2010.09.16 (Thu)
司馬遼太郎の『項羽と劉邦』を読む

中国の歴史物語というとまず三国志が挙げれれるが、この『項羽と劉邦』というのは、それよりも時代を遡り、紀元前3世紀末から2世紀前半にかけての話であるので、どこまでが事実であって何処までが作り話なのか判らないところがあるが、三国志と同様スケールの大きな物語である。
紀元前3世紀、政(せい)という名の人物が6国を征服して中国大陸を絶対政権の下に置いた。それは紀元前221年のことである。これまで諸方に王国が割拠し、分裂、統合を繰り返すなどが当たり前であり、中国の全土が統一されたことの方が希であった。これまでは春秋戦国時代といい、政によって統一されて出来た国が秦である。そこで政は通称で秦の始皇帝と呼ばれる。始皇帝は革新的な政治を治め法を重視したが、一方で郡県制に対する不満を持った人も多く、長城の整備、咸陽宮と阿房宮の造営等が人々の生活を圧迫した。やがて始皇帝は亡くなり、2世皇帝胡亥を操る趙高によるいい加減な政治が続いていた。次第と秦の統制力は弱まり、農民反乱である陳勝、呉広の一揆が起こる。だが、これらは章邯が率いる軍勢によって鎮圧される。しかし、一旦、点火した火種は消えることなく、楚という国の将軍項梁を中心とした軍が勢力を拡大していくのである。だが、項梁は章邯の作戦にひっかかり殺されてしまうのである。そこで、今度は項梁の甥項羽が立ち上がる。項羽は鉅鹿の戦いで秦の主力軍である章邯の軍を破る。
一方、沛の輩あがりで、これといって野望のなかった劉邦率いる軍勢もいた。劉邦は項羽が章邯と戦っている間に関中に入り函谷関を閉ざしてしまう。さらに威陽に乗り込んで結局は秦は崩壊してしまう。しかし、是に激怒したのが項羽である。項羽は劉邦を鴻門に呼びつけて殺そうとする。劉邦は軍師張良の機転で項羽に弁明することが出来たが、左遷され中国の奥地へと追いやられてしまう。これで項羽は増長し勢力を伸ばしていく。そして、子嬰ら秦王国の生き残りの人々を片っ端から殺してしまう。さらには楚の懐王も殺してしまう。この頃、劉邦は僻地で優秀な部下に囲まれ、反撃の機会を待っていた。そんな時、項羽の下では出世できず劉邦のところにやってきた韓信の才能に惚れ込んだ劉邦は彼を大元帥に抜擢する。こうして楚の項羽と漢の劉邦との間に戦いが始まるのである。
司馬遼太郎の中国歴史物である。中国の歴史物語というと数多いが、有名な三国志』以外だと、この『項羽と劉邦』の話はよく知れ渡っている。ただ中国の歴史は古いので、王朝でいうとどのあたりかということなのであるが、中国の王朝は紀元前2070年頃に夏王朝が最初に出てくる。しかし、古過ぎて後から作られたのではと勘繰りたくもなる。夏の時代が紀元前1600年頃まで続いているというから、400年もの間、夏王朝は存在したということなのか・・・・・・。それで夏の次が殷である。殷は紀元前11世紀頃まで存在したという。さらに周の時代があり、この間、春秋時代、戦国時代と群雄割拠に時代があった。そして紀元前221年から207年もの間が秦の時代である。つまり秦の始皇帝による中国統一である。でも長くは続かず各地で反乱が起き、楚漢戦争の時代に突入する。要は楚漢の争いというのが項羽と劉邦による覇権の争いなのである。ところで、この楚漢戦争の結論から先に言うと劉邦が項羽の楚を倒し前漢王朝を開くのだが、司馬遼太郎はただの戦記物、歴史物として描いているのではなく、大勢の登場人物に人格と表情を与え、気宇壮大な歴史ロマンとして実に興味深い小説に仕上がっている。
勇敢で野望に燃える項羽。対して温厚でいて人徳はあるが、けして天下を取るなどといった大きな野望を抱いていたのでもない劉邦。このかけ離れた人物の対比が面白く描かれていて読んでいても飽きることはなく、巧みな手法で人物像が浮かび上がらせている。項羽というのは劉邦と違って名門の出であって礼儀正しくはあるが、怒りっぽくて激しい気性を持つ。怒れると敵地や敵の人民にまで粗暴、悪虐を行なうが、味方には優しく、血縁の長者には礼をもって遇したと書かれているように、戦での怒れる項羽は、まさに狂った虎のようである。だが、勇敢であることを好みすぎているがため、墓穴を掘ってしまったのである。・・・・・項羽にも、愛情や惻隠の情があった。むしろ人よりもその量は多量であった。しかし、それは項羽自身が対象を美・・・あわれ・・・と感じねば、蓋を閉ざしたように流露しなかった。項羽が美と感ずるのは、陽の洩れる板戸の隙間ほどに幅がせまかった。彼自身の自尊心が十分に昂揚できる条件下において相手がひとすじに項羽の慈悲にすがろうとしている場合のみであった。といって、この男は愚者ではなかった。人のおべっかには動かなかったから、この間の項羽の性格の機微はまことに微妙というほかないと司馬遼太郎自身は解説している。
自尊心が強すぎる者は他人が見えないという原則が働き、このことが項羽に政略や戦略という感覚を欠かせてしまった。世界を敵味方の白黒でしか分けることが出来ないのが項羽である。一方、劉邦の世界は灰色である。だが、時には黒にも白にもなる。劉邦は歴史上の覇権者の中でも稀有な存在として知られるが、優秀な側近だった韓信がいうには「劉邦は愛すべき遇者」というべき人物である。けして項羽のように勇敢であり才覚に溢れているのでもないが、かつて劉邦が若い頃、沛の町の飲み屋で、町中の劉邦好きの男や与太者が自然に集まり、劉邦に見られているだけで楽しく、酒の座が充実し、くだらない話にも熱中でき、何かの用があって劉邦が何処かへ行ってしまうと急に店が冷え、人々も面白くなくなり散ってしまうということがあった。そのような場における劉邦の茫漠たる個性に強い複雑な印象を受けぬ者があろうか。こういうった人大きな袋のような男が劉邦なのである。このように、才覚のないような男が並々ならぬ漠然とした人徳を持ち、彼の判らない魅力に人が集まってくる。自身は大きくなくとも才覚の或る男達が彼の下に集い、彼を何時の間にか大きくしている。そういった人物が劉邦だったのである。でも誰が見ても才覚がある男が、一見、凡庸にしか見えない男に敗れたというのは痛快な話では或る。
ところで四面楚歌という熟語は、この楚漢戦争で生まれた。周囲は全て敵といった意味であるが、漢軍に包囲された楚軍を率いる項羽は、夜、四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるので完全な敗北を覚ったという。つまり楚の人間も敵となってしまった以上、もう戦えないと考えたのである。以上。
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