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2014.05.17 (Sat)

ボストン美術館 浮世絵名品展 北斎に行く




 現在、神戸市立博物館で開催されているボストン美術館 浮世絵名品展 北斎に行ってきた。何だか長いタイトルだが、つまりボストン美術館が所蔵している葛飾北斎の浮世絵作品の展覧会と言うことである。
 ボストン美術館というのは1870年設立と言うからヨーロッパの美術館に比べると歴史は新しいが、所蔵品は50万点を数える世界でも有数の民間美術館である。古代から現代まで世界中の美術工芸品を展示しているが、日本の美術を多く所蔵していることでも知られ、仏画、絵巻物、浮世絵、刀剣、美術館の敷地内には日本庭園まである。それで今回はボストン美術館が所蔵する葛飾北斎の里帰り展覧会である。
 ところで何故にボストン美術館が日本美術を大量に所蔵しているかということなのだが、まず、ボストンは鎖国を解放した日本と貿易を真っ先に貿易港として関係を深めたことに端を発している。そして、その中で3人のアメリカ人の名前が浮かびあがってくる。エドワード・モース、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲローである。
 モースはマサチューセッツ州の動物学者である。1877年に初来日し大森貝塚を発見し、3度かの来日を繰り返し、この間に東京帝国大学の教員となり日本の陶磁器や民俗資料の収集に励む。1892年、モースは帰国し日本陶磁器5000点をボストン美術館に譲渡。さらに日本を絶賛しフェノロサやビゲローが来日するきっかけを与える。、
 フェノロサは1878年来日。フェノロサは日本美術のコレクターとなり、東京帝国大学で政治学、哲学、経済学を教える。フェノロサの講義を受けた者には岡倉天心や坪内逍遥がいる。フェノロサは来日前に美術学校で絵を学んだこともあり日本美術には大きな関心を示し、教え子の岡倉天心と近畿の古寺の美術品を訪ねて調査をしたり東京美術学校を設立に尽力したりする。また狩野派の絵画に心酔するあまり狩野永悳に師事し、狩野永探理信という画名を頂いているほどだ。そして廃仏毀釈の時代の中で多くの捨てられた日本の美術品を集め、やがてそれらの多くの作品がボストンに渡ることとなる。
 ビゲローはモース3度目の来日の際、一緒に来日する。当初は短期の観光のつもりだった。しかし、日本の文化と伝統に触れ、心底から日本が好きになる。一時帰国以降は7年間日本に滞在し、三井寺に入門、月心という法名を得て、日本の画家や美術研究者に援助をするなど日本の美術界の発展に貢献する。さらに奈良時代から江戸時代までにおける美術工芸品を大量にコレクションする。彼の集めた作品は肉筆絵画4000点、、浮世絵版画34000点と絵画だけでもこれだけあり、これ等もボストンへ渡ってしまう。
 これで何故にボストン美術館がこれだけ日本の美術品を大量に所蔵しているかか判るだろうと思われる。明治維新後、西洋列強に追いつこうという思想が蔓延するあまり、日本古来の伝統は重んじられなくなり、西洋崇拝が進み、さらに神道復活で廃仏毀釈が進み多くの仏教寺院が壊され、仏像や壁画、多くの物を失ったのである。おそらく当時の浮世絵なんて言うのはゴミ扱いされていたかも知れず、上記のアメリカ人が日本の美術を称賛しなけらば今、絶賛されている北斎の作品の多くの作品も失われていたかもしれない。はたして明治維新と言うのは大きな改革ではあったのか。こう言った面から見ると100%良かったとは言い切れない出来事ではあったかもしれない。

 さて北斎の展覧会であるが、浮世絵版画と言うのは一つの作品でも何枚刷られたのか分からない。だから富嶽三十六景といっても全世界でどれだけあるのだろうか・・・・・。今回、富嶽三十六景だけで21点展示されていた。有名な『神奈川沖浪裏』赤富士と言われる『凱風快晴』に2点は今までに何回観たやら。葛飾北斎が為一と名乗っていた頃で既に北斎は70歳という円熟の域に達していた時に『富嶽三十六景』を描く。3万点はあるという北斎の作品の中でも、この作品群によって価値が不動のものとなるが、現在でも海外でその評価が高く上記のようにアメリカに持ち去られたのであるが、フランスにも渡り印象派の画家に大きな影響を与えたことは周知の事実である。
 今回は北斎の名を浸透させた『富嶽三十六景』以外の作品が多く、展示され春朗と名乗っていた若い時の作品から、最晩年の作品まで140点以上が展示されていて、大勢の人がつめかけていた。しかし思うに、当時の日本人にはこういった作品が注目されることもなく、何故に西洋人によって評価されたのだろうか。伊藤若冲にもいえるが、日本人が忘れ去ったような絵師や画家が西洋人によって評価され、日本で突然のように名が高まるということが時々あるが、北斎なんかはその最初の人かもしれない。おそらく明治維新以降は暫くの間、北斎の名も消えかかっていたのだろうと察しられる。

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