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2009.07.23 (Thu)

レニ・リーフェンシュタール『回想』を読む

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 レニ・リーフェンシュタールという名前を聞いてどれだけの人が判るだろうか。この書はレニ・リーフェンシュタールが80歳になってから5年がかりで書き上げた回想録である。1902年にベルリンで生まれ、ダンサーとして、女優として、登山家として、映画監督として、スキーヤーとして、写真家として、ダイバーとして生き続けた1人の女性。ナチスとの関係を問われ、ヒトラーの影に付き纏われて、多くの誹謗中傷と戦わなければならなかった悲運の才女・・・・・それがレニ・リーフェンシュタールである。

 私がレニ・リーフェンシュタールの名を最初に意識したのは、少年時代にベルリン・オリンピックの記録映画『オリンピア(民族の祭典)』を観たときである。今もこの映画を超えるオリンピックの記録映画はないといわれるほど完成度の高い映画で、モノクロで撮られたフィルムの中に映された選手達の躍動美に私は圧倒され、最早、単なる記録映画の範疇で語られるものではなく、芸術映画の域にあったことはいうまでもない。そして、そのときに監督としてレニ・リーフェンシュタールの名を初めて認識したのであるが、その人は30代の美貌の女性だということを知り、それ以来、ますます興味を持ったという次第である。

 レニ・リーフェンシュタールは1902年8月22日、ドイツの首都ベルリンの裕福な家庭に生まれた。子供の頃から活発でいて知的好奇心に溢れ、メルヘンを読むのと芝居を見るのが好きで、スポーツにも興じ、水泳、体操熱にとりつかれたという。だがつり輪で落下し体操を禁じられ、アイススケート、ローラースケートを代わりにやりだすとほどの少女だった。やがてダンスと出会い、ドイツ舞踏界で注目されるものの膝の怪我から断念。そんな時に、山岳映画『運命の山』を観て衝撃を受ける。それから間もなく、彼女は『聖山』という山岳映画に女優として出演している。その後に何本かの映画に出演した後、31歳で映画監督兼女優として撮った『青の光』がヴェネチア映画祭で評価され銀賞を受賞。この頃から、彼女の映画を観て才能を高く評価していたアドルフ・ヒトラーに依頼されニュールンベルク党大会を記録した映画『意志の勝利』を撮る。

 こうして名を挙げたレニ・リーフェンシュタールは、1936年のベルリン・オリンピックを記録した映画『オリンピア』(2部作で『民族の祭典』『美の祭典』)を監督として撮ることになった。この映画はドイツ国内外を問わず絶賛されヴェネチア映画祭では最高賞を受賞することになる。

 つまり第二次世界大戦を挟んで、戦前の彼女は栄光に包まれていたというべきだろう。それが戦後になって彼女を取り巻く環境は一変する。現実において国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)との協力関係を問われて逮捕の後、投獄されてしまうのである。結局、4年に及ぶ獄中生活の末、精神的にも参ってしまい精神病院にも入っていた。その後の裁判でナチスとの関係はなかったという判決を受け、ようやく肩の荷がおりたものの、相変わらず世間からの風当たりは強く、ジャーナリズムからも反ナチズムからの容赦ない誹謗中傷の攻撃に晒され続けたレニ・リーフェンシュタールである。

 私はレニ・リーフェンシュタールの名を初めて耳にしたのが、中学生の頃であったが、その当時、まだ存命中の人だなんて知らなかった。その数年後のことだったろうか、テレビでスーダンのヌバ族の写真集を出版し紹介されていた番組を観て驚いた。何と、その写真を撮った人がレニ・リーフェンシュタールだと聞いて、まだこの人は生きていたのだと感嘆した。あの頃で既に70歳を出ていたと思う。テレビに出てきた彼女は確かにお婆さんではあったが、整った秀麗な顔はまさしくレニ・リーフェンシュタールその人だった。

 戦後、世間からの非難に耐えて活き続け、それでいて一向に衰えない芸術家としての彼女。実に71歳でスキューバダイビングの資格をとり水中写真を撮り続けるなど、老いて益々、活動的である。それでいて何かとナチスとの関係が拭えてないという評価が下されるなど、何時までもヒトラーの影から抜け切れない悲運な女性であった。

 それから再びレニ・リーフェンシュタールの名は聞かなくなったが、21世紀初頭だったろうか、映画『ワンダー・アンダー・ウォーター 原色の海』を監督して世間を驚嘆させた。何とこの時、レニ・リーフェンシュタールは齢100歳である。私は畏れ入りました。敬服しましたとばかり、彼女の恐るべきバイタリティーにただ唖然としてしまったものである。100歳で生きているだけでも驚くが、ただ寝たきりの老人ではなく、映画監督として映画を完成させてしまったのだから、驚愕せずにはいられない。でも、それが最後の彼女の輝きであった。翌年の2003年、とうとうレニ・リーフェンシュタールは1世紀に及ぶ人生に幕を閉じてしまった。でも終身、ナチスとの関係が払拭できず、戦後の作品は、何かにつけ戦前の彼女の作品のように高い評価はされず、何でもかんでもナチスとの関連性ばかりを追求された。いわば彼女の芸術的価値は常に政治という泥で覆われつくされ、絶えず偏見との戦いであったということであろうか・・・・・・・。でも、それにしても長い。文庫本にして上下巻1400ページ以上に及ぶ回想録である。読んでいても草臥れる。

 映画 『オリンピア』 冒頭の15分だけでも・・・・・


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