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2015.05.31 (Sun)

リストのピアノ協奏曲第1番を聴く



 ここのブログでフランツ・リストを採り上げるの初めてかな。あまりリストの曲で好きなのもないし、だからといって嫌いでもない。でもどちらかというと超絶的なピアニストであり社交界でも持て囃されたことばかりが話題になる。とにかくピアニストとしてのリストは大変な腕だったらしい。リストは1886年に亡くなっているので当然、録音は残ってないが、文献などを調べてみると称賛以外は見当たらない。ピアノの魔術師と言われどんな曲でも初見で弾きこなし、リストが亡くなって100年経っても彼を超えるピアニストは現れていないといわれ、指が6本あるのではないかという噂が広まっていたというから、その演奏技術は凄まじいものだったのだろう。その技術に同時代に活躍したピアノの詩人ショパンも認めていて、あのように弾いてみたい言っていた。グリーグも自身のピアノ協奏曲をリストに評価してもらいたく依頼したところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、グリーグのピアノ協奏曲をほめたたえたという逸話も残っている。またリストの娘婿であったワーグナーの歌劇用のスコアを初見で、これまたピアノ用に編曲しながら即興で弾きこなし、メンデルスゾーンが作曲したピアノ協奏曲も本人の前で初見で完璧に弾き驚かせるなど、その卓越したピアニストとしての技術と能力は圧倒的であった。したがってリストの演奏会は評判を呼び、彼の演奏を聴いて衝撃のあまり気絶する観客がいたことは有名である。知れ渡っているところでは天才少女といわれたクララ・シューマンがリストの演奏を聴いて感動から号泣したというから、ピアニストとしての話題は書ききれないほどある。まさに奏者としてのリストはヴァイオリンのパガニーニと並び称される人物であろう。
 さて、ピアニストとしてのリストはあまりにも有名だが、いざ作曲家としてどうかとなると交響詩などの開拓者として知られるが、ピアニストとしてのリストの存在が大きすぎて作曲家としてのリストは影が薄い。でも有名な曲も幾つかはある。ハンガリー狂詩曲ていうのもあるし、ラ・カンパネラという超絶技巧を必要とする練習曲もある。愛の夢なんていう有名なピアノ曲もある。そしてピアノ協奏曲第1番がある。
 この曲は歴代の全ピアノ曲を含めても有名な部類に属する協奏曲で、初演は1855年で着想が1840年と言うから完成までに15年は擁している。でも聴いてみるとリストが作曲したピアの協奏曲とするには相応しい感じはない。技巧を聴衆に披露するといった協奏曲ではなく演奏時間も20分弱と短く、ピアノに関しては特筆すべきところの少ない協奏曲である。目を惹くのはピッコロとトライアングル。特にトライアングルがよく活躍する。過去にトライアングルを使用した協奏曲はあまり類をみない。しかし、これは彼の論敵であったフォルマリスト、ハンスリックの好餌となり、トライアングル協奏曲と異名を捧げられることとなった。しかし、あれほど多くのピアノ曲やオーケストラの作品を残しながら、彼の才能を最も発揮できるであろうピアノ協奏曲において大規模な作品をかけなかったというのは残念であったと思われる。
 当時、リストは演奏旅行に追われじっくりと曲をまとめ上げる時間もなく、また造型的な手法につたなかったともいわれている。リストはイタリア旅行後にこの協奏曲に着手し、ウィットゲンシュタイン公爵夫人カロリーヌと、ワイマール近郊のアルテンブルクの別荘に落ち着いた1846年頃から本格的に取りかかり1849年には完成している。しかし、すぐには発表せず1853年にペンを加え、1855年の初演後にも3度ペンを加えている。つまりあれだけピアニストとし超絶技巧で即興演奏や初見も楽々にこなし、最高の人気を博したリストも、こと作曲に関しては超人的とはいかなかったということだった。
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2014.09.21 (Sun)

ブラームスのクラリネット五重奏曲を聴く



 クラリネット五重奏曲と言うとモーツァルトの五重奏曲が最も有名だが、ブラームスにも立派なクラリネット五重奏曲がある。昔はよく聴いたのだが、最近はほとんど聴かなくて小生の中では忘れられた曲になっていた。それがである先日、大フィルのメンバー5人がこのブラームスのクラリネット五重奏曲 ロ短調 作品115を演奏しているところに出くわした(地下駅のそばにあるアートミュージアムのようなところで無料で演奏していた)。それで聴いている間に昔日のことを思い出したまでである。渋いが良い曲なのである。またブラームスはクラリネット三重奏曲と言うのも作曲していて、ブラームスの室内楽は地味ながらなかなか優れた作品が多い。もっとも同時代のチャイコフスキーやドヴォルザークのようなメロディが溢れんばかりに流れる煌びやかな曲がなく、旋律が沈んでいる雰囲気がありどうしても重苦しい。それ故にあまり人気がないかもしれない。しかし、それでいて小生は一時期、ブラームスを頻繁に聴いていた時期があった。30代の頃だったかな。最も人生で悩んでいた時期かもしれない。どうもメランコリックになるとブラームスが聴きたくなったのかな。今となったら当時のことを思い出そうとしても思い出せない。今はもうそろそろ老後を如何に有意義に過ごすか、それを考える年齢になってきたから30代の頃のことを振り返ることもなくなった。でも、あの当時、ブラームスに陶酔していたかな。今でもブラームスの交響曲1番、3番、4番はよく聴くし、弦楽六重奏曲の1番も相変わらずよく聴く。そういった中でクラリネット五重奏曲も何度か聴いた曲でもある。でもそれ以来、聴いたこともなかった。
 それで20年以上の時を経て真剣に聴いてみたが、ちょっと長いかな。4楽章の曲なのだが40分ぐらいある。もっともダイナミックな交響曲だと40分なんてあっという間だが、室内楽はやはり全楽章を通じても退屈する部分がある。それは致し方がないものの、此の年齢になると聴くのも忍耐力がなくなってきている。途中で聴くのを止めようかと思ったりもする。小生はこう言った時は、その曲の楽譜を買ってきて、スコアを見ながら聴くようにしてきたのだが、残念がらこの曲のスコアを持ってない。スコアを見ながら聴くと我を忘れて没頭できるのである。昔はそういった聴き方をよくやっていたものだ。こうして曲を覚えていったものである。またやろうかな。
 ところでこのブラームスのクラリネット五重奏曲はブラームスが58歳の時の1891年に完成した。ブラームス晩年の曲である。ブラームスは作曲活動から引退を考えていて、作曲に対する体力衰えを感じていたのだが、1891年春にマイニンゲンを訪れて事情が一変する。同地の宮廷には優れたオーケストラがあり、そのオーケストラに居たクラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトを独奏者に起用したコンサートに足を運び、ブラームスは感銘を受けたのである。こうして引退を考えていたブラームスに、またふつふつと作曲への意欲が湧いてきたようで、此の年の夏ブラームスは、保養地イシュルに滞在し、一気にクラリネット三重奏曲とクラリネット五重奏曲を完成させたのである。 けして多作ではないブラームスが2曲もの大曲を1ヶ月もかからずに書きあげたのは異例のことだった。よほど創作意欲が湧いていたのだろう。こうして同年には初演され好評を博すのである。
 全4楽章からなり第1楽章のアレグロはソナタ形式で、弦楽器が奏でる主題に対してクラリネットがアルペジヨの上昇楽句を吹きながら加わるところは、どこかモーツァルトのクラリネット五重奏曲を連想させないでもない。第2楽章はアダージョで、クラリネットが陶酔感を奏でる。第3楽章はアンダンティーノ、第4楽章はコン・モートといずれも短いが、終楽章のコーダでは第1楽章の第1主題が再び現れやがて曲は終結する。
 全体的な感想としては晩秋の澄み切った空気の中で黄昏ながら聴くのにちょうどいい曲である。


スコアを見ながらクラリネット五重奏曲をどうぞ

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2014.06.15 (Sun)

シベリウス 交響詩『フィンランディア』を聴く



 第2世界大戦後、連合国側は戦争責任者の摘発を始め、やがて勝者側が敗者を捌く極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれた。小生は当然、この時代を知る筈もないが当時の映像がニュース映画として残っていて、その映像が映し出されると同時にナレーションとともにある音楽が流されていて、やけにその音楽の印象が強かったのを覚えている。そして、その曲こそがシベリウスの『フィンランディア』であった。
 何故、この歴史的事件の映像にフィンランディアが流されたかというのには訳があるだろう。この『フィンランディア』はタイトルから察しされると思うが、シベリウスが祖国フィンランドの大自然や住民の心を歌い上げた勇壮な交響詩である。そもそもフィンランドという国は長い間スウェーデンに、ついでロシアに征服され支配下に置かれていたのである。殊に19世紀末には帝政ロシアの圧政下で喘いでいて1899年ロシア皇帝ニコライ二世の公布した二月宣言によって立法権を奪われたのである。フィンランドの民は、この暴政に対する抗議のしるしとして1899年11月ヘルシンキにおいて一連の愛国劇を上演する。その時、ヤン・シベリウスは『フィンランドは目醒める』というタイトルの管弦楽組曲を提供。その組曲のフィナーレが10分に満たない交響詩『フィンランディアである』。そして、4曲の組曲の最後の『フィンランディア』が現在は独立して頻繁に演奏されるようになったということである。
 この曲が誕生した頃、フィンランドは国そのものが存亡の危機にあったのである。当時34歳だったシベリウスは、ロシアの支配下にあったフィンランド国民に愛国心を蘇らせ、独立への希望をかき立てようと意図してこの曲を作ったことは疑う余地もないだろう。事実として1900年7月のパリ万国博覧会で初演されて以来、フィンランド国民から熱狂的に支持されたのである。ところが、あまりにもこの影響が大きいことを心配した時の政府は、ロシア治下ということもあり、この曲の演奏を喜ばず一時は『フィンランディア』というタイトルを変えなければならなかった。さらには演奏禁止の処分を受けてしまうほどだった。少なくとも一つの音楽、特定な理由に基づいて権力機構から政治的干渉を受けた例は、当時としては非常に珍しかったのである。
 1917年、ロシアには革命が起こりレーニン一派によりソヴィエト連邦が形成される。そして皮肉にもフィンランドは念願の独立を獲得、1919年共和国宣言が行われ、独立式典の開幕には『フィンランディア』が演奏され、以来、この曲はフィンランド内の式典開幕の象徴として毎度、演奏されるのである。
 この曲の中間部に出てくる民謡風の旋律は、よくフィンランド民謡と解説されるが、シベリウス自身のオリジナルであると本人が述べているので、おそらくそうだろう。管楽器が自由と独立を求めて祈願する讃美歌を歌い、弦楽は希望への祈りを歌う。管と弦が交錯し民族の勝利を高らかに誇らしげに絶叫するかのようだ。
 ところでシベリウスは1929年、60歳を過ぎたところで作曲活動を止めて、91歳で亡くなる1957年までの一生の3分の1を、別荘にアンテナを立て、世界中の短波による自作品の演奏を聴いて過ごしたという。これを人呼んで謎の空白と言う


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2014.01.02 (Thu)

ベートーヴェンの交響曲第3番『エロイカ』を聴く

上がフルトヴェングラー指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のCD
下がブルーノ・ワルター指揮 コロンビア交響楽団のCD


 何時の頃から本格的にクラシック音楽を聴くようになったのかな。幼少の頃、姉が持っていたオルゴールのメロディはチャイコフスキーの『白鳥の湖』だったし、テレビで放映されていた『ローン・レンジャー』はロッシーニの『ウィリアム・テル序曲』を使っていたし、日本で最初のテレビ・アニメ『鉄腕アトム』第1回の放映の時は、ショスタコーヴィッチの交響曲第5番第1楽章、ベートーヴェン交響曲第5番の冒頭、ワーグナーの『ローエングリン』第1幕の前奏曲を立て続けに流していたし、吉永小百合主演の日活映画『キューポラのある町』ではブラームスの交響曲第4番の第1楽章を使っていた。これらは全て小学生の頃の思い出であるが、それで小学生の頃、学校から大阪にあるフェステイバル・ホールというところへ初めて行った。そして大きいホールなので唖然とした。その時は大阪フィルが小学生向けの短い曲ばかりを演奏していたが、今となっては何を演奏したのか、指揮者が誰だったのかも覚えてない。ただビゼーの『カルメン前奏曲』『アルルの女のファランドール』、メンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』から『結婚行進曲』、鉄腕アトムのテーマ曲等を演奏したのだけは覚えている。でも、当時聴いていたのはほとんど断片で、交響曲や協奏曲とかいった楽章が幾つかある曲は聴いた事がなかったように思う。それで中学に入ってからLP盤を1枚買ったのであるが、それがブルーノ・ワルター指揮、コロンビア交響楽団演奏のベートーヴェン交響曲第3番『英雄』変ホ長調 作品55というやつである。何故、この曲のLP盤を買ったのか記憶はない。確か、母が何かレコード盤を買ってあげるからということで、これを選んだという事だけは覚えている。ただし中学生当時、小生は洋楽のポップスに夢中で、それこそビートルズやローリング・ストーンス、アニマルズ、モンキーズ、その他大勢に夢中になっていて、クラシックを熱心に聴いていたのでもない。だが、小学生の時、ステレオ・プレーヤーと言う珍しい代物が家に入ってきたとき、その試聴盤をよく聴いていた。その試聴盤は小田急の特急が通過する音や、卓球の球が左右に跳ねていく音、ジェットコースターの音とかに混じってクラシックの曲も幾つか入っていた。それでベートーヴェンの5番(昔は運命なんていわれたが)の第1楽章(フリッツ・ライナー指揮、シカゴ交響楽団)は繰り返し聴いていたのである。そういった体験が過去にあったので、いつかクラシックの大曲を全て聴いてみたいという思いが心のどこかにあったのだろう。それで小学生の時にベートーヴェンの伝記を読んだことがあり、ナポレオンの偉業に触発されてこの交響曲3番を作曲したことを覚えていたので、当時、全曲聴いてみたいと思っていたのかもしれない。

 ベートーヴェンの交響曲3番は通称『エロイカ』というが、ベートーヴェン自身が名付けたタイトルである。この曲の着想は1802年というからベートーヴェンがハイリゲンシュタットで自殺しようと思い遺書まで残した頃だとされる(何故、自殺まで考えたのかは謎。耳が聞こえなくなってきたというのも一因とされるが)。自殺まで考えたベートーヴェンであるが、一方でナポレオンが破竹の勢いで現れた。このナポレオンの偉業を英雄として曲にしようといった着想が出てきたのである。ベートーヴェンはやがて立ち直り『エロイカ』を作曲する。ベートーヴェンの無給秘書をもって自ら任じていたシントラーの書いた『ベートーヴェン伝』によると1804年の春に完成したこの交響曲の写しをベートーヴェンはフランス大使館を通じてパリに送ろうとしたそうである。それはナポレオンに献呈するつもりだったからだが、5月18日にナポレオンが皇帝に即位したという知らせがベートーヴェンの耳に入り表紙を破り捨て楽譜を床に叩きつけたという。「あの男も要するに俗人であった。あれも自分の野心を満足させるために、民衆の権利を踏みにじって、誰よりも暴君になるだろう」と叫んだらしい。
 フランス革命は1789年に勃発、コルシカ島出身の砲兵士巻官、議会軍を指揮してこの大革命に登場、片っ端から敵を倒し国内最高司令官、イタリア遠征軍司令官、連戦連勝と言う超人ナポレオンに、ベートーヴェンは自由精神の旗手、人間解放の姿を見たのかもしれない。革命的英雄に対する讃歌としてこの交響曲は書かれたのであるが、皇帝に即位したということで裏切られたように思ったのかもしれない。結局、この大曲は『シンフォニア・エロイカ』とイタリア語で譜面に書かれ〈ある偉人の想い出をまつるために作曲された〉という言葉が添えられていた。
完成した当初は不評であった。長過ぎる。統一感がない。明るさと透明さがない。それまでのハイドン、モーツァルトが書いた交響曲に比べると倍ぐらい長い曲で、第2楽章が葬送行進曲で第3楽章がスケルツォというこれまでにない形式の新しい形の交響曲となった。それ故に革新的だったのだろう。当初は不評だったが、今思えばそれらの不評はこの曲の長所の裏返しであり、『エロイカ』が時代の先を行った素晴らしい曲であるということを指摘しているようなものだ。小生などはこの曲を回を重ねて聴くようになればなるほど、ベートーヴェンの『エロイカ』に愛着がわいていったほどだ。そして現在、小生の手元には『エロイカ』のCDだけで30枚以上ある。指揮者でいえばフルトヴェングラーからトスカニーニ、ワルター、E・クライバー、クレンペラー、モントゥー、カラヤン、ベーム、オーマンディ、クナッパーツブッシュ、バーンスタイン、ショルティ、アバド、H・S・イッセルシュテット、ホグウッド、マリナー等、フルトヴェングラーだけで何枚あるかな・・・・。とにかくこの曲を聴くと気分が鼓舞されるというか、べートーヴェンの交響曲の中では個人的に1番好きな曲である。それ故に聴きまくったという思いはある。とにかく、この曲を最初から最後まで聴いてから、クラシック音楽を本格的に聴くようになったのでもある。それだけに忘れられない曲でもある。


レナード・バーンスタイン指揮 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
べートーヴェン 交響曲第3番『英雄』第1楽章


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2013.04.30 (Tue)

ラ・フォル・ジュルネびわ湖2013に行って来た

 雨天だった今日とは違って好天の昨日、大津のびわ湖ホール付近で行われているラ・フォル・ジュルネびわ湖2013に行ってきた。と書いたところでラ・フォル・ジュルネって何のことだと思われるだろう。そもそもラ・フォル・ジュルネとはフランス語でLa Folle Journeeで、フランスのナントで1995年の初めて行われたクラシック音楽の祭典のことである。

 毎年1月下旬からの5日間、ナントの8会場でで午前9時から夜の11時までの間、一斉に短時間のコンサートがお行われる。年ごとにテーマやジャンルが指定され、世界中のアーティストを迎え、低料金で演奏を提供することによってクラシック音楽の新しい聴衆を開拓するというコンセプトで開催されているので、クラシック音楽初心者でも楽しめるようになっている。でも始まった1995年は赤字で、その後にその意図を判る人が増え、資金提供者も急増。2003年には黒字に転換。今ではナントの12の会場で同時併行的に約45分のコンサートが5日間で300公演行われるほどになったのである。こうしてナントでの成功に影響され、ポルトガルのリスボン、スペインのビルバオでも同様の催しが行われるようになると、2005年からはとうとう東京でもラ・フォル・ジュルネが始まったのである。その後、この音楽祭典は金沢でも始まり、2010年からは新潟と大津のびわ湖でも開催されるようになったという訳である。現在ではさらに増え、九州の鳥栖、リオデジャネイロ、ワルシャワでも行われている。ちなみにラ・フォル・ジュルネの名前の由来であるが、これはアーティスティック・ディレクターであるルネ・マルタンの考えに基づいたものでモーツァルトの歌劇『フィガロの結婚』の基になるポーマルシェの戯曲『狂おしき1日、あるいはフィガロの結婚』の原題(La Folle journee,ou le Mariage de Figalo )から来ている。この戯曲が当時の世間のとって革命的な作品であったことから、従来のクラシック・コンサートに対する人々の価値観を転換することを目標とするこの音楽祭の名に採用されたということらしい。それで今回4回目になるラ・フォル・ジュルネびわ湖2013であるが、初めて小生はこの祭典に訪れてみた。過去、3回あったのだが何れも高槻ジャズ・ストリートと日程が合致し来ることが出来なかった。ところが今年は日にちがずれたので好都合になり初めて来てみたということだ。今年のびわ湖のラ・フォル・ジュルネは4月27~29日の3日間の開催だったので日程的にはちょうどよかったのである。

 さて、それで3日目のプログラムを見てみるろロビーや野外の湖畔で行われる無料コンサートとは別にホールで行われる有料コンサートの方は中ホール、小ホールはほとんどチケットが売り切れという。残念、他に隣接するピアザホールでも行われるが、こちらは出演者がロビーでの無料コンサートと重複するので行かなくてもいいだろうと考え、チケットがまだ完売してない大ホールのコンサートの方を注目した。すると29日は3回公演が行われ何れも当日券が売られているという。それはいいことを聞いた。それならと思い、昨日は朝早く起きて午前10時前にはびわ湖ホールに到着した。それでようやく買ったのが、この日に大ホールで行われる2回目の公演。現田茂夫指揮、大阪フィルハーモニー交響楽団演奏のベルリオーズ『幻想交響曲』のチケット。しめしめ、1500円で大フィルの幻想が聴けるとは・・・・・。こんな企画の音楽祭典がないとこの価格ではとても聴けないからね。でも空席がまだあるという。殊に大ホールでのフルオーケストラの演奏は3回ともチケットが売れ残ると言うから滋賀県はクラシック音楽の愛好家が少ないのかな。特にこの日に行われる大ホールの3回の演奏の中でも2回目だけが交響曲の演奏である。おそらく滋賀県の人達、あんまりベルリオーズの幻想交響曲に馴染みがないようで、1回目と3回目に行われるフランスのラムルー管弦楽団の曲目の方が、チケットの売れ行きがいいようであった。こちらは2回とも大曲ではなく、序曲やオペラの挿入曲が中心だから聴きやすいかもしれない。ところで今回の催しのテーマはフランス、スペインの音楽だから演奏される曲も全てフランス、スペインの作曲者の作品ばかり。それで小生もベルリオーズを聴くことになるのだが・・・・。

 困ったことにチケットを買うために早く来たのだが、開演時間が午後の2時45分。余りにも時間があり過ぎる。それでロビーや屋外の湖畔での無料演奏を聴こうと思うが1時間半か2時間ほどの間隔で行われるから、その間、時間をもてあまし過ぎる。仕方なく琵琶湖畔で湖をぼんやり眺めていた。ポカポカ陽気で気持ちがいい。釣り人多し、犬の散歩中の人も多し、でも退屈だ。それで昼前からロビーのレストランで簡単な料理と共にワインをがぶ飲みした。日頃、ワインなんか飲まないが、この日はフランス音楽中心と言うことでフランスのエスプリに触れるのもいいだろう。白ワインを一本飲みきった。昼間から何をしているのやら・・・・。でもまだ時間がある。表に出て今度は屋台が出ていたのでワカサギの天麩羅をつまみにビールを飲んでいた。それでようやく開演。

 実のところびわ湖ホールの大ホールに入るのは初めてである。中ホールは一度だけあるが、初めてのホールにはワクワクする。小生、過去色々なホールに行った。大阪ならフェスティバルホール、ザ・シンフォニーホール、厚生年金会館大ホール、いずみホール、京都なら京都会館、京都コンサートホール、神戸なら神戸文化ホール、神戸国際会館ホール、名古屋なら愛知県芸術会館コンサートホール、東京なら東京文化会館、NHKホール、サントリーホール等・・・。何れも20年以上前のことになる。それで最近は加齢と共にご無沙汰である。それこそ交響楽団の演奏会なんて10年程前の京都市交響楽団のコンサートから皆目、行ってない。

 大阪フィルに関しては何度か聴いている。かつて朝比奈隆で薫陶を受けた歴史のあるオーケストラである。小学生の頃にフェスティバルホールで初めて聴いたかな。その後は20歳の頃におっさんの指揮でブルックナーの7番を聴きに行ったことがあるが、不覚にも船を漕いでしまった。当時はブルックナーなんてほとんど聴いたことがなくて、聴いていても実に退屈な音楽だと記憶している。それが朝比奈隆と大阪フィルは、その後にブルックナーの演奏で評価を得るようになったから判らないものだ。ところで今回、その大阪フィルがフランスもののベルリオーズの幻想交響曲を演奏すると言うから非常に興味が湧いたのである。本来、大阪フィルは朝比奈時代から無骨なオーケストラとして通っていた。N響のように万能な機能的オケではなく、独墺系音楽には強いがフランスをはじめとするラテン系音楽に弱いとされていた。それが朝比奈亡き後に大植英次が音楽監督に就任してオーケストラの指向がいくらか変わってきたみたいで、今回は神奈川フィルの音楽監督である現田茂夫がタクトを振ってどのような幻想が聴けるのか注目していたのである。

 さてさて開演時間が近づいてきたので大ホールに入った。席は3階席。エスカレーターで上がっていくと琵琶湖が一望できる一面ガラス張りのロビーに到着。そこから客席へ・・・・。入った感想は意外と小さい。天井は4階席まである割にはあまり高くない。コンサートよりもオペラ公演が多いホールだからステージまでの距離はあまりなく客席はバルコニーまで続いている。キャパシティは1800人余りだからコンサートホールとしてさほど大きくない。ザ・シンフォニーホール、京都コンサートホールと同じ程度か。ただしあちらはアリーナ形式でステージの後ろにも客席があるので、もっと近く見える。ここはその点に関しては3階からだとステージまでは遠く感じる。もっともフェスティバルホールのように大きくはない。ただしフェスティバルホールは3000人弱も入るが音響は抜群で、天井に近い席でも明瞭な音が聴こえてくる。その辺は大きいだけのNHKホールとは違う。それでこのびわ湖大ホールはどうなのかというところである。

 定刻より5分ほど遅れて始まった。現田茂夫はグレーの燕尾服を着て現れた。4階はいくらか空席が目立つがほぼ埋まっている。演奏が開始。現田茂夫は初めてお目にかかる指揮者だ。けっこう動く指揮者だ。両手もよく動く。指揮台も広く使っている。身体ごと動く指揮者だなと思った。フランス音楽には向いているかも。問題はフランス音楽に向いてそうもない大フィルの方だが意外と重々しくなく軽いノリの演奏で、1、2楽章は終わった。テンポも普通。3楽章田舎への風景と題される楽章。終盤のティンパニを乱打するところを注目していた。女性奏者1人を含めて4人でティンパニを叩いていた。雷鳴の咆哮だ。しかし、あまり響かないね。このホールは・・・・。音響が良いって噂だったが、少なくともサントリーホールのように響きすぎなくても、ザ・シンフォニーホールぐらい響いてくれたら心地よいのだが。それにしても現田茂夫はよく動く指揮者だ。かつてフリッツ・ライナーなんてハンガリー出身の指揮者がいた。弾丸ライナーなんていわれライナーの指揮するベートーヴェンの5番の演奏は滅法速かったが、ライナーは身体は立ったままでタクトだけを小さく振るので滑稽だった。ライナーとはまるで正反対だ。これだと終楽章のコーダできっと飛び上がるぞ。

 いよいよ終楽章の5楽章に入った。この楽章はかつてスタンリー・キューブリックの映画『シャイニング』の冒頭に使われたので知っている人も多いだろう。4楽章の断頭台の行進と共に有名だ。ワルプルギスの夜の夢と題された楽章。この楽章が始まるとき、打楽器奏者が1人左の舞台袖に引っ込んだ。おそらく終楽章の途中から鳴らされる鐘を叩きに行くのだろうと思って、何処で鳴らすのかなと探っていた。過去の演奏会では客席から鳴らされたこともあるから様子をうかがったのだが、どうやら袖で鳴らすようだ。

 チューバの怪しい音色と共にカーン、カーンと鐘が叩かれる。この楽章のクライマックスの始まりだ。そして盛り上がってきていよいよ圧巻のコーダに入る。現田指揮者の動作が大きくなってきた。背中は汗が滲み出てる。随分と激しく動いているからな。さあ終盤に近付いてきたぞ。飛び上がるか飛び上がるか・・・・やはり小さくだが飛び上がった。予想通りだ。この曲の終盤は飛び上がる指揮者が時々見受けられるので、一つの見せ場でもある。こうして盛り上がって演奏が終わった。ブラボーと叫ぶ人が多い。長い拍手。時間にして50分を少し超える演奏なので平均的と言えるが大フィルにしてはテンポは速目かな。こうしてアンコールもなく演奏が終わった。感想は可もなく不可もなくというところ。大フィルのフランスものも意外と聴けることが分かったのは収穫。それにしてもこれで1500円とは確かに安い。また来年も時間が許されるなら来よう。なにしろ交通費はICOCA定期を持っているからタダである。


今回のチケット S席は2000円だったが
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びわ湖ホールの全景。手前が大ホール、奥が中ホールで小ホールは地下にある。
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ホールのすぐ前は湖岸である
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比叡山が見える
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こちらは近江富士
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ちょうど遊覧船ミシガンが通りかかった
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ホールの前の湖畔では地元大津の中学生のマーチングバンドの演奏が行われていた
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ロビーではハープ・デュオのファルファーレ(松村多嘉代、松村衣里)の演奏が行われていた
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2013.01.27 (Sun)

マリア・カラスを聴く

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 マリア・カラスと言うと小学生の頃から名前が面白いので、その名前は記憶していた。でも、あの頃、歌手は歌手でもどういった歌を歌っている人なのかは判らなかった。というのも声楽のオペラ歌手といっても小学生では知識もないし、実際にマリア・カラスが歌っている映像も見たことがなかったので、マリア・カラスが20世紀最高のソプラノ歌手だなんていうことを知るのは、それから何年も経過してからのことである。高校の頃だったか何気にNHKのテレビを放送を観ていて、そこでマリア・カラスが歌っているところを初めてお目にかかった。なんだかやけに濃い顔をしていて眼と眉に特徴のある細い女性だなというのが最初の印象だった(世間では美貌のプリマドンナと言われていた)。でも歌っている姿は堂々としたものでけして美声とはいえないものの人を引き付ける個性的な声をしていた。これがマリア・カラスかと思ったものだが、マリア・カラスの全盛期は長くなかったらしい。デビューからしてセンセーショナルだったものの、私がマリア・カラスの存在を知った頃は既に全盛期を過ぎていたという。戦前からオペラの舞台に上がったが全盛期は戦後のほぼ10年間と言われる。でも何故に全盛期がそれほど短かったのか・・・・・・。世紀のディーバと言われ空前にして絶後であろうとも評されたマリア・カラスなのに・・・・。

 マリア・カラスは1923年12月2日にニューヨークで生まれたギリシャ系アメリカ人である。このあたりオペラの本場であるヨーロッパ生まれでないというのが面白いが・・・。マリア・カラスは父が薬局を経営している家庭で次女として生まれた。母は2人の娘に音楽教育を積ませようとする。姉はピアニストに、マリア・カラスは歌手に・・・。ところが母は歌手は脂肪をつけて肥らないと美声にならないと言った俗説を信じたのかマリア・カラスに栄養をつけさせようとケーキや砂糖菓子等の甘い物をどんどんと食べさせることとなる。したがってマリア・カラスはぶくぶくと肥ってしまうのである。やがて音楽の道に子供を進めることを気に入らなかった父と母は離婚することとなり、母親は2人の娘の才能を伸ばすために故郷のギリシャに帰ることとなった。マリア・カラス13歳の時である。

 ギリシャに渡ったマリア・カラスはアテネ音楽院に入りスペイン出身のコロラトゥーラ・ソプラノ歌手であるエルビラ・デ・イダルゴのもとでレッスンを受けることとなる。後年カラスはこのイダルゴこそ一生の師であると語っていることから相当な影響を受けたのだと想像できる。イダルゴのもとでベルカント唱法やオペラの基本を学び、二年後の1938年に早くもアテナイ王立歌劇場でマスカーニの『カヴァレリア・ルスティカーナ』のサントゥツァを歌ってデビューする。さらにカラスは恩師のイダルゴから世界に認められる歌手になるにはオペラ発祥の地イタリアに行かなけらばならないと言われ続けていた。

 こうして戦後の1947年、カラス23歳の時にヴェローナ歌劇場でポンキェルリの『ラ・ジョコンダ』の主役を務め人気を博すこととなる。さらには1950年ミラノ・スカラ座でヴェルディの『アイーダ』、1956年ニューヨークのメトリポリタン歌劇場でベリーニの『ノルマ』を歌い大成功。ちょうどこのあたりがマリア・カラスの絶頂期だったのだろうか。

 それと並行して私生活の方では1949年、カラスの倍の年齢の実業家メネギーニと結婚している。カラス26歳の時である。私生活が充実しカラスは華々しく活動する。しかし、カラスは舞台に全身全霊をあげて取り組むだけでなく演目もドラマティコ、ベルカントの難しい役を歌い続けて声を酷使したため急激に声が出にくくなっていった。1950年代の終り頃には声の衰えが始まっていて、1958年ローマ歌劇場でのお得意の『ノルマ』の公演が中止になってしまうのであった。この公演ではイタリア大統領や政治家、著名人が多数出席する華やな中で始まったのであるが、第一幕を歌うと声の具合が悪いからキャンセルしたいとカラスは申し出るものの、代役を用意していなかったので劇場側が説得。でもカラスは応じずこの夜の公演は中止となる。こうしてキャンセルをすることも増え、彼女はスキャンダルまみれとなる。それ以前のことであるが、当初、肥っていたマリア・カラスはサナダ虫ダイエットで大幅な減量に成功して美しくなるなど、美貌のディーバといわれ実力、美貌を兼ね備え人気絶頂となったことはいうまでもない。ところが声の衰えはどうしようもなくソプラノの聴かせどころである高音域が不安定となりオペラの舞台から徐々に消えつつあり、リサイタルで歌うことが中心となる。カラス最晩年の1973年、1974年には来日し札幌、東京、大阪、福岡等で公演を行っているが、このころは海運王オナシスと愛人関係にあったようだ。結局、マリア・カラスは1977年9月16日、パリの自宅において亡くなった。死因は心臓発作と言われているが確証はなく謎の部分も多いとされる。まだ53歳だった。一度、ペール・ラシューズ墓地に埋葬されたが、生前の希望によりギリシャ沖のエーゲ海に遺灰がまかれたのである。

 これが世紀のディーバ、プリマドンナといわれたマリア・カラスの生涯であるが、その私生活や生き様が舞台上でのカラスに乗り移ったのか、まさに魂の歌唱力と演技力で他を圧倒したのである。かつてスカラ座のプリマドンナとして脚光を浴び、トスカニーニに天使の声とまで絶賛されていたレナータ・テバルディの代役として登場して以来、世は完全にマリア・カラスの時代となったのに・・・・・。あまりにもその活躍期は短かった。私がマリア・カラスを知った頃はすでに伝説のディーバとして轟いていた。ただパゾリーニの映画『王女メディア』に主演していたマリア・カラスを観た時は、歌を歌うマリア・カラスではなく演技をするマリア・カラスで、その時は寂しいなあと感じつつも、これが伝説のマリア・カラスか・・・・と感動したものである。すでにマリア・カラスがこの世を去って35年以上になる。でも未だに世紀のディーバとして名前が轟いているのもマリア・カラスだけといっても過言ではないだろう。ただその全盛期の映像があまり残っていないというのは残念である。世はステレオ時代になってはいたものの、マリア・カラスの残っている録音の多くはモノラル録音でしか聴くことが出来ない。せめてマリア・カラスの全盛期があと10年以上続いていたらと言うのは叶わぬ願いにしかすぎないのだろうか。


 ベリーニ『ノルマ』でのマリア・カラス コンサート形式で歌う



 プッチーニ『ジャンニ・スキッキ』~ 私のお父さんを歌う最晩年のマリア・カラス

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