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2009.07.16 (Thu)

ヘンリー・ミラー『北回帰線』を読む

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 なかなか消化しにくい作品であるというよりも小説と言えるのだろうか。ヘンリー・ミラーがパリ在住時代の体験を綴ったということだが、小説の体をなしていないので読んでいても面白くないのである。つまり小説としての筋書きや構想、組み立てといったものが構築されてなくて、ただ現実の描写と夢想、幻想の世界が混雑するように繰り返されていたら突如として大胆な性表現に飛躍したりする。よく『北回帰線』は小説なのか、随筆なのか、自叙伝なのか、幻想の世界なのか、よく議論されるというが、そのどれもが当てはまるようでいて当てはまらないという形容しがたい作品なのである。ヘンリー・ミラーが言うには「私がものを書くのは、より大いなる現実をうち立てようためである。私は現実主義者でもなければ自然主義者でもない。私は生命の味方をするものであり、生命は文学においては夢と象徴を駆使することによってのみ得られる。私は心底では形而上的な作家なのである」

 また別の著書には次のように書いている「私にとって作品とはそれを書いた人間である。したがって私の作品は私という人間である。ぼにゃり者で、投げやりで、向こう見ずで、狂熱的で、卑猥で、騒々しくて、考えこみがちで、ウソつきで、少心翼々とした、そのうえを悪魔のように誠実な私という人間なのである。私は自分を一つの作品とも一つの記録ともみなさない。私は自分を一つの現代史、否、あらゆる時代の歴史の中であると考えている」つまり自分自身が作品だとということなのか・・・・・・・。ヘンリー・ミラーという個々の人物が生きてきた過去全てが作品だといわんばかりである。

 ヘンリー・ミラーの略歴を見ると確かに奇想天外な生き方だと思う。1891年12月26日、ニューヨーク州ヨークヴィルでドイツ系の家庭に生まれ、しばらくしてブルックリンへ移る。家は祖父の代から仕立て屋をしていた。ブルックリンという人種雑多なニューヨークの下町育ちの彼は、子供の時から読書家でライダー・ハガード、マーク・トウェイン、G・A・ヘンティ、ユージェーヌ・シュー、シェンケーヴィッチ等を読み漁ったらしい。高校に進んだ頃に初恋を経験し、ニューヨーク市立大学に進むも二ヶ月で退学。規範の考えや体制、制度に我慢が出来なかったようで、セメント会社に就職したものの激烈な性遍歴が始まる。商売女から、看護婦、ダンサー、店員・・・・ありとあらゆる職業の女生と夜を共にし、それでいて遥か年上の女性と同棲していたから呆れ返る。それでいてヘンリー・ミラーは、このような生活に見切りをつけ、アメリカ西部へと移動。ここでアナーキストの女生と知り合いヨーロッパ文学に開眼する。なかでもドストエフスキーへの傾倒は凄まじいものであった。翌年、ニューヨークに戻り26歳でピアニストと結婚。一女をもうける。1917年、第一次世界大戦勃発。ヘンリー・ミラーはワシントンへ赴き、陸軍省で新聞の通信員として働き、その後、経済調査局にいたり、デパートでのカタログ編集、ホテルの皿洗い、バスの車掌、新聞売り、メッセンジャー・ボーイ、墓堀り人夫、広告のビラ貼り、ホテルボーイ、体操教師と職を転々。いや驚いた。こんなの日本だと飽き性、勤労意欲が無いとか堪え性がないとかいって何処に行っても雇ってもらえない。アメリカだから成り立つのかもしれないが、アルバイト感覚では就けないような職業をこなしている。でも金銭的に困っていたことは確かなようだ。やがて電信会社に就職し、送達部の雇用主任となり小説を書き出した。だが雑誌社の編集部に持ち込んでもつき返され相手にされなかった。この頃、ダンサーと結婚し電信会社を辞める。作家になるつもりだったらしい。しかし当然、作家として一本立ちできるはずが無い。貧困と絶望感で死ぬことばかり考えていた。その結果、生き続ける事、即ち作品を書くことという自覚が備わり、妻を捨ててヨーロッパへ渡る覚悟を決める。

 ロンドンからパリへと移り住み、この時代に『北回帰線』を書いたのであろう。・・・・・・・・・・・・・・・これは小説ではない。これは罵倒であり、讒謗であり、人格の毀損だ、言葉の普通の意味で、これは小説ではない。そうだ、これは引きのばされた侮辱、「芸術」の面に吐きかけた唾のかたまり、神、人間、運命、時間、愛、美・・・・何でもいい、とにかくそういったものを蹴とばし拒絶することだ。

 このような調子で書き綴ってある作品である。性描写が至るところに出てくるかと思うと、突如として哲学的になったり、芸術論を展開していたり、また夢想と現実との境目がないかのように話の焦点が浮遊したりする。真剣に読んでいるのが次第と莫迦らしくなってくる。理解しようと思っても理解できなくて、最後に考えたことは感覚的に捉えるしかないということ。恰もヘンリー・ミラーは書くことを楽しんでいたこのようだ。『北回帰線』とは、難解と思えば難解だが、意外と深い意味はなく、そのような作品なのかもしれない。
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