2009.05.05 (Tue)
洛北を歩く
先月の30日に京都市街の洛北地域をぶらりと散歩したので、今回は写真を掲載して簡単な説明をしよと思う。
京都の市内中心部は昔から洛内というが、それに対して周辺を洛外という。それでその境目はどの辺りから分かれているのかというと、これも明確なものはないが、私の認識では北は北大路通の辺りで、南は九条通辺り、西は西大路通辺りで東は東山通辺りと考えている。といっても京都の人以外だと判りにくいとは思う。また、人によってはもう少し範囲が狭くなるという人もいれば、もう少し広いのではという人もいる。よく考えてみれば、明治の中期ぐらいまでは鴨川より東、そして壬生あたりでも洛外と呼ぶ人が多かったと、私の若い頃、高齢者が言っていたことを思い出す。でもこれは時代によって市街地が広がってきたので、世代によって考えが違うという見方が出来る。私の姉なんかは口が悪いから、保津峡や東山を越えると京都とは呼べないという。
まあ、何れにせよ洛内というのは京都でも狭い範囲に限られているということである。それで、その洛内でも洛北、洛中、洛南に分かれるのだが、これも京都の人にしか判らないだろう。これも漠然としていて、人によって意見の分かれるところである。現在の行政区では、中心部を上京区、中京区、下京区と分けているが、これに準じる部分が多いが、洛北地域というのは今では、もう少し北に伸びているように思う。そこで私は、その洛北地域を歩いてみたのである。
京阪電鉄終点・出町柳駅で降りる。高野川をわたって賀茂川(鴨川)沿いを上がる。すると右側に鬱蒼と繁った森が見えてくる。それが糺の森である。この森は、かつて賀茂川と高野川が合流するデルタ一帯にあった森だが、その後に縮小され、現在では12万4000平方mの面積があり、旧山代原野の原生樹林ろ残す森林となっていいる。糺の森の中を歩いていると、朱色の鳥居が姿を現す。これが世界遺産の下賀茂神社である。
下賀茂神社yの起源は古く正式には賀茂御祖神社といい、鴨氏の氏神が祀られている。起源は古く創建が何時なのかはっきりとせず、平安遷都よりも遥かに古く、天平時代に上賀茂神社から分置されたのが始まりというが、それ以前からあったという説も強い。
糺の森は原始林のようで都市の中にある森とは思えないような雰囲気である。
奈良の小川とも言われるせせらぎ。
森と木漏れ日と・・・・。
瀬見の小川ともいうせせらぎ。
さほど大きい森ではないが、自然に近い形で残されている。
糺の森を抜けていくと下鴨神社の鳥居が姿を現す。
楼門である。
楼門を抜けて中に入ると舞殿(右側の建物)と本殿への入り口がある。でも本殿へは行かなかった。下鴨神社では正月の蹴鞠や、5月3日の流鏑馬、5月15日の葵祭と行事が多いが、蹴鞠はこの場所で行なわれる。
これは御手洗川である。この川の水源を御手洗池と言って、御手洗池の水泡を模して、加茂みたらし茶屋が発案した団子が『みたらし団子』である。つまりみたらし団子発祥の地ということになる。それは5個の串刺し団子を焦がすようにしたあぶり焼きに葛餡をかけたものをいう。よく余所の観光地に行くと、3個刺しやら醤油をかけただけのみたらし団子を見かけるが、あれは似て非なるもので、京都の人間から見ると、どうかなあと思う。原型は似ているが味付けなんかは、京都の物とは微妙に違っている場合が多いから、みたらし団子という名称よりも別の名称をつけたほうがいいだろうと思う。ところで、この神社の境内にある御手洗川の先に御手洗池があるが、今は水が湧き出てなくてポンプで吸い上げているような形である。したがって御手洗池は水が無くカラカラの状態である。尚、この橋の側に梅の木があって、その梅は光琳の梅と呼ばれている。尾形光琳の有名な『紅白梅屏風』のモデルになった梅だからである。
洛北散策はまだ続きます。
京都の市内中心部は昔から洛内というが、それに対して周辺を洛外という。それでその境目はどの辺りから分かれているのかというと、これも明確なものはないが、私の認識では北は北大路通の辺りで、南は九条通辺り、西は西大路通辺りで東は東山通辺りと考えている。といっても京都の人以外だと判りにくいとは思う。また、人によってはもう少し範囲が狭くなるという人もいれば、もう少し広いのではという人もいる。よく考えてみれば、明治の中期ぐらいまでは鴨川より東、そして壬生あたりでも洛外と呼ぶ人が多かったと、私の若い頃、高齢者が言っていたことを思い出す。でもこれは時代によって市街地が広がってきたので、世代によって考えが違うという見方が出来る。私の姉なんかは口が悪いから、保津峡や東山を越えると京都とは呼べないという。
まあ、何れにせよ洛内というのは京都でも狭い範囲に限られているということである。それで、その洛内でも洛北、洛中、洛南に分かれるのだが、これも京都の人にしか判らないだろう。これも漠然としていて、人によって意見の分かれるところである。現在の行政区では、中心部を上京区、中京区、下京区と分けているが、これに準じる部分が多いが、洛北地域というのは今では、もう少し北に伸びているように思う。そこで私は、その洛北地域を歩いてみたのである。
京阪電鉄終点・出町柳駅で降りる。高野川をわたって賀茂川(鴨川)沿いを上がる。すると右側に鬱蒼と繁った森が見えてくる。それが糺の森である。この森は、かつて賀茂川と高野川が合流するデルタ一帯にあった森だが、その後に縮小され、現在では12万4000平方mの面積があり、旧山代原野の原生樹林ろ残す森林となっていいる。糺の森の中を歩いていると、朱色の鳥居が姿を現す。これが世界遺産の下賀茂神社である。
下賀茂神社yの起源は古く正式には賀茂御祖神社といい、鴨氏の氏神が祀られている。起源は古く創建が何時なのかはっきりとせず、平安遷都よりも遥かに古く、天平時代に上賀茂神社から分置されたのが始まりというが、それ以前からあったという説も強い。
糺の森は原始林のようで都市の中にある森とは思えないような雰囲気である。
奈良の小川とも言われるせせらぎ。
森と木漏れ日と・・・・。
瀬見の小川ともいうせせらぎ。
さほど大きい森ではないが、自然に近い形で残されている。
糺の森を抜けていくと下鴨神社の鳥居が姿を現す。
楼門である。
楼門を抜けて中に入ると舞殿(右側の建物)と本殿への入り口がある。でも本殿へは行かなかった。下鴨神社では正月の蹴鞠や、5月3日の流鏑馬、5月15日の葵祭と行事が多いが、蹴鞠はこの場所で行なわれる。
これは御手洗川である。この川の水源を御手洗池と言って、御手洗池の水泡を模して、加茂みたらし茶屋が発案した団子が『みたらし団子』である。つまりみたらし団子発祥の地ということになる。それは5個の串刺し団子を焦がすようにしたあぶり焼きに葛餡をかけたものをいう。よく余所の観光地に行くと、3個刺しやら醤油をかけただけのみたらし団子を見かけるが、あれは似て非なるもので、京都の人間から見ると、どうかなあと思う。原型は似ているが味付けなんかは、京都の物とは微妙に違っている場合が多いから、みたらし団子という名称よりも別の名称をつけたほうがいいだろうと思う。ところで、この神社の境内にある御手洗川の先に御手洗池があるが、今は水が湧き出てなくてポンプで吸い上げているような形である。したがって御手洗池は水が無くカラカラの状態である。尚、この橋の側に梅の木があって、その梅は光琳の梅と呼ばれている。尾形光琳の有名な『紅白梅屏風』のモデルになった梅だからである。
洛北散策はまだ続きます。
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