2008.01.04 (Fri)
祇園さんへ行く
初詣というのでもないが、今日は祇園さんへ行ってきた。祇園さんて何だと問われそうなので、正式な名称を言うと八坂神社である。でも京都の人は、昔から八坂神社なんて呼び方はせずに、八坂さん、祇園さんと敬称をこめて言う。
本来、八坂神社の起こりは856年だと言われるが、876年に円如が午頭天王の分霊を遷し、藤原基経が精舎を建立して祇園寺(観慶寺)と称したのに始まる。創建については諸説あり、古くからある神社ではあるが、寺とみなされていたり、神社と見られていたりしたが、明治元年に八坂神社と改められたのである。しかし、それまでは祇園社と呼ばれていたから、祇園とは京都の繁華街のように思う人がいるが、実際は八坂神社のことを指すのである。
現在の八坂神社は日本全国に2300社あるスサノオを祭神とする神社の総本社で、私は若い頃、大晦日の夜に行われる「おけら参り」に「おけら火」をもらいに来たことがある。今は自宅が京都の市街地から離れてしまった関係で、「おけら参り」こそ止めてしまったが、今でも京都の中心部にある神社なので、時々、訪れることがある。
ところで、先ほど祇園とは八坂神社のことを指すと書いたが、今では祇園というと京都を代表する歓楽街、または花街のことを指すと考えている人が全国的に多いと思える。しかし、江戸時代までは八坂神社は祇園社と呼ばれ、祇園社の門前町として四条通沿いに発展した歓楽街を祇園と呼ぶようになっただけの話である。
今日、八坂神社の石段下で「ここから一個目の信号のところが祇園だよ」と知ったかぶりしていたお兄ちゃんがいたが、明らかに間違っている・・・・。現在、祇園というのは鴨川に架かる四条大橋から八坂神社石段下までの四条通沿いを中心に、南北にして7、800m位一帯は全て祇園と呼ぶ。そして、この中には祇園東、祇園甲部、宮川町(祇園には入らないという人もいる)等の花街が含まれる。つまり、祇園とは範囲が実に広いのである。そして、敷居が高いことでも有名であり、中には一元お断りの店も存在するのでご用心・・・・・。
京都で遊ぼう思てもなかなか難しおすなあ・・・・・ほんま・・・。
花見小路である。逆光で見にくいが景観保存地区に指定されていて、古い京町屋が並んでいる。

八坂神社の石段上から四条通を望む。まさに快晴・・・・。この四条通はちょうど北緯35度である。

八坂神社の楼門。一応は重要文化財に指定されている。最近までは工事中で、この門の姿を眺めることは出来なかった。

八坂神社の本殿。この建物も重要文化財である。私も賽銭箱に100円を放り込んで、頭を下げて来た。何を願ったかというと、無病息災・・・それ以外にあるでしょうか・・・。

本殿裏の境内は灯篭のある参道になっていて、四条通から円山公園へ抜けられるようになっている。

本来、八坂神社の起こりは856年だと言われるが、876年に円如が午頭天王の分霊を遷し、藤原基経が精舎を建立して祇園寺(観慶寺)と称したのに始まる。創建については諸説あり、古くからある神社ではあるが、寺とみなされていたり、神社と見られていたりしたが、明治元年に八坂神社と改められたのである。しかし、それまでは祇園社と呼ばれていたから、祇園とは京都の繁華街のように思う人がいるが、実際は八坂神社のことを指すのである。
現在の八坂神社は日本全国に2300社あるスサノオを祭神とする神社の総本社で、私は若い頃、大晦日の夜に行われる「おけら参り」に「おけら火」をもらいに来たことがある。今は自宅が京都の市街地から離れてしまった関係で、「おけら参り」こそ止めてしまったが、今でも京都の中心部にある神社なので、時々、訪れることがある。
ところで、先ほど祇園とは八坂神社のことを指すと書いたが、今では祇園というと京都を代表する歓楽街、または花街のことを指すと考えている人が全国的に多いと思える。しかし、江戸時代までは八坂神社は祇園社と呼ばれ、祇園社の門前町として四条通沿いに発展した歓楽街を祇園と呼ぶようになっただけの話である。
今日、八坂神社の石段下で「ここから一個目の信号のところが祇園だよ」と知ったかぶりしていたお兄ちゃんがいたが、明らかに間違っている・・・・。現在、祇園というのは鴨川に架かる四条大橋から八坂神社石段下までの四条通沿いを中心に、南北にして7、800m位一帯は全て祇園と呼ぶ。そして、この中には祇園東、祇園甲部、宮川町(祇園には入らないという人もいる)等の花街が含まれる。つまり、祇園とは範囲が実に広いのである。そして、敷居が高いことでも有名であり、中には一元お断りの店も存在するのでご用心・・・・・。
京都で遊ぼう思てもなかなか難しおすなあ・・・・・ほんま・・・。
花見小路である。逆光で見にくいが景観保存地区に指定されていて、古い京町屋が並んでいる。

八坂神社の石段上から四条通を望む。まさに快晴・・・・。この四条通はちょうど北緯35度である。

八坂神社の楼門。一応は重要文化財に指定されている。最近までは工事中で、この門の姿を眺めることは出来なかった。

八坂神社の本殿。この建物も重要文化財である。私も賽銭箱に100円を放り込んで、頭を下げて来た。何を願ったかというと、無病息災・・・それ以外にあるでしょうか・・・。

本殿裏の境内は灯篭のある参道になっていて、四条通から円山公園へ抜けられるようになっている。

2007.12.26 (Wed)
山崎蒸留所のロゴマークが・・・・・・
日本のウイスキーの故郷は何処かご存知だろうか・・・・・。答えはサントリー山崎蒸留所である。
1923年にサントリーの創業者である鳥井信次郎が、京都と大阪の府境にある山崎にウイスキーの蒸留所を建てたのが始まりである。その山崎蒸留所は、JR東海道線の山崎駅から西へ500mほど歩いたところにある。したがって所在地は大阪府三島郡島本町山崎なのである(山崎駅のホームは5分の4が京都府で残りが大阪府である)。
ところで何故、この地でウイスキーの蒸留が始まったのかというと、ウイスキーの製造に向いていたからである。この山崎というところは、天下分け目の天王山の麓にあり、ちょうど桂川、宇治川、木津川の三川が合流して淀川と名前が替わる側にある。それで、三つの川の水温の違いで絶えず霧が発生し、それでいて気候は温暖、狭隘な地形とウイスキー製造にもってこいの条件が揃っていたのである。さらには、山崎は千利休が茶室の国宝『待庵』を建てたことでも知られるとおり、日本名水百選に選ばれている水無瀬神宮の離宮の水と同じ地下水源を持っている。だから気候といい、地形といい、水といい、ウイスキーの蒸留所を建てるのに適していたということになる。
さて、サントリー山崎蒸留所の説明にここまでスペースを割いたが、私にとってはこの風景、毎日々々、通勤時に電車で通過する毎にお目にかかっている景色であり、別に珍しいことではないが、今回、記事にしようと思ったのは、蒸留所の正面に画かれていたロゴマークが替わっていたからである。
この前から、足場が組まれて工事をやっているなあと思っていたら、何と今度は山崎の文字がロゴマークとして使われていた。この蒸留所で作って予約販売されている高級ウイスキー『山崎』のロゴマークである。『山崎』には10年、12年、18年、25年、50年とあって、山崎50年は一本100万円する超高級ウイスキーである。サントリーには山崎蒸留所以外に、南アルプス近くに白州蒸留所(山梨県)があるが、こちらは1973年の設立と歴史が新しく、まだまだ高級ウイスキーをブレンドするほど貯蔵時間が経過していない。だから、日本でこれだけの高級ウイスキーが販売されるのは、山崎蒸留所だけといえるだろう。ところで、今回、蒸留所のロゴマークが『山崎』に替わったが、この前までは金色に輝く『響』のロゴマークであった。また、その前は長い間、サントリーのロゴマークとして使われていた『向かい獅子』のロゴマークが正面に画いてあったものである。
私は子供の頃から、大阪へ行く時には国鉄にせよ、阪急にせよ、必ず電車で通過する時に眺める風景なので、よく覚えている。後年に引っ越して、どういうご縁か、山崎蒸留所からさほど遠くないところに住むことになったが、やはり風光明媚で静かでのどかで、喧騒からかけ離れた緑豊なところだと思う。だから私は、生まれてこの方、最も長く住み着いていることになる。
建物の正面の白い壁面に山崎の文字が・・・以前は、金色に輝く響のロゴマークが、それ以前は、向い獅子のロゴマークであった。

蒸留所の側には大きな倉庫がある。その前をJR東海道線が走っている。この付近、鉄道写真の有名な撮影スポットであり、よく鉄道マニアが大勢かけつけて写真を撮っている。

この光景はサントリーのCMでよく見かける。よく京都郊外山崎で・・・・というが、現実での所在地は大阪府である。でもここは、大阪の中心街に行くよりも京都の中心街に行くほうが近いところなのである。

山崎蒸留所の正面の壁面には、この前までグラスにも画いてある響のロゴマークが画かれてあった。

山崎蒸留所の裏山は天王山である。天王山の中腹に上がると、そこからは大阪市内の超高層ビル群のシルエットが拝めるのである。ここからだと直線で30km先が大阪の中心街である。

坂本龍一の出ているサントリー山崎のCM。
1923年にサントリーの創業者である鳥井信次郎が、京都と大阪の府境にある山崎にウイスキーの蒸留所を建てたのが始まりである。その山崎蒸留所は、JR東海道線の山崎駅から西へ500mほど歩いたところにある。したがって所在地は大阪府三島郡島本町山崎なのである(山崎駅のホームは5分の4が京都府で残りが大阪府である)。
ところで何故、この地でウイスキーの蒸留が始まったのかというと、ウイスキーの製造に向いていたからである。この山崎というところは、天下分け目の天王山の麓にあり、ちょうど桂川、宇治川、木津川の三川が合流して淀川と名前が替わる側にある。それで、三つの川の水温の違いで絶えず霧が発生し、それでいて気候は温暖、狭隘な地形とウイスキー製造にもってこいの条件が揃っていたのである。さらには、山崎は千利休が茶室の国宝『待庵』を建てたことでも知られるとおり、日本名水百選に選ばれている水無瀬神宮の離宮の水と同じ地下水源を持っている。だから気候といい、地形といい、水といい、ウイスキーの蒸留所を建てるのに適していたということになる。
さて、サントリー山崎蒸留所の説明にここまでスペースを割いたが、私にとってはこの風景、毎日々々、通勤時に電車で通過する毎にお目にかかっている景色であり、別に珍しいことではないが、今回、記事にしようと思ったのは、蒸留所の正面に画かれていたロゴマークが替わっていたからである。
この前から、足場が組まれて工事をやっているなあと思っていたら、何と今度は山崎の文字がロゴマークとして使われていた。この蒸留所で作って予約販売されている高級ウイスキー『山崎』のロゴマークである。『山崎』には10年、12年、18年、25年、50年とあって、山崎50年は一本100万円する超高級ウイスキーである。サントリーには山崎蒸留所以外に、南アルプス近くに白州蒸留所(山梨県)があるが、こちらは1973年の設立と歴史が新しく、まだまだ高級ウイスキーをブレンドするほど貯蔵時間が経過していない。だから、日本でこれだけの高級ウイスキーが販売されるのは、山崎蒸留所だけといえるだろう。ところで、今回、蒸留所のロゴマークが『山崎』に替わったが、この前までは金色に輝く『響』のロゴマークであった。また、その前は長い間、サントリーのロゴマークとして使われていた『向かい獅子』のロゴマークが正面に画いてあったものである。
私は子供の頃から、大阪へ行く時には国鉄にせよ、阪急にせよ、必ず電車で通過する時に眺める風景なので、よく覚えている。後年に引っ越して、どういうご縁か、山崎蒸留所からさほど遠くないところに住むことになったが、やはり風光明媚で静かでのどかで、喧騒からかけ離れた緑豊なところだと思う。だから私は、生まれてこの方、最も長く住み着いていることになる。
建物の正面の白い壁面に山崎の文字が・・・以前は、金色に輝く響のロゴマークが、それ以前は、向い獅子のロゴマークであった。

蒸留所の側には大きな倉庫がある。その前をJR東海道線が走っている。この付近、鉄道写真の有名な撮影スポットであり、よく鉄道マニアが大勢かけつけて写真を撮っている。

この光景はサントリーのCMでよく見かける。よく京都郊外山崎で・・・・というが、現実での所在地は大阪府である。でもここは、大阪の中心街に行くよりも京都の中心街に行くほうが近いところなのである。

山崎蒸留所の正面の壁面には、この前までグラスにも画いてある響のロゴマークが画かれてあった。

山崎蒸留所の裏山は天王山である。天王山の中腹に上がると、そこからは大阪市内の超高層ビル群のシルエットが拝めるのである。ここからだと直線で30km先が大阪の中心街である。

坂本龍一の出ているサントリー山崎のCM。
2007.11.26 (Mon)
戎橋を渡る
新しく架けられた戎橋

戎橋を東の方角から眺める。橋の下は道頓堀川。橋の西側の遊歩道はまだ工事中だった。

大阪の名物といえば道頓堀であるが、そこへ架かる橋が長らく工事中だった。先代の橋は1925年(大正14年)に架けられた鉄筋コンクリート製だったが、老朽化と損傷が激しくて新しい橋に架け替えるため、工事をおこなっていた。それが、このほど完成し渡れるようになっていた。
以前の橋は客引き、ナンパが多く、何時の間にやら「引っかけ橋」「ナンパ橋」という有り難くない名称で呼ばれたり、阪神タイガースの優勝時やサッカー・ワールド・カップで日本が勝つと道頓堀川に飛び込む人が多発したり、とにかくあまり印象の良くなかった橋だが、新しい橋に替えられて汚名返上となるかどうか。でも、今回の橋は丸い曲線的な橋で、その橋脚の下には遊歩道まで設けてある。これだと飛込みを助長しているようであり大丈夫かなとも思う。喜ぶのは結構だが、節度ある大人の態度で表現してもらいたいと思う。
ところで、この橋を心斎橋だと勘違いしている観光客が時々おられるが、この橋は戎橋(えびすばし)という。そもそも道頓堀が完成したのは江戸時代の1612年である。安井道頓らが中心となって開削した堀で、江戸時代には運河として船が行き来していたのだ。その道頓堀が開削されたのと同じ頃、既にこの橋は架けられ、戎橋と名前がついたのである。謂れは諸説あってどれが定説か判明しない。また当時の大坂は、町中に堀が開削されていて、水の都と呼ばれていた。江戸の八百八町、京都の八百八寺に対し大坂は八百八橋というだけ橋が多かったらしい。今は堀や川を埋め尽くしてしまい、橋の数も減ったようであるが、心斎橋という橋は、昭和30年代まで現実に存在した橋で、心斎橋筋商店街を抜けた長堀通にあった長堀に架かっていた橋のことを言う。したがって現在、心斎橋という橋は存在せず、地名だけが残るということである。だから大阪に橋のつく地名が非常に多いのは、そういった事情によるものである。
ざっと橋のつく地名を挙げてみると、淀屋橋、肥後橋、四ツ橋、心斎橋、日本橋、天神橋、天満橋、長堀橋、京橋、緑橋、深江橋、鶴橋、太子橋、芦原橋、朝潮橋、出入橋、桜橋、千鳥橋、阿部野橋、西大橋、新橋、三休橋、白髪橋、鰹座橋、末吉橋、農人橋、大手橋、高麗橋、玉造橋、朝日橋・・・・・・まだまだあるが、こんなとをやっていても意味が無い。とにかく戎橋は、そんな数多くある大阪の1つの橋にしかすぎない。でも大阪で最もテレビに映る率の高い橋が戎橋であり、最も人が渡るだろうと思われる橋も戎橋である。これからはひつこい客引きもナンパも頻繁に現れないことを祈るだけだ。

戎橋を東の方角から眺める。橋の下は道頓堀川。橋の西側の遊歩道はまだ工事中だった。

大阪の名物といえば道頓堀であるが、そこへ架かる橋が長らく工事中だった。先代の橋は1925年(大正14年)に架けられた鉄筋コンクリート製だったが、老朽化と損傷が激しくて新しい橋に架け替えるため、工事をおこなっていた。それが、このほど完成し渡れるようになっていた。
以前の橋は客引き、ナンパが多く、何時の間にやら「引っかけ橋」「ナンパ橋」という有り難くない名称で呼ばれたり、阪神タイガースの優勝時やサッカー・ワールド・カップで日本が勝つと道頓堀川に飛び込む人が多発したり、とにかくあまり印象の良くなかった橋だが、新しい橋に替えられて汚名返上となるかどうか。でも、今回の橋は丸い曲線的な橋で、その橋脚の下には遊歩道まで設けてある。これだと飛込みを助長しているようであり大丈夫かなとも思う。喜ぶのは結構だが、節度ある大人の態度で表現してもらいたいと思う。
ところで、この橋を心斎橋だと勘違いしている観光客が時々おられるが、この橋は戎橋(えびすばし)という。そもそも道頓堀が完成したのは江戸時代の1612年である。安井道頓らが中心となって開削した堀で、江戸時代には運河として船が行き来していたのだ。その道頓堀が開削されたのと同じ頃、既にこの橋は架けられ、戎橋と名前がついたのである。謂れは諸説あってどれが定説か判明しない。また当時の大坂は、町中に堀が開削されていて、水の都と呼ばれていた。江戸の八百八町、京都の八百八寺に対し大坂は八百八橋というだけ橋が多かったらしい。今は堀や川を埋め尽くしてしまい、橋の数も減ったようであるが、心斎橋という橋は、昭和30年代まで現実に存在した橋で、心斎橋筋商店街を抜けた長堀通にあった長堀に架かっていた橋のことを言う。したがって現在、心斎橋という橋は存在せず、地名だけが残るということである。だから大阪に橋のつく地名が非常に多いのは、そういった事情によるものである。
ざっと橋のつく地名を挙げてみると、淀屋橋、肥後橋、四ツ橋、心斎橋、日本橋、天神橋、天満橋、長堀橋、京橋、緑橋、深江橋、鶴橋、太子橋、芦原橋、朝潮橋、出入橋、桜橋、千鳥橋、阿部野橋、西大橋、新橋、三休橋、白髪橋、鰹座橋、末吉橋、農人橋、大手橋、高麗橋、玉造橋、朝日橋・・・・・・まだまだあるが、こんなとをやっていても意味が無い。とにかく戎橋は、そんな数多くある大阪の1つの橋にしかすぎない。でも大阪で最もテレビに映る率の高い橋が戎橋であり、最も人が渡るだろうと思われる橋も戎橋である。これからはひつこい客引きもナンパも頻繁に現れないことを祈るだけだ。
2007.11.23 (Fri)
御堂筋を歩く
大阪に御堂筋(みどうすじ)という通りがある。大阪の梅田から難波までを南北に繋いでいる幅約43mの大通りであるが、ここは銀杏が植えられていて、秋が深まると色づいてくるのである。それで私は、色づいた銀杏並木に魅せられて、地下鉄にも乗らず御堂筋をぶらぶら歩いてみることにした。それでは出発・・・。
御堂筋の出発点は、梅田の阪急百貨店である。日本最初のターミナル百貨店としてオープンしてから70年以上はなるが、その時の建物は壊されて、2年後には新しい阪急百貨店がオープンする。新店舗は現在建築中のビル(41階)の下層部に入ることとなる。

中之島の大阪市役所の前の遊歩道である。ここの木は紅葉が進んでいる。

淀屋橋付近から御堂筋の南方面を望む。この辺りはビジネス街のせいか、祝日なので車が少ない。

日本生命本社ビルが見える。御堂筋は長い間、高さが100尺(約30m)に制限されていたため、ビルの高さが揃っている。

そもそも御堂筋という名称は、北御堂(浄土真宗本願寺派津村別院)と南御堂(浄土真宗大谷派難波別院)という2つのお寺があったことから、そのように呼ばれている。もとは幅が6mの狭い道路であったが、地下鉄工事が始まると同時に拡張され、1937年に現在の姿となった。この写真は北御堂である。

この空間にセントレジス・ホテルの入る超高層ビルが3年後の完成を目指して建てられている。今年の2月に1階を公共の空間とするのを条件に、後方部分の高さが140mに緩和された。その結果、早速、高さ制限いっぱいにビルが建てられることとなった。

本町付近では高速道路が上を走っている。阪神高速道路の下は船場センター・ビル。

こちらは南御堂。

銀杏の木の背景にはエプソン・ビルが見える。

長堀通との交差点。この辺りから人の数がぐっと増える。かつて、この長堀通には堀があって、昔は橋が架かっていた。今は埋められて下には巨大な地下街が・・・・。

心斎橋までやって来た。このビルはそごう百貨店の本店。南隣には大丸百貨店がある。

千日前通を過ぎるといよいよ難波である。この古風な建物は新歌舞伎座。現在は歌舞伎の公演は行われておらず、ほとんどが歌謡ショーや演劇の公演がメインである。でもいよいよ取り壊されることとなった。この建物は難波の名物だったのに残念である。上本町の方に移転してしまい建物も新しくなる。どんどん新しい建築物に建て替えられる。何か風情がなくなるようで寂しい・・・。

とうとう御堂筋の終点までやって来た。起点が阪急百貨店なら、終点は高島屋百貨店である。この建物も古く、増築するのを機会にして、改装される事になった。どんな外観になるのやら・・・・・・・。でも、御堂筋の銀杏並木も全てが色づいているのでもなく、青い部分もあって、来週あたりの方が紅葉が進んでいるだろう。

御堂筋の出発点は、梅田の阪急百貨店である。日本最初のターミナル百貨店としてオープンしてから70年以上はなるが、その時の建物は壊されて、2年後には新しい阪急百貨店がオープンする。新店舗は現在建築中のビル(41階)の下層部に入ることとなる。

中之島の大阪市役所の前の遊歩道である。ここの木は紅葉が進んでいる。

淀屋橋付近から御堂筋の南方面を望む。この辺りはビジネス街のせいか、祝日なので車が少ない。

日本生命本社ビルが見える。御堂筋は長い間、高さが100尺(約30m)に制限されていたため、ビルの高さが揃っている。

そもそも御堂筋という名称は、北御堂(浄土真宗本願寺派津村別院)と南御堂(浄土真宗大谷派難波別院)という2つのお寺があったことから、そのように呼ばれている。もとは幅が6mの狭い道路であったが、地下鉄工事が始まると同時に拡張され、1937年に現在の姿となった。この写真は北御堂である。

この空間にセントレジス・ホテルの入る超高層ビルが3年後の完成を目指して建てられている。今年の2月に1階を公共の空間とするのを条件に、後方部分の高さが140mに緩和された。その結果、早速、高さ制限いっぱいにビルが建てられることとなった。

本町付近では高速道路が上を走っている。阪神高速道路の下は船場センター・ビル。

こちらは南御堂。

銀杏の木の背景にはエプソン・ビルが見える。

長堀通との交差点。この辺りから人の数がぐっと増える。かつて、この長堀通には堀があって、昔は橋が架かっていた。今は埋められて下には巨大な地下街が・・・・。

心斎橋までやって来た。このビルはそごう百貨店の本店。南隣には大丸百貨店がある。

千日前通を過ぎるといよいよ難波である。この古風な建物は新歌舞伎座。現在は歌舞伎の公演は行われておらず、ほとんどが歌謡ショーや演劇の公演がメインである。でもいよいよ取り壊されることとなった。この建物は難波の名物だったのに残念である。上本町の方に移転してしまい建物も新しくなる。どんどん新しい建築物に建て替えられる。何か風情がなくなるようで寂しい・・・。

とうとう御堂筋の終点までやって来た。起点が阪急百貨店なら、終点は高島屋百貨店である。この建物も古く、増築するのを機会にして、改装される事になった。どんな外観になるのやら・・・・・・・。でも、御堂筋の銀杏並木も全てが色づいているのでもなく、青い部分もあって、来週あたりの方が紅葉が進んでいるだろう。

2007.11.13 (Tue)
大阪の中之島を歩く・・・・・西部
四つ橋筋から、さらに中之島を西に向って歩くと関西電力ビルが目立っている。41階で195mの高さがある。しかし、大阪の中之島は梅田ほどではないが、大阪空港の発着航路の関係で、航空法により高さ制限がある。だから中之島は200m超のビルを簡単に建てる事は出来ない。

関西電力ビルの西側には大阪市立科学館がある。前身は日本で初めてプラネタリウムを導入した大阪市立電気科学館(四ツ橋にあった)で、1989年にこの場所へ移転した。

大阪市立科学館の前には国立国際美術館のエントランスがある。この金属のパイプとガラスで覆われた現代アートのような物体が美術館の入り口である。かつて万国博記念公園内にあった国立国際美術館が老朽化によって閉鎖され、2004年11月に、この場所に移って来た。この美術館は全面地下の美術館で、地下3階まであり、常設展示と企画展示がそれぞれの階で別れている。

国立国際美術館の付近から、堂島川を挟み福島の方角に視線を移すと、建築中のビルが数棟、見受けられる。かつてここは阪大病院(大阪大学付属病院)のあったとろだ。10数年前までは、それこそ古臭い阪大病院が立っていた。私は今から20年ほど前、入院中の職場の女性を見舞うため、阪大病院を訪れたことがある。それは汚い病院だった。かつて『愛と死をみつめて』なんていう、マコとミコの実話が、この病院の中で繰り広げられていたが、それも今や過去の話。阪大病院は吹田市の万国博記念公園の北隣に移転した。そして、現在はご覧の通りの姿である。右から法務庁舎、そして建築中の低層マンションと、1200人収容のホールと商業施設。その後ろが50階建ての超高層マンション。最上階は分譲価格が4億とも5億ともいわれる(誰が住むのかな・・・・)。1番左はABC朝日放送の新社屋。ここが完成すると、大淀の朝日放送社屋は閉鎖されるのである。

中之島も玉江橋を過ぎ、さらに西へ行くとリーガ・ロイヤル・ホテルが目に入る。関西財界の迎賓館と言われる老舗の高級ホテルである。一度、宿泊してみたいものだ・・・。

この高さが100mを超える巨体な建物は、通称グランキューブと呼ばれる大阪国際会議場である。中には3000人収容のホールや会議室、その他、イベント可能なスペースが多数あるが、私は1度も入ったことがない。

昨日と今日、中之島を撮った写真を掲載しましたが、中之島は現在建築中の超高層ビルがあったり、京阪電車延伸工事中だったり、近代美術館の建築計画があったり、これから将来にかけて街が変わっていきそうで目が離せません。

関西電力ビルの西側には大阪市立科学館がある。前身は日本で初めてプラネタリウムを導入した大阪市立電気科学館(四ツ橋にあった)で、1989年にこの場所へ移転した。

大阪市立科学館の前には国立国際美術館のエントランスがある。この金属のパイプとガラスで覆われた現代アートのような物体が美術館の入り口である。かつて万国博記念公園内にあった国立国際美術館が老朽化によって閉鎖され、2004年11月に、この場所に移って来た。この美術館は全面地下の美術館で、地下3階まであり、常設展示と企画展示がそれぞれの階で別れている。

国立国際美術館の付近から、堂島川を挟み福島の方角に視線を移すと、建築中のビルが数棟、見受けられる。かつてここは阪大病院(大阪大学付属病院)のあったとろだ。10数年前までは、それこそ古臭い阪大病院が立っていた。私は今から20年ほど前、入院中の職場の女性を見舞うため、阪大病院を訪れたことがある。それは汚い病院だった。かつて『愛と死をみつめて』なんていう、マコとミコの実話が、この病院の中で繰り広げられていたが、それも今や過去の話。阪大病院は吹田市の万国博記念公園の北隣に移転した。そして、現在はご覧の通りの姿である。右から法務庁舎、そして建築中の低層マンションと、1200人収容のホールと商業施設。その後ろが50階建ての超高層マンション。最上階は分譲価格が4億とも5億ともいわれる(誰が住むのかな・・・・)。1番左はABC朝日放送の新社屋。ここが完成すると、大淀の朝日放送社屋は閉鎖されるのである。

中之島も玉江橋を過ぎ、さらに西へ行くとリーガ・ロイヤル・ホテルが目に入る。関西財界の迎賓館と言われる老舗の高級ホテルである。一度、宿泊してみたいものだ・・・。

この高さが100mを超える巨体な建物は、通称グランキューブと呼ばれる大阪国際会議場である。中には3000人収容のホールや会議室、その他、イベント可能なスペースが多数あるが、私は1度も入ったことがない。

昨日と今日、中之島を撮った写真を掲載しましたが、中之島は現在建築中の超高層ビルがあったり、京阪電車延伸工事中だったり、近代美術館の建築計画があったり、これから将来にかけて街が変わっていきそうで目が離せません。
2007.11.12 (Mon)
大阪の中之島を歩く・・・・・東部
先日の秋晴れの日、大阪の中之島を歩いてみた。絶好の天気で汗ばむような陽気であったが、川べりを歩くと涼しい風が心地よく感じられたのである。
中之島というのは堂島川と土佐堀川に挟まれた東西3kmに及ぶ中洲のことである。江戸時代、大坂が天下の台所と呼ばれていた頃、それこそ対岸の堂島と共に各藩の蔵屋敷が立ち並び、全国から船で物資が運ばれて来て、日本経済の中心であった。それが今では様相がすっかり変わり、官庁や高層ビル、美術館、ホテル、ホール、公園等が並び、ちょっとした都会のオアシス的雰囲気が漂っている。そんな中之島を散歩しながら写真を撮って来たので、ここで掲載するのもいいかなあと考えた次第である。
まずは中之島公園が中之島の東端にあるが、公園の正面に赤い煉瓦風の建物が見える。それが大阪中央公会堂である。通称・中之島公会堂というが、建てられたのが1918年と古い。株式仲買人・岩本栄之助の寄付金で建てられたというから、昔は気前の良い人がいたものである。この建物は重要文化財に指定されている。

この建物は大阪府立中之島図書館である。ちょうど中央公会堂と大阪市役所の間にある重厚感のある建物である。これは1904年開館というから、中央公会堂よりも古く、今でも使用されている図書館であり、建物は重要文化財である。

堂島川に架かる大江橋から東の方角を望むと、市役所の向こうに中之島図書館、さらに中央公会堂が見える。この風景、何処かに似てませんか・・・・。実はパリのシテ島と似ているのである。パリのシテ島は、もっと建物が古くて重厚感があるけれども・・・・。

大阪市役所の前には幅員43mの御堂筋が通っているが、御堂筋を挟んで西側には日本銀行大阪支店が構えている。この建物も1903年に建てられたというから100年以上経っている。設計は東京駅を設計した辰野金吾と葛西万司、永野宇平治の3人である。ベルギーの国立銀行をモデルにしたらしい。

日本銀行の建築物から西へ行くと、超高層ビルが幾つか立っている。その前を歩き、さらに肥後橋近くにやって来ると鉄塔の聳えたビルが目に入る。下の写真を観てもらおう。向こうの方から順番にいうと、まずは中之島三井ビルである。このビルは数年前に建てられたビルで、31階で高さが140m。その手前の低層ビルは住友ビルである。そのビルの脇を高速道路が貫いていて、昭和40年頃からこの辺りの風景は変わってない。ところが、まもなく手前の2棟の建物が壊されることになった。手前の2棟というけれども、正確には3棟かもしれない。
向こう側の幅の広い建物は朝日新聞大阪本社ビルである。そして、手前の鉄塔があるビルは新朝日ビルで、1番手前の白い建物がフェスティバル・ホールである。実はフェスティバル・ホールというのは、新朝日ビルと一体になっていて、入り口は新朝日ビル内にあり、ホール全体はビルにくっついているのだ。
結局、朝日新聞大阪本社ビルと、フェスティバル・ホールを含めた新朝日ビルが壊されて、新しく200m級のツインタワーに建て替えられることになったのである。したがって長年、親しまれて来たフェスティバル・ホールも暫くは閉鎖されるのだ。そして、超高層ビルの中に新しいホールが建てられる訳だ。でも、あの評判のよかった見事な音響は甦るのか、問題はそのあたりにあるのだが・・・・・・。

中之島西部は明日に掲載します。
中之島というのは堂島川と土佐堀川に挟まれた東西3kmに及ぶ中洲のことである。江戸時代、大坂が天下の台所と呼ばれていた頃、それこそ対岸の堂島と共に各藩の蔵屋敷が立ち並び、全国から船で物資が運ばれて来て、日本経済の中心であった。それが今では様相がすっかり変わり、官庁や高層ビル、美術館、ホテル、ホール、公園等が並び、ちょっとした都会のオアシス的雰囲気が漂っている。そんな中之島を散歩しながら写真を撮って来たので、ここで掲載するのもいいかなあと考えた次第である。
まずは中之島公園が中之島の東端にあるが、公園の正面に赤い煉瓦風の建物が見える。それが大阪中央公会堂である。通称・中之島公会堂というが、建てられたのが1918年と古い。株式仲買人・岩本栄之助の寄付金で建てられたというから、昔は気前の良い人がいたものである。この建物は重要文化財に指定されている。

この建物は大阪府立中之島図書館である。ちょうど中央公会堂と大阪市役所の間にある重厚感のある建物である。これは1904年開館というから、中央公会堂よりも古く、今でも使用されている図書館であり、建物は重要文化財である。

堂島川に架かる大江橋から東の方角を望むと、市役所の向こうに中之島図書館、さらに中央公会堂が見える。この風景、何処かに似てませんか・・・・。実はパリのシテ島と似ているのである。パリのシテ島は、もっと建物が古くて重厚感があるけれども・・・・。

大阪市役所の前には幅員43mの御堂筋が通っているが、御堂筋を挟んで西側には日本銀行大阪支店が構えている。この建物も1903年に建てられたというから100年以上経っている。設計は東京駅を設計した辰野金吾と葛西万司、永野宇平治の3人である。ベルギーの国立銀行をモデルにしたらしい。

日本銀行の建築物から西へ行くと、超高層ビルが幾つか立っている。その前を歩き、さらに肥後橋近くにやって来ると鉄塔の聳えたビルが目に入る。下の写真を観てもらおう。向こうの方から順番にいうと、まずは中之島三井ビルである。このビルは数年前に建てられたビルで、31階で高さが140m。その手前の低層ビルは住友ビルである。そのビルの脇を高速道路が貫いていて、昭和40年頃からこの辺りの風景は変わってない。ところが、まもなく手前の2棟の建物が壊されることになった。手前の2棟というけれども、正確には3棟かもしれない。
向こう側の幅の広い建物は朝日新聞大阪本社ビルである。そして、手前の鉄塔があるビルは新朝日ビルで、1番手前の白い建物がフェスティバル・ホールである。実はフェスティバル・ホールというのは、新朝日ビルと一体になっていて、入り口は新朝日ビル内にあり、ホール全体はビルにくっついているのだ。
結局、朝日新聞大阪本社ビルと、フェスティバル・ホールを含めた新朝日ビルが壊されて、新しく200m級のツインタワーに建て替えられることになったのである。したがって長年、親しまれて来たフェスティバル・ホールも暫くは閉鎖されるのだ。そして、超高層ビルの中に新しいホールが建てられる訳だ。でも、あの評判のよかった見事な音響は甦るのか、問題はそのあたりにあるのだが・・・・・・。

中之島西部は明日に掲載します。