2009.05.29 (Fri)
箸墓古墳の話題から
奈良県櫻井市にある箸墓古墳の築造時期が西暦240年~260年とする調査報告があった。かつてから箸墓古墳を調査研究していた国立歴史民俗博物館のグループが報告したもので、この度、日本考古学協会の総会で発表するという。でも、それがどうしたと問われれば身も蓋もないが、この西暦240年~260年というと魏志倭人伝に記載された邪馬台国と時代が被るから、考古学者間の論争に今後、ますます拍車がかかることが予想されるので、考古学ファンには目の離せない調査報告という訳である。
邪馬台国のことは中国の魏志倭人伝に詳しく記述されていて、元々、国は男が治めていた。でも国家成立から100年未満で倭国大乱が起き、邪馬台国も影響から逃れることは出来なかった。だが、卑弥呼という女子を王にたて、卑弥呼の弟が補佐する形で混乱を収め国を治めていた。やがて卑弥呼は魏の国に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。そして、「卑弥呼以て死す、大いに冢を作る」とあるように、魏志倭人伝に記載された247年頃に卑弥呼が死んだとある。
つまり箸墓古墳が作られた頃と卑弥呼の死んだ時期が一致するということで、邪馬台国畿内説が強くなったと唱える学者が姦しくなったということである。箸墓古墳の築造年代のをどのように割り出したかというと、同古墳から出土した土器に付着した炭化物など20点を放射性炭素年代測定で出された結果だという。これで鳴りを潜めていた邪馬台国における九州説と畿内説を巡っての論争が、また再燃するのだろうなあと新聞の記事を読んで頭に浮かんだことである。
帯方郡から倭国に至るには水行で海を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国に到着する。始めて海を1000余里渡ると対馬国にいたる。大官は卑狗、副官が卑奴母離。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へ行く。・・・・・・まあ、こんな調子で魏志倭人伝には卑弥呼が治める邪馬台国への行き方が記載されているのだが、何故、九州説と畿内説に分かれたかというのは、この記述通りに道を辿るとすると九州説だと距離が合わない。畿内説だと方角が合わない。ということで説が分かれたということなのだが、南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至るという記述のところで、考古学者はこのまま行けば九州からはみ出るという人が出て、南ではなく東に行けば機内に収まるという人が出だし、方角を間違ったのだという。
いわば邪馬台国があったのは九州だという人と、畿内だという人に分かれる要因になったのは上記のような理由であるらしいが、一般的に東大学派と京大学派で意見が分かれているという。九州説を唱える東大学派に対し畿内説を唱える京大学派の間で喧々囂々と長い年月言い合っている。でも考古学者の間では最近は畿内説を唱える人が多いという。それで今度の箸墓古墳の築造時期の発表で、今後、邪馬台国論争がどのように展開していくのか大いに注目されるのであり、私なんか、そんなものどっちでもいいと思うが、考古学の研究者にとっては大きな問題なのだろう。けども、魏志倭人伝における邪馬台国の記述は100%信頼していいものだろうか。あの記述に対して、信憑性を疑ってかかる学者もいてるぐらいだ。いずれにせよ太古の昔に夢を託すのはいいが、邪馬台国論争については何時も、子供の喧嘩のように思えてしかたがない。
邪馬台国のことは中国の魏志倭人伝に詳しく記述されていて、元々、国は男が治めていた。でも国家成立から100年未満で倭国大乱が起き、邪馬台国も影響から逃れることは出来なかった。だが、卑弥呼という女子を王にたて、卑弥呼の弟が補佐する形で混乱を収め国を治めていた。やがて卑弥呼は魏の国に使節を派遣し親魏倭王の封号を得た。そして、「卑弥呼以て死す、大いに冢を作る」とあるように、魏志倭人伝に記載された247年頃に卑弥呼が死んだとある。
つまり箸墓古墳が作られた頃と卑弥呼の死んだ時期が一致するということで、邪馬台国畿内説が強くなったと唱える学者が姦しくなったということである。箸墓古墳の築造年代のをどのように割り出したかというと、同古墳から出土した土器に付着した炭化物など20点を放射性炭素年代測定で出された結果だという。これで鳴りを潜めていた邪馬台国における九州説と畿内説を巡っての論争が、また再燃するのだろうなあと新聞の記事を読んで頭に浮かんだことである。
帯方郡から倭国に至るには水行で海を循って韓国を経て南へ、東へ、7000余里で倭国の北岸の狗邪韓国に到着する。始めて海を1000余里渡ると対馬国にいたる。大官は卑狗、副官が卑奴母離。絶島で400余里四方の広さ。1000余戸が有る。山は険しく、道は獣道のようで、林は深く、良い田畑がなく、海産物で自活。船で南北岸の市へ行く。・・・・・・まあ、こんな調子で魏志倭人伝には卑弥呼が治める邪馬台国への行き方が記載されているのだが、何故、九州説と畿内説に分かれたかというのは、この記述通りに道を辿るとすると九州説だと距離が合わない。畿内説だと方角が合わない。ということで説が分かれたということなのだが、南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至るという記述のところで、考古学者はこのまま行けば九州からはみ出るという人が出て、南ではなく東に行けば機内に収まるという人が出だし、方角を間違ったのだという。
いわば邪馬台国があったのは九州だという人と、畿内だという人に分かれる要因になったのは上記のような理由であるらしいが、一般的に東大学派と京大学派で意見が分かれているという。九州説を唱える東大学派に対し畿内説を唱える京大学派の間で喧々囂々と長い年月言い合っている。でも考古学者の間では最近は畿内説を唱える人が多いという。それで今度の箸墓古墳の築造時期の発表で、今後、邪馬台国論争がどのように展開していくのか大いに注目されるのであり、私なんか、そんなものどっちでもいいと思うが、考古学の研究者にとっては大きな問題なのだろう。けども、魏志倭人伝における邪馬台国の記述は100%信頼していいものだろうか。あの記述に対して、信憑性を疑ってかかる学者もいてるぐらいだ。いずれにせよ太古の昔に夢を託すのはいいが、邪馬台国論争については何時も、子供の喧嘩のように思えてしかたがない。
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