2ntブログ
2024年09月 / 08月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫10月

--.--.-- (--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
EDIT  |  --:--  |  スポンサー広告  |  Top↑

2013.08.05 (Mon)

メルヴィル『白鯨』を読む

 入院中にやはり病院内に蔵書されていたハーマン・メルヴィルの小説『白鯨』も読んだ。これも40年振りかな。そもそも中学生の時グレゴリー・ベック主演の映画『白鯨』を観たのが『白鯨』という小説を知るきっかけになったかな。それで大学生のころに原作のメルヴィル『白鯨』を読んだものだ。ただし当時は捕鯨の解説が多く、内容も暗くて面白くないなあという印象でしかなかった。そして再びこの歳になって読んでみた。『白鯨』は語り手としてイシュメイルと名乗る主人公が登場してくる。ちなみにイシュメイルとは旧約聖書に登場してくる人物で、アブラハムがその侍女に生ませた子であり、追い出されて荒野を行く無宿者の名である。この旧約聖書から名を拝借したのかメルヴィルは、陸上の生活に鬱勃たる不満を抱いて捕鯨の世界に向かうイシュメイルを語り手として小説を展開している。ついでにいうと船長のエイハブも旧約聖書のイスラエル王アハブから頂いたものである。

 物語は19世紀のアメリカの東部。ナンタケットという捕鯨基地にやってきたイシュメイルは南太平洋出身のクィークェグという巨漢の銛打ちと汐吹亭という木賃宿で知り合う。一見、野蛮人だがイシュメイルは入れ墨をしたこの奇怪な人物から、彼はキリスト教徒には発見できない真の人間愛を知る。彼等は捕鯨船のピークォッド号に乗り込み、クリスマスの日に運命的な航海に出発するが、その前に狂人のイライジャより破滅的な運命について警告を受ける。

 船長のエイハブは乗組員たちに彼の片脚を奪った白いマッコウクジラ、モービー・ディックへの憎悪を吹き込み、色々な手段で乗組員の魂を支配してしまう。エイハブは最初に白鯨を発見した者への賞金として金貨をメインマストに打ちつける。彼は太陽に嫉妬し、それへの挑戦として四分儀をたたきつけて壊し、船の位置を確かめ、進路を決定する自らの方法を考案する。エイハブは一等航海士で敬虔なキリスト教徒スターバックの白鯨
の追跡を中止しようという訴えをも退け、哀れなビップの願いにも耳をかさない。捕鯨船にはそれ以外、三等航海士フラスク、黒人の銛打ちダグー、アメリカ原住民のタシデゴ等、多様な人種が乗り込んでいたが、皆、モービー・ディックを仕留めることしか頭にないエイハブに従うしかなかった。しかし、なかなかモービー・ディックは姿を現さない。数年追いかけたのち、ようやく日本近海でモービー・デッィクを発見。ここから壮絶な闘いが始まる。

 ここでエイハブは彼の分身ともいえる悪魔のような銛打ちフェデラーを銛打ちに指名し白鯨モービー・ディックを追う。しかし3日間にわたる死闘はエイハブだけではなく、乗組員全体への破滅に終わる。結局、イシュメイルだけが生き残るのである。

 この小説は19世紀前半から中頃のアメリカにおける主要産業であった捕鯨業について空想とリアリズムを交えて語られているが、イシュメイルの見るところでは船長のエイハブは気が狂っている。過去に白いマッコウクジラ、モービー・ディックに片脚を食いちぎられ、復讐の鬼と化して乗組員にまで自分の執念を巻き込んだ末、彼ら全てまでを破滅に追い込んだ。結局、メルヴィルは一般的に言われるシェークスピア悲劇の小説化、悪が人間の外的環境よりは、その心の中に存在するとするホーソーンの象徴的表現に深い、恐ろしい道徳的真理を見い出したのではないか。メルヴィルはホーソーンを規範として、シェイクスピア悲劇の影響の下に捕鯨の物語を書きなおしたといいうことかもしれない。

 ハーマン・メルヴィルは19歳でリヴァプール航路の船に乗り込んでいるし、さらに捕鯨船アクシュネット号に乗り込んで南海に出航したりしている。また、その後、オーストラリアの捕鯨船ルーシー・アン号に乗る。そして、1843年24歳の時、またも捕鯨船に乗り込んでいる。こう言った体験から、メルヴィルに『白鯨』を書かせたのであろうが、メルヴィルはそれ以前にも、『タイピー』『レッド・バーン』『マーディ』『ホワイト・ジャケット』といった著作品がある。何れもこういった海洋物の作品であるが、『白鯨』には彼の人生観が現れているであろう。絶えず死と隣り合わせであると言った乗組員の追いつめられた生活の中で、メルヴィルは様々な人を船の中に登場させ、彼らがどのように思いどのように生き、そのように散って行ったのか。そして白鯨を原始的な自然力、または人間の運命の力の象徴ととらえ、それに立ち向かう人間の艱難に対して勇敢に挑戦する精神の寓話としてイシュメイルに語らせているように思える。

EDIT  |  09:38  |   |  TB(0)  |  CM(0)  |  Top↑

*Comment

コメントを投稿する

URL
COMMENT
PASS  編集・削除するのに必要
SECRET  管理者だけにコメントを表示
 

*Trackback

この記事のトラックバックURL

この記事へのトラックバック

 | BLOGTOP |