2009.05.27 (Wed)
ヘルマン・ヘッセ・・・・・『車輪の下』を読む
中学1年の時だったか夏休みの宿題で読書感想文を書く課題があって、何を読んでいいのか判らない生徒のために幾つかの推薦図書というのが挙げられ、夏目漱石『我輩は猫である』『坊ちゃん』、芥川龍之介の幾つかの作品に混ざって、ヘルマン・ヘッセの『車輪の下』も推されていたと思う。ということはさほど難しい小説ではなく、この年頃の少年、少女に読んで欲しいということで先生方は『車輪の下』を選んだんだと思う。が、生来のへそ曲がりの小生は、そんなもの読めるかと、スタンダールの『恋愛論』を判らないまでも、適当にまとめて提出した覚えがある。でも教師に、こんな物、読むのは早すぎると言われ憤慨したものだ。一応、『車輪の下』も読んだが、『車輪の下』というのは、如何にも大人に向う過程で少年が成長していき最後には挫折していく様を如実に表現した作品ということで、中学時代の小生にとっては月並みな話で面白くなかったという印象でしかない。
簡単なあらすじをいうと、田舎町シュヴァルツヴァルトに住むハンス・ギーベンラート少年は天分のある子供だった。町中の誰もがハンスを優秀な頭脳の持ち主だということを認めていた。周囲はハンスが州の試験を受けて神学校に進むことが当然の成り行きであると考えていた。商人の父はハンスに将来の夢を託し、学校の教師はハンスがエリートの集まりである神学校に入り、チュービン大学に進んでくれることを望んでいて、それにより学校の名が高まることを期待しているのであった。そのことにより傷つき易い純粋な少年だったハンスは期待に応えるべく、ひたすら勉学に励むのであるが、一般の少年と違い少年らしい遊びも制限され、州試験合格のため過酷な勉強をおしつけられ、次第に孤独に陥り頭痛の発作にも悩まされる。どうにかハンスは優秀な成績で神学校に入学し、将来を嘱望されるのである。しかし、そこでの生活はハンスの期待を裏切るものであった。規則ずくめの味気ないものであったが、ハンスはそこでハイルナーという詩や文学を愛する自分とはかけ離れた少年と出会う。ハンスは親を疑うことさえ知らない少年だが、ハイルナーは自由奔放な空想家である。結局、ハンスはハイルナーの感化を受け入れてしまい、学校の成績も徐々に落ちていき、神経が衰弱してしまい、とうとう郷里に送り返されてしまう。彼に期待した郷里の人の見る目は辛辣であり、彼はおまけに少女に弄ばれてしまい、見習い工として出直そうとするが、同僚との軋轢があり、失意のどん底に陥ったハンスは川に身を投げてしまう。
この話はヘルマン・ヘッセの少年時代の体験がダブっているのだから、自伝的小説とも言えるだろう。ただしヘッセは自殺などしなかったが、小説を読む限りドイツの神学校というのはたいへん厳しい学校であったことが窺える。中学の頃は勉強を強要されたものの必死になって勉強などしたことがない小生は、ハンスのような周囲の期待に応えるべく勉学に必死になれる心理というものが判らなかった。だから『車輪の下』という小説の何処が推薦図書に指定されるほど良いのか正直、判らなかった。勉強なんて親や学校の期待に応えるために励むのではなく、所詮は自分自身に跳ね返ってくるのだということを理解するのに数年を要することになるのだが、中学生の時に気がついていれば小生の人生ももっと変ってはいただろうとは思う。
小生の中学時代というのは偏差値のことなどとやかく言わなかったし、塾に通っている生徒なんてほとんどいなかった。勉強していうる子は家でひそひそと努力していたのだろう。それで高校に入ってからは、のんびりした中学時代と違って周辺が一変したことは言うまでもないが、予備校に通う生徒がいたり、家庭教師をつけている家庭もあった。ただし小生は相変わらず暢気なものであったものの、高校の3年にもなると人並みの勉強はやっていたと思う。ということで高校3年の時、『車輪の下』を読み直し共鳴するものがあったような記憶がある。
現在の高校生は、多くの子が塾に通い、ほとんどの子が大学まで進む。これだと少子化が進み過ぎて子供が少なくなった分、親の目が届きすぎて、期待が子供に注がれることは必至であるから、今の時代に中学生、高校生でなくて良かったと頭脳の弱い小生なんかはホッとするのでもあるが、人生なんてどうせ一生勉強なんだから、多かれ少なかれ、年齢の若い時に知識を詰め込むほうが効果的だということは、この年齢になってから判ることであるものの、多感な少年時代に詰め込みの勉強を強いられ周囲から期待を受けるとプレッシャーを感じないほうがおかしいだろう。とはいうものの若い時にもっと勉強をしていればよかったのにと後悔するのは、大人になった人の偽らざる心境である。これが少年時代に判っていればといいながら、少年時代には勉強意外に興味を持ち、そちらのことに気が向いてしまい勉強どころではないといったことが多々ある。つまり『車輪の下』というのは、少年時代よりも大人になってから判りえる小説かもしれないという気がする。
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