2012.12.02 (Sun)
北斎展に行く
今現在、天王寺公園内の大阪市立美術館で開催中の特別展『北斎』---風景・美人・奇想---に行ってきた。葛飾北斎というと今や世界的に著名な浮世絵師であるといってもいいだろう。フランスの後期印象派に多大な影響を与えただけでなくアメリカの権威ある雑誌『ライフ』において、この1000年間で最も重要な功績を残した世界の人物100人の中に日本人でたった1人選出されたのである。そんな葛飾北斎の大規模な展覧会。一般的に知られている北斎と言うと『富嶽三十六景』の浮世絵師。ところが今回はそれ以外にも、肉筆画や読本挿絵、北斎漫画、戯画、狂歌絵本・・・・・それこそ全国に散らばっている北斎の手による絵が一堂に会して集まった感がある。今まで海外の油彩画ばかりの展覧会ばかりを見てきたが、時には趣向を変えて我々の土壌で育った美術と言うものを振り返ってみるのも面白い。
葛飾北斎は1760年に生まれた江戸末期の浮世絵師であるが、少し年齢的に後になる広重と共に風景画で海外に知れ渡っている。その最たるものが言わずと知れた『富嶽三十六景』なのであるが、『凱風快晴』といタイトルの赤富士。ドビュッシーが此の絵から発想を得て交響詩『海』を作曲したと言われる『神奈川沖浪裏』がことさら有名である。それで今回、この北斎の展覧会には『富嶽三十六景』全てが集められて展示されているのだが、残念なことに余りに展示品が多くて、毎週のように展示されるものが代わるという大規模な北斎展なのである。だから全てを見たいと思うならば、毎週行かなければならなのだが、小生それほど暇人ではないので今回の一回しか行けなかった。それで展示されていたものが、他に『東海道五十三次』から18点、江戸八景、近江八景、諸国の名称を描いた風景画、戯画、藻魚・鳥獣、歌仙と武者、美人画、妖怪百物語の図、洋風風景版画、詩歌に詠まれた風景・・・・それと今回の展示において北斎との大坂との関係について展示してあった。北斎は生涯に二度大坂を訪れている。最初は1812年(文化9年)というから52歳の時である。この年の秋に名古屋の牧墨僊邸に逗留したついでに大坂、和泉、紀州、伊勢と回っている。さらに5年後の1817年(文化14年)年末、再び大坂、伊勢、紀州、奈良吉野を訪れてりうのであるが、その滞在時において数多くの傑作を残している。風景画としては大坂に立ち寄る前に京都の嵐山渡月橋を描いた浮世絵に、大坂の淀川にかかる天満橋、安治川河口の天保山があるが、曲亭馬琴の作『三七全伝南柯夢』への挿絵を始め読本へ膨大な絵を残している。また北斎は大坂で弟子をとり、その多くが絵を残している。代表的な絵師としては春好斎北洲、春陽斎北敬、葛飾北洋、春梅斎北英、柳川重信、岳亭春信、柳斎重春などがいて弟子の手による絵の展示も行われていた。
ところで北斎の『富嶽三十六景』は何時頃、描かれたものかご存じだろうか。実は1820年(文政3年)以降のことなのである。つまり北斎が60歳と言ういう円熟期に入ってから『富嶽三十六景』を手掛けているのである。それから13年かけて『富嶽三十六景』を完成。その後に『富嶽百景』に手を染めていることを考えれば老いてますます活発に筆を進めていたということである。結局、北斎は何度も名を変え90歳で世を去るまで幾多の作品を残し死後160年経っても名声が衰えるどころか、その後どんどんと世界に広まっているのである。
さて、今回の北斎展であるが、これだけ多岐に及んだ北斎の絵を見るにつけ、『富嶽三十六景』が特出して有名であるが、ただそれだけを描いていた絵師でないことは一目瞭然であるが、スケッチ描きのようなものを墨で描いていて、これらの多くが細密な手法で描かれている。おそらく西洋の写実画が参考になったのではないかとも思える。日本の浮世絵が誇張した形で平面的に描ききり、対局にあったヨーロッパの絵画に影響を与えたことは我々の知るところであるが、逆に西洋の絵画に興味を持ち手法を取り入れようとしてたとしたら意外な北斎の一面を見たような気がする。それだけ絵の探求を死ぬまで続けていたことになるだろう。さらに今回、北斎展に行って思ったこと。外国人が多数来ていたということ。アジア人でなく明らかに西洋人。丹念に1枚、1枚、小さな浮世絵に顔を近づけ凝視していたことはいうまでもない。近づいて彼らがどんな言葉を発するか興味があったので聞いてみたら・・・FantasticだとかGreatestだとか月並みなことしか言ってなかった。これには期待外れだったが・・・・・。
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