2017.12.18 (Mon)
ジョン・コルトレーンのこと
ジョン・コルトレーンのこと知ったのは20歳になる前の高校生の頃だったと思う。当時、ジャズをそんなに知っていた訳でもないのに、ときどきジャズ喫茶に通っていた。暗い中で黙々と紫煙が漂っていて独特の雰囲気があってロック喫茶とは明らかに違っていた様な気がする。主に社会人や大学生が多かったが、小生も大人ぶって通っていたのかな。ロック喫茶と違いインストの曲が多い。ヴォーカルのパンチのあるロック好きの連中はジャズが嫌いと言っている者が多く誘っても誰も来なかったのだがただ1人N君がジャズ好きだと知って一緒に行ったことがある。その彼はジョン・コルトレーンが好きだったのだ。当時の高校生にしては珍しい。
小生はどちらかというとマイルス・デイヴィスの方が好きだったが、彼はジョン・コルトレーンを中心に聴いていたのだ。そして彼の薫陶を受け小生もジョン・コルトレーンを次第に聴くようになっていた。彼によるともうコルトレーンはこの世の人ではないという。コルトレーンは1967年に亡くなっていたので小生がジャズ喫茶に通っていた頃は既に他界して3、4年は経ていたのだった。だから当時のラジオのジャズ番組(あまりなかったが)はコルトレーンをよく流していたように思う。またジャズ喫茶に行ってもコルトレーンの『至上の愛』をよく聴いたように感じる。また当時はジャズの王様ルイ・アームストロングが亡くなった時期であり自分の中でちょっとしたジャズブームがあったように記憶する。ちょうどビートルズが解散してビートルズ・ロスみたいなものがあったのだろう。ロックよりもジャズに一時期傾いていたのだ。
でも小生はマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、ハービー・マン、セロニアス・モンクを頻繁に聴いていたので不思議とスウィング・ジャズを聴いていなかった。つまりビッグバンドを聴くようになったのは後のことである。時代考証から行くと先にモダンジャズ、コンボジャズよりもスウィング・ジャズの方が古いのだが、小生の中では反対なのであった。だから曲は知っていてもデューク・エリントン、カウント・ベイシー、グレン・ミラー、ベニー・グッドマン辺りのビッグバンドを聴くようになったのは20歳過ぎてからになった。つまり先にコンボからジャズに入ったのでジャズって多くて5人ぐらいで演奏するものだと思っていたから、デューク・エリントン楽団が17.、8人で演奏する『A列車で行こう』の映像を初めて観たとき違和感を覚えたのである。所謂、これがモダンジャズの前に人気のあったスウィング・ジャズでありビッグバンドというものであった。でも戦後の日本で流行ったアメリカから来たジャズというものはこちらの方が主体であり、ヴォーカル付きの商業音楽でありダンス音楽のバックバンドというものの基本はビッグバンドだったのだ。それが少人数でヴォーカルがなくなり聴かせる音楽として飛翔していったのがモダンジャズだと聞いた時の驚きは隠せない。当時はビッグバンドとコンボは全く別の音楽だと認識していたから、ビッグバンド=スウィング・ジャズよりも後から出て来たのがコンボ・ジャズでありモダン・ジャズだと知るのだった。当時はジャズと言ってもただ聴くだけでそのなれそめだとか歴史とかを知っていたのでもないから無理もないが、ただ小生の中ではコンボ=ナイス、ビッグバンド=オジン臭いというのも何処かにあったのだろう。スウィング・ジャズを何処か敬遠していたように思う。それが歳をとるとともに何の関係もなしにビッグバンドを受け入れるようになっていったと思う。それはクラシックでオペラだけは敬遠していたが、いつの間にかオペラも盛んに観るよう聴くようになっていたというのと似ているが。
まあそういうことで若い頃はジョン・コルトレーンをよく聴いたもんだ。高校の頃コルトレーン・ファンのN君が言うのはコルトレーンが1966年の7月に来日してコンサートを何箇所かで行い行けなかったのは残念だと言った。其れを聞いて小生は驚いたのである。あんた幾つからコルトレーンのファンなんだと・・・・。小生もませている方だと思ったが彼はオレ以上だと。もっとも彼の父親がかなりのジャズ好きでよくジャズが家の中で流れていたという。なるほど。そういう家庭環境でないと小学生からジャズは聴かないでしょ。また彼は幼少の頃からピアノを習っていたがバイエルの練習とかに飽きてジャズの曲をよく弾いていたという。楽器が真面に弾けない小生とは音楽の素養が違うところだなあと思ったものだ。
ところでこのコルトレーンの最初で最後の来日公演を彼に聞くまで小生は全く知らなかった。それというのもその一週間前に華々しくビートルズの来日公演をマスコミが採り上げたからである。つまり外タレの公演をビートルズだけは華々しく報道したがマニアックなコルトレーンの来日公演は全くといって報道がなかった。もっともその頃、小生はコルトレーンのコの字も知らなかったから無理もない。当時、ジャズ界で知っている人ってルイ・アームストロングとグレン・ミラーとベニー・グッドマン、それとヴォーカルのナット・キング・コールぐらいだった。高校になるとジャズに興味を持ち一気に知識が増えたものだが、1966年当時なんてその程度の知識しか持ち合わせてなかった。
さてジョン・コルトレーンの話に戻ろうか。コルトレーンって第一線って言うか認められてジャズ界で活躍するのはほぼ10年ぐらいにしかならない。キャリアは長いのに・・・。つまりジャズメンの間でもなかなか頭角を現さなかった。最初はディジ・ガレスピーにつき、次はマイルス・デイヴィスと組むがクビ同然となる。そして拾ってくれた人がセロニアス・モンクと大物ばかり。そして再びマイルス・デイヴィスと一緒にバンドを組む。このときは前回と違いマイルスはコルトレーンの進歩に驚き押しも押されぬジャズ・サックス奏者と頭角をようやく現すのである。そして名盤『カインド・オブ・ブルー』の録音に参加。そして自らリーダーのバンドを結成。この頃はマッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・キャリソンといった面々と組み数々の収録をした。そしてコルトレーンはやげてフリージャズや無調音楽をやるようになりより難解になっていくが、小生はジャズって言語はコルトレーンの死後なくなったように思う。スタイルは継承されているが、実質にはジャズはより高度化しフュージョンやらなんやら説明がつかなくなっていった。そのジャズの最晩年期にジャズ界で一際、輝いたのがジョン・コルトレーンだと思う。結局、コルトレーンの命を縮めたとされる肝臓癌であるが、実際にはその前からヘロインを多用していてその副作用が一因にあると思える。でも僅か40歳で亡くなるとはもったいない。小生が盛んにコルトレーンを聴いていた頃、既にこの世の人ではなかったんだから。もうコルトレーンが死んでから50年、早いものだ。
小生はどちらかというとマイルス・デイヴィスの方が好きだったが、彼はジョン・コルトレーンを中心に聴いていたのだ。そして彼の薫陶を受け小生もジョン・コルトレーンを次第に聴くようになっていた。彼によるともうコルトレーンはこの世の人ではないという。コルトレーンは1967年に亡くなっていたので小生がジャズ喫茶に通っていた頃は既に他界して3、4年は経ていたのだった。だから当時のラジオのジャズ番組(あまりなかったが)はコルトレーンをよく流していたように思う。またジャズ喫茶に行ってもコルトレーンの『至上の愛』をよく聴いたように感じる。また当時はジャズの王様ルイ・アームストロングが亡くなった時期であり自分の中でちょっとしたジャズブームがあったように記憶する。ちょうどビートルズが解散してビートルズ・ロスみたいなものがあったのだろう。ロックよりもジャズに一時期傾いていたのだ。
でも小生はマイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーン、ハービー・マン、セロニアス・モンクを頻繁に聴いていたので不思議とスウィング・ジャズを聴いていなかった。つまりビッグバンドを聴くようになったのは後のことである。時代考証から行くと先にモダンジャズ、コンボジャズよりもスウィング・ジャズの方が古いのだが、小生の中では反対なのであった。だから曲は知っていてもデューク・エリントン、カウント・ベイシー、グレン・ミラー、ベニー・グッドマン辺りのビッグバンドを聴くようになったのは20歳過ぎてからになった。つまり先にコンボからジャズに入ったのでジャズって多くて5人ぐらいで演奏するものだと思っていたから、デューク・エリントン楽団が17.、8人で演奏する『A列車で行こう』の映像を初めて観たとき違和感を覚えたのである。所謂、これがモダンジャズの前に人気のあったスウィング・ジャズでありビッグバンドというものであった。でも戦後の日本で流行ったアメリカから来たジャズというものはこちらの方が主体であり、ヴォーカル付きの商業音楽でありダンス音楽のバックバンドというものの基本はビッグバンドだったのだ。それが少人数でヴォーカルがなくなり聴かせる音楽として飛翔していったのがモダンジャズだと聞いた時の驚きは隠せない。当時はビッグバンドとコンボは全く別の音楽だと認識していたから、ビッグバンド=スウィング・ジャズよりも後から出て来たのがコンボ・ジャズでありモダン・ジャズだと知るのだった。当時はジャズと言ってもただ聴くだけでそのなれそめだとか歴史とかを知っていたのでもないから無理もないが、ただ小生の中ではコンボ=ナイス、ビッグバンド=オジン臭いというのも何処かにあったのだろう。スウィング・ジャズを何処か敬遠していたように思う。それが歳をとるとともに何の関係もなしにビッグバンドを受け入れるようになっていったと思う。それはクラシックでオペラだけは敬遠していたが、いつの間にかオペラも盛んに観るよう聴くようになっていたというのと似ているが。
まあそういうことで若い頃はジョン・コルトレーンをよく聴いたもんだ。高校の頃コルトレーン・ファンのN君が言うのはコルトレーンが1966年の7月に来日してコンサートを何箇所かで行い行けなかったのは残念だと言った。其れを聞いて小生は驚いたのである。あんた幾つからコルトレーンのファンなんだと・・・・。小生もませている方だと思ったが彼はオレ以上だと。もっとも彼の父親がかなりのジャズ好きでよくジャズが家の中で流れていたという。なるほど。そういう家庭環境でないと小学生からジャズは聴かないでしょ。また彼は幼少の頃からピアノを習っていたがバイエルの練習とかに飽きてジャズの曲をよく弾いていたという。楽器が真面に弾けない小生とは音楽の素養が違うところだなあと思ったものだ。
ところでこのコルトレーンの最初で最後の来日公演を彼に聞くまで小生は全く知らなかった。それというのもその一週間前に華々しくビートルズの来日公演をマスコミが採り上げたからである。つまり外タレの公演をビートルズだけは華々しく報道したがマニアックなコルトレーンの来日公演は全くといって報道がなかった。もっともその頃、小生はコルトレーンのコの字も知らなかったから無理もない。当時、ジャズ界で知っている人ってルイ・アームストロングとグレン・ミラーとベニー・グッドマン、それとヴォーカルのナット・キング・コールぐらいだった。高校になるとジャズに興味を持ち一気に知識が増えたものだが、1966年当時なんてその程度の知識しか持ち合わせてなかった。
さてジョン・コルトレーンの話に戻ろうか。コルトレーンって第一線って言うか認められてジャズ界で活躍するのはほぼ10年ぐらいにしかならない。キャリアは長いのに・・・。つまりジャズメンの間でもなかなか頭角を現さなかった。最初はディジ・ガレスピーにつき、次はマイルス・デイヴィスと組むがクビ同然となる。そして拾ってくれた人がセロニアス・モンクと大物ばかり。そして再びマイルス・デイヴィスと一緒にバンドを組む。このときは前回と違いマイルスはコルトレーンの進歩に驚き押しも押されぬジャズ・サックス奏者と頭角をようやく現すのである。そして名盤『カインド・オブ・ブルー』の録音に参加。そして自らリーダーのバンドを結成。この頃はマッコイ・タイナー、エルヴィン・ジョーンズ、ジミー・キャリソンといった面々と組み数々の収録をした。そしてコルトレーンはやげてフリージャズや無調音楽をやるようになりより難解になっていくが、小生はジャズって言語はコルトレーンの死後なくなったように思う。スタイルは継承されているが、実質にはジャズはより高度化しフュージョンやらなんやら説明がつかなくなっていった。そのジャズの最晩年期にジャズ界で一際、輝いたのがジョン・コルトレーンだと思う。結局、コルトレーンの命を縮めたとされる肝臓癌であるが、実際にはその前からヘロインを多用していてその副作用が一因にあると思える。でも僅か40歳で亡くなるとはもったいない。小生が盛んにコルトレーンを聴いていた頃、既にこの世の人ではなかったんだから。もうコルトレーンが死んでから50年、早いものだ。
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