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2009.07.11 (Sat)

続々・野球場址を訪ねて

 このシリーズも3回目となる。最初は近鉄バファローズのフランチャイズだった日生球場、藤井寺球場を訪れ、2回目は阪急ブレーブスのフランチャイズだった西宮球場を訪れた。すると3回目は当然のように南海ホークスのフランチャイズだった大阪球場址を訪れることになる。

 大阪駅周辺を梅田というが、この梅田から地下鉄御堂筋線に乗って10分ほどで難波駅に到着する。地下鉄難波駅を降りて地上に上がると高島屋百貨店がある。そして、高島屋の裏にかつて威容を誇っていたのが大阪球場である。いわば繁華街のど真ん中にある野球場であった。この難波周辺を大阪の人はミナミと呼ぶが、ミナミは大阪最大の繁華街である。そんなミナミは南海電鉄・難波駅のすぐ側に大阪球場はあった。甲子園や西宮、藤井寺といった郊外にあるのではなく、建物が所狭しと立て込んでいる空間の中にある野球場であった。

 そもそもこの大阪球場を本拠地としていた南海ホークスは、親会社の南海鉄道が昭和13年に結成したプロ野球球団で、戦後の昭和25年からはパシフィック・リーグに所属した球団である。それでこの年の秋に大阪球場が完成し、この時から南海ホークスと大阪球場の歴史が始まるのである。

 2リーグ分裂後、南海ホークスは強かった。昭和26年から3年間リーグ優勝を果し、昭和30年にもリーグ優勝。だが、日本シリーズでは何時も巨人の後塵を拝していた。それが昭和33年、立教三羽烏の1人(あとの2人は長嶋茂雄、元屋敷錦吾)といわれた杉浦忠が入団する。この杉浦はサイドスローから勢いのある球で打者を翻弄し、新人ながら27勝12敗の成績を挙げる。でも優勝は稲尾和久を擁する西鉄ライオンズであった。翌、昭和34年、杉浦は驚異的な38勝4敗という成績を残し、久々のパシフィック・リーグ優勝を南海に齎す。その勢いで、日本シリーズに突入、相手は宿敵の巨人。4番には立教時代のチームメイトで、人気絶頂の長嶋茂雄がいる。でも杉浦は4連投、4連勝し、見事、日本シリーズ優勝。南海は初の日本一に輝いた。つまり南海ホークスの絶頂期が、この頃なのである。

 でも残念ながら、まだ小学校にも入学していない私としては、この頃の記憶は無い。私が野球に興味を持つのは、この2、3年後のことである。だから南海の黄金時代を知らない。あの当時は大阪で阪神と人気を二分していたという。とにかく強かったしスター選手も多く、鶴岡一人監督率いる南海ホークスのフランチャイズ大阪球場は、好カードともなると何時も32000人の観衆で埋っていたという。それが世はテレビの時代に入り、当たり前のように全国中継は巨人を中心とした試合ばかりが流れるようになる。だからテレビ放送のあまりないパ・リーグのチームは何時しか蔑ろにされることとなる。

 いくら南海が強くても、所詮はパ・リーグのチーム。関西ではだんだんとセ・リーグの阪神の人気が増していき、昭和41年に南海が優勝したのを最後に、その後のチーム低迷と共に、南海ホークスの人気も急降下。大阪球場は空席が目立つようになる。そんな頃であろうか、大阪球場のスタンドへ私はよく通っていた。小学生の時に杉浦忠のファになり、南海ホークスを応援するようになっていた。杉浦忠という投手は痩身で眼鏡をかけていて、風貌からいっても野球選手には見えなくて、生真面目な公務員を彷彿とさせる。でもサイドスローから放たれるボールは威力があった。杉浦は新人で27勝、翌年が38勝、さらに翌年が31勝と八面六臂の大活躍。でも私が杉浦忠を知ったのは、さらにその翌年であった。つまり昭和36年のことである。私が野球を意識して観る様になったのは、この頃からであろう。昭和36年、杉浦は投げすぎから血行障害を患う。でも20勝9敗と立派な成績を残す。だが、この年のエースは事実上ジョー・スタンカといってもいいだろう。その後、杉浦は一度、優勝した昭和39年に復活するが、この年以降は2度と輝きを放つことはなかった。そして、杉浦の成績不振と並行するかのように、常勝・南海ホークスも下位低迷が当たり前になる。

 先ほど私は杉浦の全盛期以降にファンになったと書いたが、実際に大阪球場へ来るようになった時の南海ホークスはすっかり弱小球団に陥っていた。でも本当のところは野球を観戦しに訪れたのではなく競馬中継を聞きながら野球を観戦していたというのが実情なのである。知っている人は判ると思うが、大阪球場の外野スタンドの下は日本中央競馬会の場外馬券売り場になっていて、土曜日、日曜日の競馬開催日になると、私は100円馬券が買える難波場外へ若い頃は毎週のように来ていたのだ。午前中に前売りで馬券を買い、昼飯を食ってから午後のレースまで間があるから暇を持て余していた。それで考えたのが、野球でも観ておこうということになり、日曜日などにデーゲームが多かったせいか外野スタンドに陣取り、南海ホークスの試合を適当に観ながら、レースの発走時間となるとラジオの競馬中継に耳を傾けるというのが、あの頃の休日の過ごし方だったのである。だが南海の試合よりも競馬の方に注意が行き、試合内容をほとんど記憶していないというお粗末さであった。よく覚えていることは、南海は阪急相手だと、何時も負けていたという現実。

 とにかく昭和50年以降の南海ホークスはよく負ける弱小球団に転落していたし大阪球場は常時ガラガラ。外野スタンドは私を含めても観衆200人もいなかったかもしれない。内野を含めても1万人にはほど遠かっただろう。酷い時は野球を観るためではなく、サックスフォンの練習をするために入場料を払って外野スタンドへ来ている者までいた。こんな調子だから南海電鉄は赤字の球団を早くから売却しようと考えていたことは理解できる。でも昭和63年(1988年)秋、南海ホークスがダイエーへ売却され、本拠地を福岡に移すことが決定した時は気が抜けた。同じ年、阪急ブレーブスも売却された。

 もうプロ野球を観るまいと思った。南海ホークスが去ったあと大阪球場はしばらくの間、残された。主を失った巨大な建造物は異様だった。人も立ち寄らないのに存在感だけがあり静まり返っていた。土曜日や日曜日には、場外馬券へ馬券を買いに来る人の群れが、大阪球場の外野へ向って歩いているが、巨大な建造物の内部は広々とした空間を保ちつつ、何の目的意味もなく寂れていく姿をさらけだしていた。一時は住宅展示場として利用されていたが、球場を潰してからの跡地をどうするのかなかなか決まらず、長い間も球場の巨大建造物は難波の土地に居座った。

 1998年11月完全に閉場となり大阪球場は解体された。寂しくもあったが時の流れには逆らえない。やがて球場の跡に巨大建造物が姿を現すようになる。なんばパークスという商業施設である。第一期が2003年10月、第二期が2007年4月に終わり、地上10階、地下3階、238店舗とシネマ・コンプレックスが入る都会型巨大ショッピングセンターとして生まれ変わった。

 なんばパークスが大阪球場址に姿を現し始めてから既に6年近くなる。だんだんと大阪球場のことを知る人も少なくなっていくだろう。ショッピングや映画や食事、デートに訪れる人でごった返すなんばパークスであるが、南海ホークスと共に大阪球場はここに来る人の記憶から風化されつつある。鶴岡一人監督と選手達、杉浦忠、大沢啓二、野村克也、皆川睦雄、広瀬淑功・・・・・・江本に門田にドカベンに・・・・・・もう過去のことである。


 森のように木々で覆われたなんばパークスの正面。かつてはこの位置から大阪球場が聳えたっているのが見られたものだが。
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なんばパークスはグランドキャニオンをイメージしているらしい。何処かの商業施設に似ているなあと思ったら、設計はキャナルシティ博多と同じジョン・ジャーディだった。
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 なんばパークスにも南海ホークスの資料館が設けてあって当時を偲ばせる。これは昭和39年(1964年)の日本シリーズを制覇した時のペナント。
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 南海ホークス最後の監督となった杉浦忠のユニフォーム。
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 なんばパークスに入っていくと間もなく、ホームベースを模ったプレートが埋めてある。これはちょうど大阪球場のホームベースがあった位置に記念碑として設けたものらしい。でもほとんどの人は気がつかずに立ち去っていく。・・・・・過去に、この場所を幾多の名選手が踏んだことだろうか・・・・・・。
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 なお、このシリーズはまだ続く予定です。


大阪球場物語

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