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2010.05.29 (Sat)

当麻寺に行く

 大和盆地は当麻寺に行ってきた。当麻寺?・・・・といっても知名度がないから、印象が湧かないかもしれないなあ。当麻寺(たいまでら)は奈良県葛城市にある古寺である。といっても奈良県にある寺は、みな古寺ではあるけれど、あまり聞き慣れない寺ではあるが、知る人ぞ知る名刹である。知らない人はとうまでらと読んでしまうしだろうし、東大寺や法隆寺のように観光客がゾロゾロと訪れるお寺でもないから、当麻寺といっても関西在住の人でさえ知らない人が多い。しょうがないといえばしょうがないが・・・・・・。

 当麻寺というのは奈良県と大阪府に跨る死火山・二上山の東麓に位置するお寺である。以前は奈良県北葛城郡当麻町といっていたが、現在は周辺の町村と合併し葛城市に属する。二上山はラクダの瘤のように2つの山がくっついたような形をしていて、死火山と書いたが最後の噴火が約1400万年前とされ、今では火山としての扱いはない。だから関西に火山があったことも知らない人が大半である。高さは500m程度で金剛山地の北端にあたる。この二上山は奈良盆地東部の三輪山(神体山)と相対する位置にあり、大和の国の西に位置し、夕陽が2つの頂上の間に沈むことから極楽浄土の入り口とされ、死者の魂が赴く先とされるなど古代の人には特別な山なのであった。また、二上山の南には竹内街道があって、河内と大和を貫く重要な交通路であり、大陸から渡来した人や物が難波の津に上陸し、都のあった大和盆地へ運ぶためのルートでもあったのだ。

 これだけ書けば当麻寺のある二上山付近は日本の歴史において、重要な拠点だったということがいえる。こうして当麻寺は建てられたのである。ただ残念ながら、当麻寺が何時、創建されたのか明確ではなく、地元の豪族・当麻氏の氏寺として7世紀後半に創建されたのではと言われるが推測の域を出ない。文献によると『建久御巡礼記』(鎌倉時代初期)、聖徳太子の異母弟の麻呂古王が弥勒仏を本尊とする禅林寺として建て、その孫の当麻真人国見が681年に現在地に移したものであるらしい。また、『上宮太子拾遺記』(1237年)によると、推古天皇の頃、麻呂古王が救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建したもので、692年に現在地に移築したともされる。まあ、それだけ古くて由緒ある寺であることを認識してもらいたいと思う。当麻寺は当初、当麻氏の氏寺として建てられたと書いたが、後の世になって中将姫伝説、当麻曼荼羅のお寺として知られるようになるが、詳しい話は省くとして、何かと興味深いお話が満載されている古寺である。

 ところで当麻寺は独自の伽藍配置であるが、今とは違っていて創建当初の伽藍配置は判りにくい。今は南に門がなく、東門である仁王門から入る。境内は南を正面とする金堂、講堂、東を正面とする本堂が接するように建っている。さらに、これらの南方には2つの三重塔が建ち、金堂と東塔、西塔との間には中之坊、護念院が後年に建てられたため、創建当初の伽藍配置が判りにくくなったといわれる。最も創建の頃の面影はあるのかといわれればよく判らないが、国宝である曼荼羅堂(本堂)、近世以前に建てられた東西両塔(共に国宝)が残る日本唯一のお寺といっていいだろう。


当麻寺の仁王門である。このもんは東側にあり、奈良盆地の古寺は南に門があるのが通例だから、後年に建てられたものとされる。
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 当麻寺の伽藍配置は正面の奥に本堂である曼荼羅堂があり、左に金堂、右に講堂がある。
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 国宝である曼荼羅堂(本堂)である。
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 こちらは東の三重塔。
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 こちらは西の三重塔。東西共に国宝で、様式は少し異なる。高さは約25m。
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 日本最古の梵鐘とされる。もちろん国宝。
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 当麻寺を離れた東の方角から拝むとこのように木々の合間から、東西の両塔が見極められる。
s-P1010982.jpg

 近鉄当麻寺駅から当麻寺まで行く道中に当麻蹴速(たいまのけはや)の塚がある。当麻蹴速とは、垂仁天皇の頃、この地である当麻に住む強力でならした男であるが、この当麻蹴速が強力を誇って生死を問わない勝負をする者を欲していたという。これに手を挙げたのが出雲の国の勇士・野見宿禰(のみのすくね)であった。こうして2人は穴師巫兵主神社(奈良県桜井市)で対戦した。ただしこの相撲は今の相撲とはルールがだいぶ違い角力というもので蹴ってもよかった。そして、いざ勝負は互いに蹴りあったあと、当麻蹴速は野見宿禰に蹴り倒され、腰を踏み折られて死んだという。こうして当麻蹴速の土地は没収、野見宿禰の土地になったと『日本書記』に記述されているのだが・・・・・。これが日本での相撲の始まりだとされている。
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