2016.07.01 (Fri)
50年前のこと(ビートルズ来日騒動)
今から50年前と言えば1966年(昭和41年)7月1日。ちょうどザ・ビートルズが来日公演中。6月29日の真夜中にビートルズの四人は羽田空港に現れた。日航の法被を着てタラップを降り立ったのである。この模様はこの日のニュースとしてテレビで放送していたし、その日の新聞の第一面に写真付きで記事になっていた。考えてみれば凄いことだったんだなって今になってみるとそう感じてしまう。今なら外国のロック・ミュージシャンが来日したからって、新聞の一面で採り上げられることもないし、異常なまでの警備でファンが誰一人近づけないということはないだろう。まるで国賓かVIP並の扱われかただった。ただし日本公演にこぎ着けるまでには波乱の連続で、識者を含めての大騒動となったものである。
外国で熱狂的な演奏活動を行っていたビートルズが来日公演を行うと決まったのは何時頃だろうか。当時、ガキだった小生は知るところではない。あの頃は、小生よりも高校生だった姉の方がビートルズに熱狂していた頃だ。小生が本格的にビートルズを聴くようになったのはサージェント・ペパーズ以降だから、ビートルズの曲は知っていたものの姉ほど熱中していたというものでもない。それがついにビートルズの来日公演が決定した。今調べてみると日本公演が正式に決定したのは二ヶ月前で、日本武道館で行うと発表されたのが一ヶ月前のようだ。でも当時、館長だった正力松太郎が「ペートルなんとかいうのは何者だ? そんな連中に武道館を使わせるわけにはいかん」という記事がサンデー毎日に掲載されたのである。またテレビの『時事放談』で細川隆元と小汀利得が「こじき芸人に武道館を使わせてたまるか」と発言。さらに「夢の島(ゴミ処理場)で演れ」「騒いでいるのはキチガイ少女ども」と言ったので、それにファンが反発。右翼もビートルズ来日反対運動を起こしたのである。ビートルズを推すファンと対立する大人や政治家、識者、教育者、右翼団体を巻き込み、考えてみたらとんでもないビートルズ騒動だったことがうかがえる。結局は正力松太郎が政治家や右翼団体を説得。警察庁にも国を挙げて警備してくれるように長官を口説いたという。このあたり正力松太郎の中にどのような変化があったのだろうか。今となっては判らない。
当時、日本武道館理事長だった赤松宗徳が「武道の殿堂であり、青少年の心身育成の場である武道館の使用は再三お断りしたのですが、主催者側はもとより、英国側からも重ねて強い要請があり諸処の情勢を検討した結果、使用を許可することにしました」と発表。これでビートルズの日本武道館公演が決定したのである。このバックには正力松太郎が動いたのであろうが、この頃の識者たちはビートルズが海外でどうなっているのか皆目、判らなかったということが判る。また日本では一部の若者達が騒いでいるが、どういった音楽を演っているのかも知らない大人達は多かった。また、そういう時代であった。それが前年、大英帝国で勲章を貰ったとかで、とんでもない若者達らしいということが徐々に認識され始めたのである。これはもしかすると大指揮者のカラヤン以上の人気を誇っているミュージシャンだと言うことを大人達がわかり始めたというか、とにかく大変な連中が来日すると言うことで大騒ぎに発展してしまったようだ。
こうしてビートルズは来日し、物々しい警備の中でホテルへ直行。彼等はホテルへ缶詰状態。6月30日、7月1日、2日の計5回の公演で5万人を動員した。コンサートはアリーナ席に人を入れず、ステージの前にも警官、客席にも警官が陣取り、客席から立ち上がることも許されない今では考えられないコンサートとなった。一度だけテレビ放送があり、それを姉と二人で観ていたのを思い出す。司会がE・H・エリックで、前座にブルー・コメッツ、尾藤イサオやドリフターズ、内田裕也とかが出演したが、テレビではビートルズの経歴だとかが紹介された後、30分の演奏を全編ノーカットでテレビ中継したもので間にCMは一切入れなかった。曲目は
1 .Rock And Roll Music
2 .She's A Woman
3 .If I Needed Someone
4 .Day Tripper
5 .Baby's In Black
6 .I Feel Fine
7 .Yesterday
8 .I Wanna Be Your Man
9 .Nowhere Man
10 .Paperback Writer
11 .I'm Down
の11曲。ところで、このときの映像は生中継だと思っていたのだが、どうやら7月1日の昼の公演の録画を、その日の夜に中継したみたいである。
翌日、学校に行くとビートルズの演奏の中継を観たという連中が多く、これまでビートルズに興味がない女生徒まで観ていたから驚いた。実に視聴率は56%。30代の教師まで「あんなん観たのか」と扱き下ろしていながら観ていたというから呆れる。考えてみたら社会的現象だったなあと実感するしかないが、まだこの頃のビートルズは、さほど音楽的に認められていたのでもなく、実際にはこの夏に公演活動をやめて、レコーディング活動のみを行うと発表してから彼等の音楽性、芸術性が認められるようになったものである。しかし、その後、名マネージャーのブライアン・エプスタインが死去し、四人の間に隙間風が入り出すようになる。ただの音楽的アイドルバンドから段々とプロのミュージシャン仲間にも認められる存在となっていき、この1966年以降のビートルズは以前のビートルズとは明らかに違っていた。もうファンに追いまくられ、公演で泣き叫ぶ少女達。こういった映像から違った所謂、アーティスティックなミュージシャンへと脱皮していった。出すレコードがシングル盤、LP盤にかかわらず、どれもこれも実験音楽的な要素を含み色々な試みを繰り返す。この頃のビートルズから触発され、彼等の後追いをやり出したミュージシャンも数え切れない。謂わば後半期のビートルズはファンの前にこそ姿を現さないが、やることなすこと全てが革命的であったし音楽的に認められていったのである。ただ各個人の活動も目立ちだし、発言力も以前とは違っていた。ジョン・レノンなどは政治的発言を口にするようにもなるし、初期のビートルズとはなにかが違っていた。
四人の間に亀裂が入るようになり、1969年に入ってその兆候が始まり、秋にアルバム『アビィ・ロード』の録音が終わる。これ以降、四人が揃ってレコーディング・スタジオに集まることはなかった。1970年の春、ポール・マッカートニーが事実上の解散宣言をする。ちょうど巷では『Let It Be』が流行っていた。なんか切なく聴こえる。
考えてみれば、今から50年前の武道館公演。あれがビートルズの転換期でもあり、ロック・ミュージックや日本の音楽の転換期でもあったような気がする。あれ以降、日本ではグループ・サウンズが流行、武道館でのコンサートは当たり前になる。洋楽の分野でも、よりジャンルが細かくなり色々な系統の音楽が散見されるようになり、また活発化したものである。ちょうど戦後生まれの世代が20歳を前後になり、世界中にスチューデントパワーが吹き荒れた。古い価値観が壊されていき、新しい文化が芽生えていた。ちょうど日本ではそういった時期にビートルズが来日した。高度成長期であり新しい物がなんか新鮮に感じた。
今となっては懐かしいビートルズ来日騒動だが、当時、まだ古い価値観が世間を支配していた。
あれから50年。早いようで長かったような気もする。小生はまだビートルズの歌も真面に歌えないガキだったのだが、今や初老のおっさんだ。今、振り返ってみると時代背景も何もかも変わってしまった。取り巻く環境も変わってしまった。あの当時、エレキの音楽を聴くと不良のレッテルが貼られた。今はそんなことを言う人はいない。高校で軽音楽部がありみんながエレキギターを弾いていて大会もある時代だ。あの頃のことを若い人に言ってもしょうがない。ああいった時代だったのだと。それは戦時中を潜ってきた人が小生に戦争体験を語るのと同じことである。ただあの当時、大人達から煙たく思われ毛嫌いされたビートルズが、今じゃ、音楽の教科書に載り、ジョン・レノンの語録が本になり、今でもポール・マッカートニーの曲は聴き続けられているという現実がある。そういった事実を考えると。あの50年前のビートルズの来日公演は、商業音楽史上においては、とんでもない出来事だったんだなと痛感する思いである。
当時のニュース映像
ビートルズ公演を観た三島由紀夫と遠藤周作の感想
49年ぶりに武道館でコンサートをするポール・マッカートニー。何と2曲以外はビートルズ時代の曲ばかり演奏。最後の曲が『アビィ・ロード』B面最後の曲で”The End”で締めくくるとは。
外国で熱狂的な演奏活動を行っていたビートルズが来日公演を行うと決まったのは何時頃だろうか。当時、ガキだった小生は知るところではない。あの頃は、小生よりも高校生だった姉の方がビートルズに熱狂していた頃だ。小生が本格的にビートルズを聴くようになったのはサージェント・ペパーズ以降だから、ビートルズの曲は知っていたものの姉ほど熱中していたというものでもない。それがついにビートルズの来日公演が決定した。今調べてみると日本公演が正式に決定したのは二ヶ月前で、日本武道館で行うと発表されたのが一ヶ月前のようだ。でも当時、館長だった正力松太郎が「ペートルなんとかいうのは何者だ? そんな連中に武道館を使わせるわけにはいかん」という記事がサンデー毎日に掲載されたのである。またテレビの『時事放談』で細川隆元と小汀利得が「こじき芸人に武道館を使わせてたまるか」と発言。さらに「夢の島(ゴミ処理場)で演れ」「騒いでいるのはキチガイ少女ども」と言ったので、それにファンが反発。右翼もビートルズ来日反対運動を起こしたのである。ビートルズを推すファンと対立する大人や政治家、識者、教育者、右翼団体を巻き込み、考えてみたらとんでもないビートルズ騒動だったことがうかがえる。結局は正力松太郎が政治家や右翼団体を説得。警察庁にも国を挙げて警備してくれるように長官を口説いたという。このあたり正力松太郎の中にどのような変化があったのだろうか。今となっては判らない。
当時、日本武道館理事長だった赤松宗徳が「武道の殿堂であり、青少年の心身育成の場である武道館の使用は再三お断りしたのですが、主催者側はもとより、英国側からも重ねて強い要請があり諸処の情勢を検討した結果、使用を許可することにしました」と発表。これでビートルズの日本武道館公演が決定したのである。このバックには正力松太郎が動いたのであろうが、この頃の識者たちはビートルズが海外でどうなっているのか皆目、判らなかったということが判る。また日本では一部の若者達が騒いでいるが、どういった音楽を演っているのかも知らない大人達は多かった。また、そういう時代であった。それが前年、大英帝国で勲章を貰ったとかで、とんでもない若者達らしいということが徐々に認識され始めたのである。これはもしかすると大指揮者のカラヤン以上の人気を誇っているミュージシャンだと言うことを大人達がわかり始めたというか、とにかく大変な連中が来日すると言うことで大騒ぎに発展してしまったようだ。
こうしてビートルズは来日し、物々しい警備の中でホテルへ直行。彼等はホテルへ缶詰状態。6月30日、7月1日、2日の計5回の公演で5万人を動員した。コンサートはアリーナ席に人を入れず、ステージの前にも警官、客席にも警官が陣取り、客席から立ち上がることも許されない今では考えられないコンサートとなった。一度だけテレビ放送があり、それを姉と二人で観ていたのを思い出す。司会がE・H・エリックで、前座にブルー・コメッツ、尾藤イサオやドリフターズ、内田裕也とかが出演したが、テレビではビートルズの経歴だとかが紹介された後、30分の演奏を全編ノーカットでテレビ中継したもので間にCMは一切入れなかった。曲目は
1 .Rock And Roll Music
2 .She's A Woman
3 .If I Needed Someone
4 .Day Tripper
5 .Baby's In Black
6 .I Feel Fine
7 .Yesterday
8 .I Wanna Be Your Man
9 .Nowhere Man
10 .Paperback Writer
11 .I'm Down
の11曲。ところで、このときの映像は生中継だと思っていたのだが、どうやら7月1日の昼の公演の録画を、その日の夜に中継したみたいである。
翌日、学校に行くとビートルズの演奏の中継を観たという連中が多く、これまでビートルズに興味がない女生徒まで観ていたから驚いた。実に視聴率は56%。30代の教師まで「あんなん観たのか」と扱き下ろしていながら観ていたというから呆れる。考えてみたら社会的現象だったなあと実感するしかないが、まだこの頃のビートルズは、さほど音楽的に認められていたのでもなく、実際にはこの夏に公演活動をやめて、レコーディング活動のみを行うと発表してから彼等の音楽性、芸術性が認められるようになったものである。しかし、その後、名マネージャーのブライアン・エプスタインが死去し、四人の間に隙間風が入り出すようになる。ただの音楽的アイドルバンドから段々とプロのミュージシャン仲間にも認められる存在となっていき、この1966年以降のビートルズは以前のビートルズとは明らかに違っていた。もうファンに追いまくられ、公演で泣き叫ぶ少女達。こういった映像から違った所謂、アーティスティックなミュージシャンへと脱皮していった。出すレコードがシングル盤、LP盤にかかわらず、どれもこれも実験音楽的な要素を含み色々な試みを繰り返す。この頃のビートルズから触発され、彼等の後追いをやり出したミュージシャンも数え切れない。謂わば後半期のビートルズはファンの前にこそ姿を現さないが、やることなすこと全てが革命的であったし音楽的に認められていったのである。ただ各個人の活動も目立ちだし、発言力も以前とは違っていた。ジョン・レノンなどは政治的発言を口にするようにもなるし、初期のビートルズとはなにかが違っていた。
四人の間に亀裂が入るようになり、1969年に入ってその兆候が始まり、秋にアルバム『アビィ・ロード』の録音が終わる。これ以降、四人が揃ってレコーディング・スタジオに集まることはなかった。1970年の春、ポール・マッカートニーが事実上の解散宣言をする。ちょうど巷では『Let It Be』が流行っていた。なんか切なく聴こえる。
考えてみれば、今から50年前の武道館公演。あれがビートルズの転換期でもあり、ロック・ミュージックや日本の音楽の転換期でもあったような気がする。あれ以降、日本ではグループ・サウンズが流行、武道館でのコンサートは当たり前になる。洋楽の分野でも、よりジャンルが細かくなり色々な系統の音楽が散見されるようになり、また活発化したものである。ちょうど戦後生まれの世代が20歳を前後になり、世界中にスチューデントパワーが吹き荒れた。古い価値観が壊されていき、新しい文化が芽生えていた。ちょうど日本ではそういった時期にビートルズが来日した。高度成長期であり新しい物がなんか新鮮に感じた。
今となっては懐かしいビートルズ来日騒動だが、当時、まだ古い価値観が世間を支配していた。
あれから50年。早いようで長かったような気もする。小生はまだビートルズの歌も真面に歌えないガキだったのだが、今や初老のおっさんだ。今、振り返ってみると時代背景も何もかも変わってしまった。取り巻く環境も変わってしまった。あの当時、エレキの音楽を聴くと不良のレッテルが貼られた。今はそんなことを言う人はいない。高校で軽音楽部がありみんながエレキギターを弾いていて大会もある時代だ。あの頃のことを若い人に言ってもしょうがない。ああいった時代だったのだと。それは戦時中を潜ってきた人が小生に戦争体験を語るのと同じことである。ただあの当時、大人達から煙たく思われ毛嫌いされたビートルズが、今じゃ、音楽の教科書に載り、ジョン・レノンの語録が本になり、今でもポール・マッカートニーの曲は聴き続けられているという現実がある。そういった事実を考えると。あの50年前のビートルズの来日公演は、商業音楽史上においては、とんでもない出来事だったんだなと痛感する思いである。
当時のニュース映像
ビートルズ公演を観た三島由紀夫と遠藤周作の感想
49年ぶりに武道館でコンサートをするポール・マッカートニー。何と2曲以外はビートルズ時代の曲ばかり演奏。最後の曲が『アビィ・ロード』B面最後の曲で”The End”で締めくくるとは。
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