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2013.12.29 (Sun)

百田尚樹『黄金のバンタムを破った男』を読む



 これは1人のボクシング選手にスポットをあてたノンフィクションである。著者は今、公開されている映画『永遠の0』の原作者である百田尚樹である。『永遠の0』というのはゼロ戦の神風特攻隊の話だが、この本がミリオンヒットをするなどよく売れたという。本来は放送作家で、朝日放送の人気番組『探偵ナイトスクープ』のチーフライターである。それが最初に書いた小説『永遠の0』がベストセラー。それ以降は『BOX』『モンスター』『海賊とよばれた男』と話題の作品を出していて、今、最も勢いのある作家の1人である。そんな百田尚樹が書いたノンフクションが『黄金のバンタムを破った男』である。
 この本は1人のボクサーに焦点を当てたノンフィクションであるが、ただ1人のボクサーにだけ焦点を当てるのだけではなく、彼のおかれた立場や彼が登場するまでのボクシング界の実情、そして彼を取り巻いた人物たち全て、及び当時の社会事情まで事細かに書かれている。百田尚樹の書斎は資料に埋まれて足の踏み場もないというほどらしいが、本を書くにあたり徹底的に調べあげていて、小生も知らない箇所も多く、なるほどと思うところであった。描写力も優れていて、時代を忠実に追ったノンフィクションだが読んでいて飽きさせな文筆力に唖然とした。それで小生はあっと言う間に読み終えてしまったのである。
 さて黄金のバンタムを破った男と言うタイトルであるが、ボクシングを知らない人なら何の事だと思われるだろう。バンタムと言うのはボクシングのバンタム級のことである。そのバンタム級で黄金のバンタムと呼ばれた男がいた。ブラジルの英雄でエデル・ジョフレという。

 エデル・ジョフレは1936年3月、ブラジルのサンパウロで生まれた。ボクシングジムを経営する父アリステディスからボクシングの手ほどきを受け、アマチュアボクサーとして1956年のメルボルン・オリンピックに出場。準々決勝で敗れたが、アマ時代の通算は150戦148勝2敗というとてつもない成績だった。翌1957年プロボクサーとしてデビュー。
類い稀な才能を発揮。デビューからいきなり5連続KO勝利。その後、引き分け3を含むが負け知らずで38戦目に空位となった世界バンタム級のタイトルをメキシコのエロイ・サンチェスと争い6回KOに下し世界バンタム級チャンピオンとなるや、その後も防衛を繰り返し、ピエロ・ローロ、ラモン・アリアス、ジョニー・コードウェル、ハーマン・マルケス、ホセ・メデル、青木勝利、ジョニー・ジャミトー、ベルナルド・カルバロと8度の防衛戦を全てKOで下し17連続KO勝ち。まさに天下敵なしの強さで、チャンピオンの中のチャンピオン。通算で50戦47勝(37KO)3引き分け無敗。このエデル・ジョフレの圧倒的な強さを人はゴールデン・バンタム(黄金のバンタム)と評したのである。そして昭和40年5月18日、無謀にもこの怪物エデル・ジョフレに挑戦した22歳の日本の若者がいた。それがこの本編の主人公である。その名をファイティング原田と言う。

 ファイティング原田というと日本のボクシングファンなら知らない人はいないほど有名なボクサーであるが、あの頃、エデル・ジョフレに挑戦するのは無謀と言われていた。また大事な素材を潰すと言って反対する人も多かった。それほど当時のジョフレは強かったのである。ガードで身体を固め防御する。最初は出てこないので相手は攻めてくるが、序盤が過ぎたあたりから相手の攻撃を読み切ったところで、次第と防御から攻撃に転じるや強烈なフォロースルーと右のアッパーで仕留める。まさにボクシングの申し子のようなボクサーだった。一方のファイティング原田は1943年4月に東京の世田谷で生まれた。本名原田政彦。背が高くなくズングリしていてボクサーに向いてない体型。それでいて中学卒業前に笹崎ジムに入門。デビューからこれまた連戦連勝。東日本新人王決定戦では海老原博幸(後の世界フライ級チャンピオンでサウスポーの強打者)から序盤2回ダウンを奪い判定で勝利。僅かデビューから2年半で世界フライ級チャンピオンだったポーン・キングピッチに挑戦権を得る。それはポーン・キングピッチに挑戦が決まっていた矢尾板貞雄が突然に引退してしまったので、その代役として19歳の原田がタイトルマッチを戦うこととなった。だがキャリアがなく不利と思われていた原田が若さを発揮して老獪なチャンピオンを圧倒。11回に狂った風車と評されるほどの連打を浴びせ、白井義男以来、日本人2人目の世界チャンピオンになる。しかしリターンマッチが相手のホームタウンのバンコクであったがため僅差の判定で敗れ、減量苦からバンタム級に上がってきたのである。それから2年以上経過、今度は2階級制覇を目指してバンタム級王座に挑戦。ところが相手が悪すぎる。黄金のバンタムが相手である。助言者はジョフレが引退してからタイトルを狙ってもいいからとか、まだ時期尚早という人もいたほどだ。それでも原田陣営は可能性を信じて挑戦したのである。

 このあたり筆者は克明にそれまでに行きつくところの日本ボクシング界の事や、社会背景のことまで忠実に書いている。百田尚樹は小生と同年代と言ってもいいくらいなので、書いてある内容はほぼ覚えていたが、百田尚樹はこの試合の詳細をラウンドごとに書いている。そういえば小生が自分で試合を採点しながら観ていたのも、この試合が最初だった。とにかく小生も勝ち目がないだろうと観ていたような記憶がある。でも今、この本を読むとどんな試合だったかなと漠然としていて克明に覚えているわけでもない。なにしろ昭和40年のことである。小生はまだ小学校の高学年だった。試合は原田が左右のショートを連打するが、ジョフレは下がってカウンターを狙い、突如、前に出てコンビネーションのあるパンチで応戦する。試合は一進一退だった。序盤から中盤に試合が進んでいき、勝てっこないから次第に原田は意外とやるとなり、やがてもしかして・・・に変わって行く。そして15回終了まで原田は倒されずに持った。いや、それどころか見せ場を多く作り日本中を熱狂させた。この時の視聴率は54.9%だったというから如何に多くの国民がこのボクシング中継を観ていたかということだ。それで2対1の際どい判定ながら原田は勝ったのである。奇跡だと言われた。この偉業は世界中に配信され、世界中のボクシング関係者が驚いたという。とにかく敗れたことのないエデル・ジョフレを日本の若いボクサーが破ったのだ。これでMasahiko Haradaの名は一気に有名になる。エデル・ジョフレは初の敗北で口惜しがったという。しかし、試合後は笑顔で原田を祝福した。
 原田も一世一代の勝負が出来たと思った。ジョフレを破ったから次の防衛戦は問題ないと思ったが、原田はクラスをバンタムに上げても減量に苦しんでいた。普段から体重が60kgを超えているのにバンタム級のリミットである53.5kgに落とさなければならない。さらに体重を落とした状態で過酷なトレーニングをする。それで初防衛戦の時のコンディションは悪く(対アラン・ラドキン)、勝つには勝ったが今後に不安を残した。
2度目の防衛戦はまたエデル・ジョフレであった。今度はジョフレが本気で勝ちに来るので原田は今度こそ危ないと思ったものだ。かくしてバンタム級王座に輝いてから1年後の1966年5月31日、ファイティング原田はチャンピオンとしてエデル・ジョフレの挑戦を受ける。前回はエデル・ジョフレは負ける筈がないと思っていたかもしれない。それが油断に繋がった。今回はそういった余裕も見せず、来日しても必死だったように思う。生涯で初めて負けたのがよほど残念だったのだろう。練習にも本気で取り組み試合に臨んだのである。今回も激戦だった。どちらも負けていない。意地と意地のぶつかりあいだ。しかし、若い原田は終盤の14回、15回になって無尽蔵のスタミナを見せつけてジョフレを驚かせた。猛ダッシュをしたのである。ジョフレはこの日本の若者の何処にこれだけのスタミナが残っていたのだろうか。もう呆れ顔で最後はやや戦意喪失気味だったのを覚えている。今回は前回よりも点差が開き、原田の勝利が確定的だった。こうして奇跡は2度起きた。原田は無敵のジョフレに2度も勝ったのだ。尚、この時のテレビの視聴率63.7%。

 ところでジョフレは老いて全盛期を過ぎていたのだから原田が勝って当たり前だと思わないでほしい。何故ならジョフレはこの後、いったん引退する。が、原田が減量苦から逃れるためバンタム級からフェザー級にクラスを上げ、世界を目指すという話を聞き、3年後にエデル・ジョフレもカムバックしているのだ。ところが1969年7月オーストラリアで世界フェザー級チャンピオン、ジョニー・ファメンションに挑戦した原田が実に不可解なインチキ判定に屈し(ダウンを2度奪い終始優勢だった)、3階級制覇はならなかった。そして燃え尽きて原田は翌年に引退したため、エデル・ジョフレは原田を倒すチャンスもなくなってしまった。でもカムバックしても負けず37歳にしてホセ・レグラを倒しWBC世界フェザー級チャンピオンとなるから恐れ入る。さらに元世界フェザー級チャンピオンで、こちらもカムバックしてきた7歳下のビセンテ・サルディバルの挑戦を受け4回KOで退けるなど、怪物ぶりは老いても健在であった。ただ原田のいないボクシング界で試合をする意味もなく、王座を返上。その後、40歳まで闘い通算78戦72勝(50KO)2敗4引き分けで完全に引退した。それで生涯でたったの2敗が何れもファイティング原田だったのが何時までも心の奥に残っていたのか、ジョフレは引退してからかなりの年月を経た日に原田へ手紙を出している。その内容は旧交を深めようというものだった。旅費も宿も全て負担するから遊びに来いというではないか。原田は喜んだ。急いでブラジルに行く準備を進めたが、その中で条件としてボクシングのエキシビジョンマッチを行おうというのが気になった。そして関係者に聞くと、ジョフレは今度こそ原田を倒すと言って、本気でトレーニングを行っていると聞いて原田はジョフレの申し出を断ったという。如何にも負けん気の強いジョフレらしい話だ。

 しかし、黄金のバンタムと呼ばれバンタム級史上でも最強ではないかと評されるジョフレを2度も破ったことで世界ボクシング殿堂入りした原田。一応、世界2階級制覇したボクサーなのだ。今のように統括団体が4団体、17階級あって世界チャンピオンが60人も70人もいる今とは違い、世界チャンピオンがたった11人しかいなかった時代の2階級制覇である。それだけでもすごいのに世界ボクシング殿堂入りの要因がエデル・ジョフレを破ったということが最優先されたのだ。これだけでエデル・ジョフレがどれだけ凄いボクサーか判ろうかというものだ。でも原田自身63戦56勝(23KO)7敗という成績が示すほどの立派なボクサーだったのだ。でもジョフレと言うとんでもない怪物がいたことで、それが独り歩き伝説となったのである。当時小生は子供だったのでそれほどの偉業とも思えなったが、この本を本を読んでいると、それは凄いことだったのだなと思わざるを得ない。それを考えると昨今のボクシングの世界チャンピオンが昔ほど注目されなくなったのは判るような気がする。

原田が世界バンタム級タイトルを奪取したジョフレ戦


世界バンタム級王者になってからのジョフレ戦


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