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2009.06.13 (Sat)

野球場址を訪ねて

 プロ野球も開幕して2ヶ月、野球シーズン真っ盛りである。すでに私は10数年以上も前、プロ野球にすっかり興味がなくなってしまったことは、このブログ上で再三、書いている。だから野球の記事は出来る限り書かないようにしている。でもかつてあった野球場というものが、今、現在どのようになっているのかということに興味が湧き、急遽、訪れてみることにした。

 思えば、今から20年以上前には、在阪球団といわれるプロ野球球団が4球団あった。今では大阪在住者でも、そんな時代を知らないという人が増えてきて寂しい限りだが致し方ないだろう。要約するとセントラル・リーグに所属した阪神タイガース以外の球団は全てなくなってしまった。つまりパシフィック・リーグに所属した南海ホークス、阪急ブレーブス、近鉄バファローズ・・・・・全て消えてしまった。

 人気がないから消えざる運命にあったといえばそうかもしれないが、人気は人が作るものである。ただ我々は指を銜えて関西の地から球団が一つ、また一つ、消えていく様をを傍観することしか出来たかったのは実に残念である。でも何故、なくなったのかということに対してあまり議論されなかったように思う。理由は簡単である。3球団とも赤字だったからである。球団経営者は懸命に経営努力を試みたと思うが、何をやってもパシフィック・リーグ所属という理由だけで、マスメディアの扱いが少ない、テレビで生中継しない、馴染みが無い、ファンが増えない、人が入らない。こういった悪循環の連鎖で、3球団とも無くなったというしかない。

 また関西に人気の無いパ・リーグの球団が3球団も存在したという矛盾もあったが、長い間のセ・リーグ偏重に抗する術をなくし、ただでさえ少ないパ・リーグ・ファンを奪い合っているしかなかった。その横で、阪神タイガースが本拠地とする甲子園球場がいつも満員になるというアンバランスさがいっそう妙である。とはいうものの、かつて南海ホークス黄金時代の昭和30年代は大阪球場も人で溢れていたものだ。それがだんだんとテレビを含めたマスメディアの巨人を中心とするセ・リーグ偏重主義に駆逐され、パ・リーグそのものの人気が落ちていった。中でも阪神タイガースのみが巨人と試合することにより、覇権を争ったり雌雄を決することが出来るということがファンの目を牽きつけ、関西のマスメディアも阪神一辺倒という扱いに変っていった。当然、人気もないパ・リーグであるにも係わらず3球団もが、狭い地域内においてパイを奪いあっていると行き着くところは本拠地の移転か、球団の売却しかなく、昔からパ・リーグの球団を心から応援していた私にとっては、南海ホークス、阪急ブレーブスの球団身売り、本拠地移転は予測できた出来事であったとはいえ、心にポッカリ穴が空いたような心境に陥ったものである。

 この出来事以来、私はプロ野球に興味が持てなくなった。プロ野球というものは各チームが共存共栄してこそ成り立って面白いものなのである。対戦相手があってこそ試合は成立するものである。ごく一握りの球団しか潤わないような現行のプロ野球界、それに伴うマスメディアの報道姿勢・・・。改革といっておきながら、可笑しなルールばかりをゴリ押し通し、自分のところさえ良ければ良しとする球団代表(何処とは言わないが)。最早、私が何を言いたいのか、判ると思いますが・・・・・・・・。まあ、今後のプロ野球界をどうするかといった将来の大きな展望もビジョンもないでしょうけども・・・・・・。それで、今さら愚痴を言ったところではじまらないから、かつてプロ野球が使用していた野球場を訪れてみた。

 まずは日生球場である。こんな球場があったことなんて若いファンは知らないと思う。所在地は大阪市中央区森之宮である。通称、日生球場。森之宮球場ということもあったが、名前で判るとおり大阪に本社のある日本生命保険相互会社所有の野球場である。だから正式名は日本生命球場である。JR環状線の森之宮駅で降りて西の方角に歩くと左側に見えていた球場である。戦後、日本生命は大阪市民が楽しめる野球場設備が足りないということと、当社の福利厚生充実の意味合いもあって1950年に建てた球場である。収容人員は20000人強。キャパとしては少ないが、交通の便が良いこととナイター設備があったので、1958年から1983年まで近鉄バファローズが本拠地として使用していたのである。また、関西学生リーグの試合や、社会人野球や、高校野球の大阪府予選決勝は、ここで試合を行なっていた。私も20回、いや、それ以上、来ているだろう。近鉄ー南海戦、近鉄ー西鉄戦、近鉄ー阪急戦等、また、高校生の頃の江夏、岡田(前阪神監督)、ドカベン香川に牛島、PLの木戸、吉村、小早川、清原、桑田、立浪、片岡、野村、宮本、上宮の元木、種田を見たのも、この球場である。

 日生球場は大阪ドームが完成した1997年に閉鎖された。現在は写真のとおり、駐車場と空き地と住宅展示場になっている。まだ、この土地が何に使用されるのか判らないが、大阪城の目の前にあるという立地条件だけに、迂闊な開発だけは避けて欲しいものである。

 かつて日生球場の内野スタンドがあった付近。
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 日生球場の三塁側スタンドがあったところ。日生球場跡地マンションズプラザという看板だけがその名を留める。
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 日生球場は近鉄バファローズの本拠地と書いたが、本当の本拠地は藤井寺球場である。日生は借り物で、都心にあって便利が良いこととナイター設備があったから近鉄が本拠地として使っていたのである。一方、藤井寺球場であるが、こちらは近鉄のグループ企業が経営する純然たる本拠地である。であるが、ナイター設備がなく、夜は試合が出来なかったから日生球場を長い間に亘って、使用していたのである。

 藤井寺球場は近鉄・阿部野橋駅から準急に乗ると15分もかからない藤井寺駅の南側にあった32000人収容の球場である。1925年に近畿日本鉄道の前身である大阪鉄道が、阪神電鉄が甲子園球場を建設して、成功していることに触発されて1928年に建設された野球場で、その当時は甲子園に匹敵する大きな球場であった。だが、戦時中に荒れ放題となり、戦後は改修されたが、球場の規模としては小ぶりとなった。戦後の1950年にプロ野球が2リーグに分裂したのを期に、近鉄がプロ球団を作った。それが近鉄パールズであり、後の近鉄バファローズである。

 近鉄バファローズは当然、藤井寺球場をフランチャイズとしたが、それも暫くの間だけで、時代がナイター中心になっても、藤井寺球場にはナイター設備がなかったから日生球場を長い間、借りる羽目になる。そして、藤井寺球場でナイターが出来るようにと、球団、球場側は照明塔を建設しようとしたが、周辺は住宅ばかり。当たり前のように地元住民から照明塔建設反対の運動が起こる。結局、球団側と地元住民の間で度重なる裁判沙汰に発展、その結果、ナイター設備が完成し、1984年からは藤井寺球場でようやくナイトゲームが出来るようになったが、鳴り物の応援は一切禁止、外野の外側には防音壁を張り巡らすことでどうにか対応した。でも、こんなエピソードも今となっては笑えて来る。球場は今や跡形も無い。

 藤井寺球場も何度か訪れたなあ・・・・。球場のあった所に来ると、【近鉄バファローズ本拠地 藤井寺球場跡 1928-2005】と刻まれたプレートが嵌め込んである像がたっていた。
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 球場跡の西側は四天王寺学園のキャンパスとなり、大学と小学校が入る校舎が建っていた。
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 球場跡の東側は、まだ更地である。このあとどのように使われるのか、また何年かしたら、訪ねてみたい。
s-IMG_0591.jpg

 今回はかつて近鉄バファローズが本拠地としていた日生球場と藤井寺球場を訪れてみたが、また後日、大阪球場跡と西宮球場跡も訪れてみようと思う。
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