2010.06.16 (Wed)
②サッカーに対しての蘊蓄を述べる・・・・・
一昨日の日本対カメルーン戦であるが、薄氷を踏むような勝利だった。うまく松井がクロスをあげ本田が見事にゴールした。けして綺麗なゴールではなかったが、この海外でのワールドカップの勝利は大きいだろう。このところ代表の試合は敗戦ばかりで、ワールドカップで3戦全敗するのではとの声も多く、それだと今後のJリーグの人気にも係わるし、日本のサッカーの将来も暗いものとなっただろう。それが一昨日の勝利で、持ち直したというのが正直なところである。でも、まだまだオランダ戦、デンマーク戦が残っている。これらの強豪と、如何に戦うかが問われている。守備的にいってカウンター戦法という手もあるが、これだとつまらない。やはり堂々と立ち向ってゴールを目指して欲しい。チマチマしたサッカーをして引き分け狙いなんてもってのほかである。決勝トーナメントなんて行かなくていいから、こちらが納得できるような戦いぶりを見せてくれといいたい。
さて、話は前回の続きで、1966年のジュールリメ杯世界選手権の映像を観てから、私は海外のサッカー事情を色々と調べるようになった。あの頃、アマチュアだった日本のサッカー。でもヨーロッパや南米の強豪国はとうの昔にプロ化していたことを知る。そして、この頃にサッカーの歴史なるものを文献で調べるようになり、また過去のワールドカップの映像なるものもテレビで拝見した。すると現在、FIFAワールドカップとして行われている大会は、フランス人のFIFA会長ジュール・リメが中心になって1930年に始まったということ、それで4年に1回行なわれ、第1回からウルグアイ、イタリア、イタリア、ウルグアイ、西ドイツ、ブラジル、ブラジル、イングランドの順に優勝しているという。それで、その頃に観た1958年のブラジル・チームの映像には驚嘆したものだ。
サッカーの選手ってこれほど見事にボールが操れるものなのかと・・・・。あの伝説のブラジル・チーム。ババ、ペレ、ガリンシャ、ザガロ、ジジ、ジト、ニウトン・サントス、ジャウマ・サントス、オルランド、ベリーニ、ジルマール・・・・・彼らは、それまで私が抱いていたサッカーのプレーの概念をぶち壊してしまった。彼らは何故に、あれほど芸術的に華麗にボールを捌けるのか。彼らはヨーロッパの選手とは違っていた。中でも17歳の少年だったペレと狂気のドリブラー、ガリンシャのプレーには唖然とした。当然、ブラジルは1958年のスウェーデン大会に優勝。4年後のチリ大会も優勝し連覇した。そして3連覇がかかっていたイングランド大会で、ブラジルは徹底的にマークされ、ことにペレは狙われた。初戦のブルガリア戦からペレは脚を蹴られまくり負傷。2戦目のハンガリー戦でペレは欠場した。さらに3戦目のポルトガル戦。ここでもペレは脚を蹴られ、タックルされ負傷。場外に出され治療。でも片足を引きずったペレは満足なプレーが出来なかった。こうしてブラジルは不完全燃焼で敗戦。イングランドの地から去った。ペレはこの時「2度とこの大会には出ない」と言った。
この当時のルールでは、先発メンバーが退場しても交代が出来なかったから、負傷して退場してしまえばメンバーが欠けた状況で試合を戦わなければならなかった。それで、ペレを退場させようと相手は執拗に脚を狙っていたのかもしれない。結局、この大会でラフプレーが目だったから、次回の大会からはメンバーの交代が2人まで認められるようになり、ラフプレーを防ぐためにイエローカード、レッドカードが採用されたのである。
さて、私が初めて意識したサッカーの世界大会。1970年ジュールリメ杯世界選手権メキシコ大会。もうこの頃には俗称でワールドカップと呼ばれていた。しかし、日本での報道はほとんどない。この大会を知る人もほとんどいなかった。これが1970年ごろの実情である。その2年前であるがメキシコ・オリンピックで日本代表が奇跡の銅メダルを獲得した。釜本邦茂が得点王になり一躍注目されたのだが、その翌年、日本は1970年のワールドカップの予選に参加した。でも釜本が肝炎にかかり、彼を欠いたメンバーで予選を戦い残念な結果に終わったのである。
1970年のメキシコ大会。テレビでも報道がほとんどないし、一般新聞ではスポーツ欄の片隅に結果が記載されるだけ。仕方なく私は本屋に行き、サッカーの雑誌で記事を読み情報を仕入れていた。つまり1970年の段階でワールドカップは、まだこの程度の認知度だったのである。ペレといってもサッカー・ファンにしか名前が知られていなかった。しかし、この1970年の決勝戦。ブラジル対イタリア戦。ある民放が特集番組で編集してテレビで放映してくれたのである。私はここでペレの躍動感に浸れることが出来、さらにジャイルジーニョ、トスタン、リベリーノといったブラジルのプレイヤーの動きに目を見張ったものである。ブラジルはぺレのヘデイングで先制ゴールし、4対1でイタリアに圧勝した。
ブラジルは大会3回目の優勝となり、ジュールリメ杯を永久保存することとなった。これにより次期大回から、新しいワールドカップの下で覇権を争われることなり、大会名も正式にFIFAワールドカップと呼ばれるようになったのである。なお、この1970年のメキシコ大会を最後に黒い真珠と呼ばれたサッカーの王様ペレは代表の試合から退いたのである。
1970年メキシコ大回の決勝。イタリア対ブラジル。
前半17分ペレのヘディングシュートでブラジル先制。37分イタリアのボニンセーニャがパスミスをカットして、1人で持ち込み同点。しかし後半はブラジルのワンサイド。ジェルソン、ジャイルジーニョ、カルロス・アルベルトがそれぞれ得点。ブラジルが3度目の優勝をはたし、ジュールリメ杯を永久保存した。
さて、話は前回の続きで、1966年のジュールリメ杯世界選手権の映像を観てから、私は海外のサッカー事情を色々と調べるようになった。あの頃、アマチュアだった日本のサッカー。でもヨーロッパや南米の強豪国はとうの昔にプロ化していたことを知る。そして、この頃にサッカーの歴史なるものを文献で調べるようになり、また過去のワールドカップの映像なるものもテレビで拝見した。すると現在、FIFAワールドカップとして行われている大会は、フランス人のFIFA会長ジュール・リメが中心になって1930年に始まったということ、それで4年に1回行なわれ、第1回からウルグアイ、イタリア、イタリア、ウルグアイ、西ドイツ、ブラジル、ブラジル、イングランドの順に優勝しているという。それで、その頃に観た1958年のブラジル・チームの映像には驚嘆したものだ。
サッカーの選手ってこれほど見事にボールが操れるものなのかと・・・・。あの伝説のブラジル・チーム。ババ、ペレ、ガリンシャ、ザガロ、ジジ、ジト、ニウトン・サントス、ジャウマ・サントス、オルランド、ベリーニ、ジルマール・・・・・彼らは、それまで私が抱いていたサッカーのプレーの概念をぶち壊してしまった。彼らは何故に、あれほど芸術的に華麗にボールを捌けるのか。彼らはヨーロッパの選手とは違っていた。中でも17歳の少年だったペレと狂気のドリブラー、ガリンシャのプレーには唖然とした。当然、ブラジルは1958年のスウェーデン大会に優勝。4年後のチリ大会も優勝し連覇した。そして3連覇がかかっていたイングランド大会で、ブラジルは徹底的にマークされ、ことにペレは狙われた。初戦のブルガリア戦からペレは脚を蹴られまくり負傷。2戦目のハンガリー戦でペレは欠場した。さらに3戦目のポルトガル戦。ここでもペレは脚を蹴られ、タックルされ負傷。場外に出され治療。でも片足を引きずったペレは満足なプレーが出来なかった。こうしてブラジルは不完全燃焼で敗戦。イングランドの地から去った。ペレはこの時「2度とこの大会には出ない」と言った。
この当時のルールでは、先発メンバーが退場しても交代が出来なかったから、負傷して退場してしまえばメンバーが欠けた状況で試合を戦わなければならなかった。それで、ペレを退場させようと相手は執拗に脚を狙っていたのかもしれない。結局、この大会でラフプレーが目だったから、次回の大会からはメンバーの交代が2人まで認められるようになり、ラフプレーを防ぐためにイエローカード、レッドカードが採用されたのである。
さて、私が初めて意識したサッカーの世界大会。1970年ジュールリメ杯世界選手権メキシコ大会。もうこの頃には俗称でワールドカップと呼ばれていた。しかし、日本での報道はほとんどない。この大会を知る人もほとんどいなかった。これが1970年ごろの実情である。その2年前であるがメキシコ・オリンピックで日本代表が奇跡の銅メダルを獲得した。釜本邦茂が得点王になり一躍注目されたのだが、その翌年、日本は1970年のワールドカップの予選に参加した。でも釜本が肝炎にかかり、彼を欠いたメンバーで予選を戦い残念な結果に終わったのである。
1970年のメキシコ大会。テレビでも報道がほとんどないし、一般新聞ではスポーツ欄の片隅に結果が記載されるだけ。仕方なく私は本屋に行き、サッカーの雑誌で記事を読み情報を仕入れていた。つまり1970年の段階でワールドカップは、まだこの程度の認知度だったのである。ペレといってもサッカー・ファンにしか名前が知られていなかった。しかし、この1970年の決勝戦。ブラジル対イタリア戦。ある民放が特集番組で編集してテレビで放映してくれたのである。私はここでペレの躍動感に浸れることが出来、さらにジャイルジーニョ、トスタン、リベリーノといったブラジルのプレイヤーの動きに目を見張ったものである。ブラジルはぺレのヘデイングで先制ゴールし、4対1でイタリアに圧勝した。
ブラジルは大会3回目の優勝となり、ジュールリメ杯を永久保存することとなった。これにより次期大回から、新しいワールドカップの下で覇権を争われることなり、大会名も正式にFIFAワールドカップと呼ばれるようになったのである。なお、この1970年のメキシコ大会を最後に黒い真珠と呼ばれたサッカーの王様ペレは代表の試合から退いたのである。
1970年メキシコ大回の決勝。イタリア対ブラジル。
前半17分ペレのヘディングシュートでブラジル先制。37分イタリアのボニンセーニャがパスミスをカットして、1人で持ち込み同点。しかし後半はブラジルのワンサイド。ジェルソン、ジャイルジーニョ、カルロス・アルベルトがそれぞれ得点。ブラジルが3度目の優勝をはたし、ジュールリメ杯を永久保存した。
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