者の貴族社会はしだいに都市中産階級(ブルジョアジー)と新興資本家階級の支配下に入りつつあった。作家たち、とりわけツルゲーネフ、トルストイは、1860年代から70年代にかけての弱体化した社会構造を描き、ドストエフスキーは、その時代の知的葛藤を表現した。しかしチェーホフは、そんな作家達と違い、日常におけるごく普通に起こりうる事象を折込つつ、滅び行く貴族社会の哀愁を表現したのが『桜の園』なのである。従って演劇を志す若者は少なからず『桜の園』という戯曲に取り組んだことがあるのではないだろうか。チェーホフとはそうのような大衆性のある戯曲作家なのである。
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