2007.12.25 (Tue)
オスカー・ピーターソン逝く
ジャズ界の巨人オスカー・ピーターソンが亡くなった。23日にカナダのトロント郊外の自宅で腎不全のため亡くなったと言う。82歳だった。
オスカー・ピーターソンは1925年にカナダのモントリオールで生まれ、幼少の時、父ダニエル・ピーターソンから音楽の手ほどきを受け、最初はトランペットとピアノの両方を学んでいたが、7歳の時に結核にかかり、ピアノだけに専念するようになる。彼は上達が早く、14歳で既に地元のコンテストに出場して入賞するまでになっていた。ただし、この頃はクラシック・ピアノであり、クラシック曲でも抜群のテクニックを披露していた。
17歳の頃、ラジオから流れ出るジャズの音に興味を持つようになる。やはり彼には黒人の血が騒いだのたろうか、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスビー、ナット・キング・コール、エロル・ガーナーの音楽を聴いて自分の腕を磨いたという。
20歳前にはトロントのナイトクラブでピアノを弾くまでになっていて、1949年にはジャムセッションでの公演に参加し、名を知られるようになった。そして、その翌年にニューヨークのカーネギー・ホールのステージで演奏し、全米にオスカー・ピーターソンの名を轟かせることになる。
オスカー・ピーターソンはジャムセッションに参加した頃から、ビッグバンドではほとんど演奏せず、卓越したピアノソロが引き立つスモールコンボで演奏することが多かった。全米にその名が知れわたった1950年には、元MJQのベーシスト、レイ・ブラウンとデュエットする。翌年にはドラムのチャーリー・スミスを加えてオスカー・ピーターソン・トリオを結成し、このトリオでの録音が多数残されている。その後、メンバーの入れ替えがあり、ギタリストのバーニー・ケセルと組んだ時や、ドラムのエド・ジクペンと組んだ時などは見事な演奏を残している。オスカー・ピーターソン・トリオとしては1966年まで続き、この時代から70年代へとジャズシーンが劇的に変化する中でも、流麗でスタイリッシュなピアノ演奏を続けていた。
1980年代は主にソロ演奏中心であるが、トリオでの活動、セッションでの参加と活躍していたが、腱鞘炎をも患っている。1993年には脳梗塞で倒れるが、リハビリして片手でも演奏をしていた。1999年には音楽部門で世界文化賞を受賞。2005年にはカナダ国内で存命中の人物として初めて記念切手となり、とうとう12月23日の夜、彼は帰らぬ人となった。クリスマスイブの前日であった。
私がオスカー・ピーターソンに対するイメージというのは、とにかく超絶技巧のピアノ弾きという印象で、作曲もするが、どちらかというと既存の曲を彼独自のスタイルで、スウィング感溢れる演奏を貫き通す。スタンダード曲のアドリブにしても、曲の骨格は崩さずにいて見事にまで再構築している。よく曲の旋律が原形を留めないまで、アドリブ演奏で、装飾したり削ったりするピアニストがいるが、オスカー・ピーターソンはあくまでもオーソドックスなスタイルでいて、ジャズの真髄を失わず聴かせどころを心得ている。
ところで彼が崇めていたピアニストというのは片目のアート・テイタムであると言われるが、最も影響を受けたのが後にシンガーとして活躍するナット・キング・コールというから不思議な気がする。また、彼はピアノの皇帝らしく、典雅な演奏をするが、伴奏者としても定評があり、他の奏者に合わせる事もお手の物なので、共演者が多く、これまでカウント・ベイシー、ディジー・ガレスビー、ナット・キング・コール、テディ・ウィルソン、ミルト・ジャクソン、スタン・ゲッツ、サラ・ヴォーン等と、数々の名演を残している。でもオスカー・ピーターソンは、玄人好みのピアニストではなかった。だけど、彼の演奏は判りやすくジャズの入門者が聴いてもすぐに好きになれる。彼の残された録音を聴くと、驚くべき傑作もないが、かといって凡作も無いピアニストなのである。それは彼が絶えず安定した演奏が出来ることを意味しているのであって、ピアニストとしての技巧を並外れてもっているからであろう。人並みはずれた大きな手で、1オクターブを超える13音まで手が届くという。この大きな手で華麗なタッチとスタイリッシュで流麗なスウィンギーなサウンドを聴かせてくれたオスカー・ピーターソンである。でも彼のベーゼンドルファーは、もう2度と音を奏でなくなったのである。
オスカー・ピーターソン・トリオとナット・キング・コールの共演
オスカー・ピーターソン・トリオの演奏『サテンドール』
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