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2009.08.30 (Sun)

衆議院選挙の日

 政権が交代するのかどうか問われる衆議院選挙の日であった。今回は静かであったが、何年か前までは我が家の周辺は煩かった。とにかく衆議院の選挙ともなれば、ある党からひっきりなしに我が家へ電話がかかってきたものだ。家の電話がけたたましくなるから受話器を取ると、決まって「○○党ですが、選挙に行かれましたか」「いや、まだです」と言おうものなら、「すぐに行ってください。それで○○党を入れてください」と来るから、鬱陶しいことこのうえない。父が無くなって6年にはなるが、生きていた頃はオヤジが関係してた縁で、小生の方まで電話がかかってきては入れてくれ、入れてくれと催促する。小生が若い頃は、こちらも若気の至りで言い返したものだが、歳をとってくると、こちらも相手にするのが面倒くさくなって「ハイ、わかりました」といって、さっさと電話を切ったものだ。

 かつては小生の家まで来ては、よく○○党をよろしくと挨拶をするから、こちらも黙ってなくて論争になったものである。
「○○さんは、政治にあまり関心がなさそうなので、○○党をよろしくお願いします」
「残念ながら、○○党には入れません」
「それなら、どこか支持してる党でもあるのですか」
「支持してる党は直接にはないけども、あなた方が支持してる政党には入れたくない」と言ったら、そこから論争になって、最後に「もっと本を読みなさい」と言われたので、少なくとも彼らには負けない程度の読書量があることは明確だったので、「あなた方よりは本を読んでいますよ」といったら、無言で帰っていった。

 いったい選挙って何だと思う。人に薦められたから投票するのか、それとも誰を入れれば判らないから人に言われるままに投票するのか・・・・。これでは釈然としないだろう。日頃の政治無関心がこういったときに迷いを与えるのだと思うと、訳もわからずに投票に行っていいのかと思う。投票に行け行けというが、その裏で誰に入れていいかも判らないような、無頓着派、無関心派、無党派、入り乱れて投票率が上がれば選挙への関心が高くなって、興味が注がれているなんてマスメディアは採り上げるが、そんな短絡的なものではないだろう。

 同じ一票といっても、考えつくして入れた一票もあれば、誰を入れていいか判らないから、人に言われるまま入れた一票も同じ一票なのである。また、なかには組織だって、○○さんに入れて、比例代表は○○党に入れましょうと、教えまわっている団体もある。はたしてこれで全うな議員が選ばれるのかどうか・・・・・小生は何時も疑問に感じているのであるが。

 ただ政治といっても、人によっては理想となるものは違うだろうし、それによって支持する人、政党も違うのは当然のことである。ましてや現在のような大衆社会になると、厖大な人口に一定の生活水準の生活を維持させたいならば、政党が変わって、政治屋が変わっても、やる政治はみんな同じなんだと思うが・・・・。結局、行なう政治はみんな似てくるということだろう。

 まあ、政治屋さんが大義名分をがなりたてるのもいいけれども、国民がすきっ腹では大衆はそっぽを向くだろうし・・・・・・・選挙なんてものは大義名分をがなりたてている連中の自己満足に過ぎない。また、連中の大半は偽善者である。嘘つきで、ホラ吹きであって、こうでないと政治屋になれないだろう。

 でも政治にとって究極の理想というものがあるらしい。鼓腹撃壌という言葉を知っているだろうか。古い中国の歴史書に掲載されているが、腹づつみをうち、大地を叩いて歌うことを意味している。つまり天下太平を楽しむことをいう。

 遥か大昔、堯と舜という理想の帝王がいて、彼らが政治を治めていた世は、まさに太平で幸福であったという。
 
 堯が帝位について数10年、国は平和に治まっていた。堯はあまりの平和さに却って、天下は本当に治まっているか、自分が天子で民は満足しているのか不安になった。そこで、目立たぬように変装して家を出て自分の耳目で確かめようとした。ふと気がつくと子どもたちが、堯を賛美する歌を歌っていた。堯は大人に歌わされているのではないかと疑って真に受けず、立ち去った。ふとかたわらに目をやると、老百姓がおなかを叩いてリズムを取りながら(=鼓腹撃壌)楽しげに歌っている。

日出でて作き、日入りて息う。
井を鑿りて飲み、田を耕して食う。
帝力我に何かあらんや日が出りゃ働き、日が沈めば休む。
井戸を掘って飲み、田を耕して食べる。
帝の力がなんであろう。居ても居なくてもおなじことさ。
この歌を聴いて堯は世の中が平和に治まっていることを悟った、とされる

 まあ、こんなことは、高度で複雑なな現在社会に当てはめてみても仕方が無いが、現在の日本はどこか病んでないだろうか・・・・・・。大衆に政治を感じさせない政治が理想とするならば、今の日本は政治の不備さを感じることばかりである。最も政治を感じない大衆が多すぎるけども・・・・・・。
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