2007.11.27 (Tue)
古典文学を読む・・・・・『罪と罰』
ドストエフスキーの『罪と罰』を初めて読んだ時、20歳になっていただろうか・・・・。何とも複雑な読書感というものがあった。
簡単な筋書きを説明すると・・・・・極貧のラスコーリニコフは大学を中退する。そして汚い部屋に閉じこもり奇妙な考えが思い浮かぶ。人間には才能ある人と平凡な人に分けられ、才能ある人は少数で選ばれたものであり、法律を作り、改革の為に障害を乗り越える権利を持っている。一方、大半の平凡な人は法律に従うしかないという。この理論にしたがって、ラスコーリニコフは偶然も手伝って、高利貸しの老婆を殺してしまう。予審判事ポルフィーリはラスコーリニコフが犯人だと見抜くが、物的証拠がない。ポルトフィーリは自首をすすめるがラスコーリニコフは屈しない。それは自分の思想の破綻を意味するからである。この2人の間には激しい心理的暗闇が繰り返される。そんな時、不幸な娼婦シーニャの愛に触れラスコーリニコフは遂に自首するのである。そしてシベリアへ流され、囚人達にも疎外されるのであるが、同じ囚人達がソーニャを尊敬しているのを見て、ラスコーリニコフは自らの敗北を認めるのである。
この小説を初めて読んだ時の、複雑な心境は忘れられない。殺人によって富と権力を握ろうとしたラスコーリニコフ。自己の知的論証によって正当化された殺人を起こしたのであるが、犯行後、激しい自己嫌悪に陥り、やがてソーニャという愛の具象者との出会いがあり、やがて内的に崩壊していく。この過程では老婆を殺したラスコーリニコフと、ソーニャの生きる道や使命といったものが、同じ目的にあるのだという妙な話の決着に驚いたものである。
つまり敬虔なキリスト教の信者ソーニャは「キリストが私を甦らせてくれた」という。ソーニャはキリストによって生命を与えられ、愛による救いを広めていくことが使命となったのである。一方、ラスコーリニコフは殺人により、富と権力を握ろうとしたが、それは新しいユートピアを作るための手段にしか過ぎないとしたら、ソーニャとの行きつくところは一緒なのだと言った。そして、ここから2人の愛が真実の闘争をとる形となるのだという。
今も昔も、この作品を読んだ時の印象が強くて、ロシア文学は難解だといった思いがあるのは、こうした複雑な二重、三重もの心理的葛藤と欲求が話の中に内包され、短絡的に答えが見つからないから、私は何時も物語に翻弄されたという記憶しかないからだろう。でもドストエフスキーはトルストイやチェーホフ以上に、奥が深いというのか、その作品群の深遠なる漆黒の闇に入ってしまうと、どうしても抜け出せなくなるから不思議だ。
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