2010.06.19 (Sat)
③サッカーに対しての蘊蓄を述べる・・・・・
前回、1970年のジュールリメ杯フットボール世界選手権でブラジルが3度目優勝をはたしジュールリメ杯を永久保持することとなり、同時にサッカーの王様ペレが代表から引退したところまで書いた。時代は70年代に入り、その頃であろうか、テレビでよく外国のサッカーリーグの試合を放送していた。たとえばイングランドリーグのチェルシー対アストン・ヴィラだとかマンチェスター・ユナイテッド対リヴァプール。また西ドイツのバイエルン・ミュンヘン対1FCケルン、ボルシア・メンヘングランドバッハ対ブレーメンといったように、主にイングランド、西ドイツの国内リーグの試合を紹介することが多かった。でも、こんなの観る人がいるのかあと正直、私はそんなことを思いながら観ていたものだ。なにしろ当時の日本といえばサッカー人気がなく、日本リーグといっても観衆はまばらであった。とにかく年輩の人の中には、サッカーが世界中で最も人気があって、野球が限られた地域でだけ人気のあるマイナー・スポーツであることを信じなかったし、野球は何処でも流行っている球技だと言い放つ人がいたぐらいだ。
そんな時代でも、サッカーを愛する私は1974年のFIFA西ドイツ大会のアジア予選に参加した日本代表の動向に目を配った。でも当たり前のようにアマチュアの日本代表は弱く、イスラエルに1対2で敗れ、次の南ベトナムには4対0で圧勝した。だが、香港に0対1、イスラエルとの再戦に0対1で敗戦。早々と一次予選で敗退してしまった。こうしてまたも日本は出られず、1974年6月西ドイツでFIFAワールドカップが開かれた(参加16ヶ国)。
この西ドイツ大会の頃、私は大学生になっていて、大会の試合結果が気になっていたが、もちろんテレビでの試合放送は一切なし。一般紙における報道も片隅という時代。ただスポーツ紙だけは海外の人気に目をつけ、日本でもソロソロ隠れファンがいることに気がついたのか、一面を割いてそこそこ大きく報道するようになっていた。
この大会であるが、旋風を巻き起こしたのは前回優勝のブラジルでもなく、地元の西ドイツでもない。実は戦後、初めての出場になるオランダが話題を独占した大会だった。これまでオランダはサッカー弱小国。それが戦後生まれの黄金時代の選手がようやく育ちつつあり、ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップでオランダのクラブ、アヤックス・アムステルダムが3連覇するなど飛躍的にレベルが上昇、それに比例し代表チームも急激に強くなっていた。ことにアヤックスでトータル・フットボールを実践していたリヌス・ミケルス監督とその選手達が、オランダ代表でも中心となり、この1974年の西ドイツ大会で大暴れした。
オランダの選手は、これまでのサッカーの概念を打ち破る戦法で勝ち進み世界中の人は驚いた。サッカーのプレーが急激に近代的になった大会としてよく語られるが、その急先鋒となったオランダは、とにかくサッカーに革命をもたらした。それまでFW、MF、DFはそれぞれのポジションからあまり動くことはなかったから、サッカーの試合は今よりものんびりしていた。それがオランダ・チームはFWであろうが、MFであろうが、DFであろうが、時によっては関係なく、攻撃参加するし守備もする。オフサイド・トラップを頻繁にかける。DFのオーバーラップはある。とにかく攻撃が流動的であった。このオランダのサッカーを観て、専門家は21世紀のサッカーだといった。それほど衝撃的なサッカーを世界に見せ付けたのが、この時のオランダである。中でもチームのキャプテンであり、センター・フォワードであり、それでいてコントローラーでもあるヨハン・クライフに観衆は圧倒された。まさに変幻時代にプレーする。トータル・フットボールとはいえ、この革命的戦法はクライフという有能なスターがいてこそ可能であったといわれる。
試合の流れを把握しながらチームに指揮をする。そういった中で自由に動き回り、攻撃の起点となったり、アシストをしたかと思うとドリブルで抜いていく、または強烈なシュートを放つ。まさにスーパースターであった。こうしてついたニックネームが『空飛ぶオランダ人』だとか『ヨハン・クライフ・スーパー・スター』であった。まさに西ドイツ大会は、オランダ旋風と共にクライフの大会のようでもあった。
一方、ブラジルはペレを欠き、精彩がなく、二次リーグでオランダに敗れる。また地元の西ドイツはキャプテン、ベッケンバウアーを中心に稀代の点取り屋ゲルト・ミューラーの活躍で地味に勝ち上がった。こうして決勝は西ドイツ対オランダの間で行われた。
これまでサッカーの生放送はなかったが、この時、史上初といってもいいだろう。決勝戦のみテレビ東京系列で深夜に生放送があった。当然、私は観てないが・・・・・・。
とにかくオランダが圧倒的に有利といわれた。とにかくオランダのキックオフで始まったが、西ドイツは一度もボールに触れることなく先取点を奪われたのだ。キックオフからゆっくりボールを回し、再びクライフがボールに触れた途端、彼は西ドイツの陣地を切り裂くようにドリブルで急に突進した。するとペナルティ・エリアの線上でへーネスに倒されたのである。こうしてPKを得てオランダのニースケンスが蹴りこんで、開始1分でオランダは先制した。だが、このあまりにも早過ぎるゴールがオランダを変えてしまった。それまで見事なトータル・フットボールで相手を下してきたのに、勝ちを意識しだしたのか、過去のサッカー・スタイルに戻ってしまった。オランダはロビングを繰り返し選手が機能しなくなった。クライフは一人、憤慨するように苛立っていた。その後、西ドイツは息を吹き返し、前半でヘルツェンバインがPKを誘い、それにヤンセンがつられて倒してしまう。これでブライトナーがPKを決めて同点。後半にはゲルト・ミューラーガ渋いゴールを決めて、地元の西ドイツが優勝。近代的サッカーだといわれたオランダは優勝できなかった。でもサッカー史に残る近代的戦術で強く印象を残したのはオランダであり、最も素晴らしいプレーを見せたのもオランダと、その中心ヨハン・クライフであった。その強豪オランダと日本代表は、今日いよいよ戦うこととなるが、これは厳しい試合になりそうだ。ご健闘を祈ります。
1974年FIFAワールドカップ決勝 オランダ対西ドイツ。
そんな時代でも、サッカーを愛する私は1974年のFIFA西ドイツ大会のアジア予選に参加した日本代表の動向に目を配った。でも当たり前のようにアマチュアの日本代表は弱く、イスラエルに1対2で敗れ、次の南ベトナムには4対0で圧勝した。だが、香港に0対1、イスラエルとの再戦に0対1で敗戦。早々と一次予選で敗退してしまった。こうしてまたも日本は出られず、1974年6月西ドイツでFIFAワールドカップが開かれた(参加16ヶ国)。
この西ドイツ大会の頃、私は大学生になっていて、大会の試合結果が気になっていたが、もちろんテレビでの試合放送は一切なし。一般紙における報道も片隅という時代。ただスポーツ紙だけは海外の人気に目をつけ、日本でもソロソロ隠れファンがいることに気がついたのか、一面を割いてそこそこ大きく報道するようになっていた。
この大会であるが、旋風を巻き起こしたのは前回優勝のブラジルでもなく、地元の西ドイツでもない。実は戦後、初めての出場になるオランダが話題を独占した大会だった。これまでオランダはサッカー弱小国。それが戦後生まれの黄金時代の選手がようやく育ちつつあり、ヨーロッパ・チャンピオンズ・カップでオランダのクラブ、アヤックス・アムステルダムが3連覇するなど飛躍的にレベルが上昇、それに比例し代表チームも急激に強くなっていた。ことにアヤックスでトータル・フットボールを実践していたリヌス・ミケルス監督とその選手達が、オランダ代表でも中心となり、この1974年の西ドイツ大会で大暴れした。
オランダの選手は、これまでのサッカーの概念を打ち破る戦法で勝ち進み世界中の人は驚いた。サッカーのプレーが急激に近代的になった大会としてよく語られるが、その急先鋒となったオランダは、とにかくサッカーに革命をもたらした。それまでFW、MF、DFはそれぞれのポジションからあまり動くことはなかったから、サッカーの試合は今よりものんびりしていた。それがオランダ・チームはFWであろうが、MFであろうが、DFであろうが、時によっては関係なく、攻撃参加するし守備もする。オフサイド・トラップを頻繁にかける。DFのオーバーラップはある。とにかく攻撃が流動的であった。このオランダのサッカーを観て、専門家は21世紀のサッカーだといった。それほど衝撃的なサッカーを世界に見せ付けたのが、この時のオランダである。中でもチームのキャプテンであり、センター・フォワードであり、それでいてコントローラーでもあるヨハン・クライフに観衆は圧倒された。まさに変幻時代にプレーする。トータル・フットボールとはいえ、この革命的戦法はクライフという有能なスターがいてこそ可能であったといわれる。
試合の流れを把握しながらチームに指揮をする。そういった中で自由に動き回り、攻撃の起点となったり、アシストをしたかと思うとドリブルで抜いていく、または強烈なシュートを放つ。まさにスーパースターであった。こうしてついたニックネームが『空飛ぶオランダ人』だとか『ヨハン・クライフ・スーパー・スター』であった。まさに西ドイツ大会は、オランダ旋風と共にクライフの大会のようでもあった。
一方、ブラジルはペレを欠き、精彩がなく、二次リーグでオランダに敗れる。また地元の西ドイツはキャプテン、ベッケンバウアーを中心に稀代の点取り屋ゲルト・ミューラーの活躍で地味に勝ち上がった。こうして決勝は西ドイツ対オランダの間で行われた。
これまでサッカーの生放送はなかったが、この時、史上初といってもいいだろう。決勝戦のみテレビ東京系列で深夜に生放送があった。当然、私は観てないが・・・・・・。
とにかくオランダが圧倒的に有利といわれた。とにかくオランダのキックオフで始まったが、西ドイツは一度もボールに触れることなく先取点を奪われたのだ。キックオフからゆっくりボールを回し、再びクライフがボールに触れた途端、彼は西ドイツの陣地を切り裂くようにドリブルで急に突進した。するとペナルティ・エリアの線上でへーネスに倒されたのである。こうしてPKを得てオランダのニースケンスが蹴りこんで、開始1分でオランダは先制した。だが、このあまりにも早過ぎるゴールがオランダを変えてしまった。それまで見事なトータル・フットボールで相手を下してきたのに、勝ちを意識しだしたのか、過去のサッカー・スタイルに戻ってしまった。オランダはロビングを繰り返し選手が機能しなくなった。クライフは一人、憤慨するように苛立っていた。その後、西ドイツは息を吹き返し、前半でヘルツェンバインがPKを誘い、それにヤンセンがつられて倒してしまう。これでブライトナーがPKを決めて同点。後半にはゲルト・ミューラーガ渋いゴールを決めて、地元の西ドイツが優勝。近代的サッカーだといわれたオランダは優勝できなかった。でもサッカー史に残る近代的戦術で強く印象を残したのはオランダであり、最も素晴らしいプレーを見せたのもオランダと、その中心ヨハン・クライフであった。その強豪オランダと日本代表は、今日いよいよ戦うこととなるが、これは厳しい試合になりそうだ。ご健闘を祈ります。
1974年FIFAワールドカップ決勝 オランダ対西ドイツ。
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