2009.11.03 (Tue)
モーツァルトの40番を聴く
モーツァルト 交響曲第40番ト短調K.550
ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団(1959年1月録音)
神童、神の子、天才と謳われるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは数多くの交響曲を作曲した。が、最も重要な交響曲は最後を飾る三大交響曲と言われる。即ち明るい楽しさに満ちた39番、暗い叙情をたたえた40番、壮麗な41番『ジュピター』の3曲である。この三つの曲は形式美の極致とされ、何れもロマンティックな影がほのかに感じられるのである。それが、この傑作3曲をモーツァルトは僅か1ヶ月半の間に作曲したとされ、度々、作曲家達の間でも驚愕すべき事実だとして、論議の対称にしばしば挙がる事がある。そんな中でも40番はモーツァルトの数少ない短調の交響曲として人気があり、絶対音楽における古今東西最高の傑作の一つとされ、悲劇的、情熱的、病的陰鬱、戦慄的、様々な評があり、カール・シューリヒトのように「経験されたある種の出来事の反映」という人もいる。
この40番は1788年7月25日に完成されたが、古典派とされるモーツァルトにおいてロマン派的な影が見えると先ほど述べたが、1790年というと文学の世界ではロマン派が出始めているから、少なくとも、この時代に作曲された40番の持つ曲想が、情熱や憂鬱の情緒と無関係であるはずがない。しかしながらロマン派のように心の動揺を曲の中へ内包するのではなく、感情を抑制し昇華して音の秩序に高める古典派の作曲家なのである。このようにモーツァルトとハイドンといった時代の人は、形式美の美しさが円熟期にあり、この時代にあってこそ交響曲そのものの完成を見るのである。そして、その後のロマン派の誕生を待つことになるのだが、モーツァルトの交響曲は一見シンプルでいて、音符一つが半音ずれただけで曲そのものが、崩れていくのではないかと思わせるほどの完璧さで迫ってくるのである。
全4楽章で30分ほどの曲であり、編成もロマン派以降の大曲に比べると小さく、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの弦楽器に、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンだけという小編成である。ベートーヴェンの交響曲に見られるようなトロンボーンやトランペットといった金管群の咆哮も見られない。したがって上品な可愛らしい交響曲といってもいいだろう。ただ、それでいて第1楽章299小節、第2楽章123小節、第3楽章84小節、第4楽章308小節もあって18世紀末期の交響曲としては長大な交響曲なのだ。それでいて、この40番を聴く度に私は新たな発見があるほど、魅力的な交響曲なのであるが、何度も言うように僅かな期間で素早く作られたという話を聞くごとに驚かされる。
ある著名な作曲家が言うには・・・・・作曲というものに普通どのくらい時間を要するかは、その曲の内容なり形式の違いで千変万化であるが、少なくとも考えるという時間を除いて、あのオタマジャクシをポチポチ書くのに必要な物理的時間は、今もモーツァルトの時代も違いはあるまい。だからもし、時間が与えられ、モーツァルトがこの1ヶ月半の間に書いた三大交響曲をはじめとする全作品を写せとといわれたら、毎日この仕事に没頭したとしても丁寧にペン書きしていたら、おそらく1ヶ月近くはかかるだろうと思う。・・・・・・・・おそらく某作曲家がいうのは本音だと思う。モーツァルトは1788年の6月26日に39番を完成させ、7月25日にこの40番、そして8月10日に『ジュピター』を完成。また、同時期には並行してオペラや協奏曲、器楽曲等も完成させているのである。まさに神業としかいえないことを平然とやってのけ、それでいて駄作どころか、その何れもが音楽史に残る傑作ばかりというから、モーツァルトを天才といった常套句に当て嵌めてみてもいいのだろうかと言葉にも困るほどである。
この時期のモーツァルトは極度に経済状態が悪く、借金までしてやっと暮らしていたから、金に困って多作したことも事実のようであるが、この生活的苦悩の中にあって、このような豊な音楽を連作したということは凡庸な作曲家では到底出来ない芸当である。だから映画『アマデウス』でサリエリが凡庸な作曲家として描かれたことはフィクションとしてはありうるのだろう。でも地球上の古今東西の作曲家で、モーツァルトの右に出る者がいるかどうかを考えれば、サリエリが凡庸といわれるのは可哀想だと思える。それがモーツァルトと同時代を生きた人の定めなのかもしれない。
40番の演奏。指揮トレヴァー・ピノック ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
第1楽章、頭から約140小節あたりまで・・・・
ブルーノ・ワルター指揮
コロンビア交響楽団(1959年1月録音)
神童、神の子、天才と謳われるヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは数多くの交響曲を作曲した。が、最も重要な交響曲は最後を飾る三大交響曲と言われる。即ち明るい楽しさに満ちた39番、暗い叙情をたたえた40番、壮麗な41番『ジュピター』の3曲である。この三つの曲は形式美の極致とされ、何れもロマンティックな影がほのかに感じられるのである。それが、この傑作3曲をモーツァルトは僅か1ヶ月半の間に作曲したとされ、度々、作曲家達の間でも驚愕すべき事実だとして、論議の対称にしばしば挙がる事がある。そんな中でも40番はモーツァルトの数少ない短調の交響曲として人気があり、絶対音楽における古今東西最高の傑作の一つとされ、悲劇的、情熱的、病的陰鬱、戦慄的、様々な評があり、カール・シューリヒトのように「経験されたある種の出来事の反映」という人もいる。
この40番は1788年7月25日に完成されたが、古典派とされるモーツァルトにおいてロマン派的な影が見えると先ほど述べたが、1790年というと文学の世界ではロマン派が出始めているから、少なくとも、この時代に作曲された40番の持つ曲想が、情熱や憂鬱の情緒と無関係であるはずがない。しかしながらロマン派のように心の動揺を曲の中へ内包するのではなく、感情を抑制し昇華して音の秩序に高める古典派の作曲家なのである。このようにモーツァルトとハイドンといった時代の人は、形式美の美しさが円熟期にあり、この時代にあってこそ交響曲そのものの完成を見るのである。そして、その後のロマン派の誕生を待つことになるのだが、モーツァルトの交響曲は一見シンプルでいて、音符一つが半音ずれただけで曲そのものが、崩れていくのではないかと思わせるほどの完璧さで迫ってくるのである。
全4楽章で30分ほどの曲であり、編成もロマン派以降の大曲に比べると小さく、第一ヴァイオリン、第二ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの弦楽器に、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンだけという小編成である。ベートーヴェンの交響曲に見られるようなトロンボーンやトランペットといった金管群の咆哮も見られない。したがって上品な可愛らしい交響曲といってもいいだろう。ただ、それでいて第1楽章299小節、第2楽章123小節、第3楽章84小節、第4楽章308小節もあって18世紀末期の交響曲としては長大な交響曲なのだ。それでいて、この40番を聴く度に私は新たな発見があるほど、魅力的な交響曲なのであるが、何度も言うように僅かな期間で素早く作られたという話を聞くごとに驚かされる。
ある著名な作曲家が言うには・・・・・作曲というものに普通どのくらい時間を要するかは、その曲の内容なり形式の違いで千変万化であるが、少なくとも考えるという時間を除いて、あのオタマジャクシをポチポチ書くのに必要な物理的時間は、今もモーツァルトの時代も違いはあるまい。だからもし、時間が与えられ、モーツァルトがこの1ヶ月半の間に書いた三大交響曲をはじめとする全作品を写せとといわれたら、毎日この仕事に没頭したとしても丁寧にペン書きしていたら、おそらく1ヶ月近くはかかるだろうと思う。・・・・・・・・おそらく某作曲家がいうのは本音だと思う。モーツァルトは1788年の6月26日に39番を完成させ、7月25日にこの40番、そして8月10日に『ジュピター』を完成。また、同時期には並行してオペラや協奏曲、器楽曲等も完成させているのである。まさに神業としかいえないことを平然とやってのけ、それでいて駄作どころか、その何れもが音楽史に残る傑作ばかりというから、モーツァルトを天才といった常套句に当て嵌めてみてもいいのだろうかと言葉にも困るほどである。
この時期のモーツァルトは極度に経済状態が悪く、借金までしてやっと暮らしていたから、金に困って多作したことも事実のようであるが、この生活的苦悩の中にあって、このような豊な音楽を連作したということは凡庸な作曲家では到底出来ない芸当である。だから映画『アマデウス』でサリエリが凡庸な作曲家として描かれたことはフィクションとしてはありうるのだろう。でも地球上の古今東西の作曲家で、モーツァルトの右に出る者がいるかどうかを考えれば、サリエリが凡庸といわれるのは可哀想だと思える。それがモーツァルトと同時代を生きた人の定めなのかもしれない。
40番の演奏。指揮トレヴァー・ピノック ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
第1楽章、頭から約140小節あたりまで・・・・
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