2013.12.23 (Mon)
ボブ・ディランのデビュー・アルバムを聴く
ボブ・ディランというと今や大御所。レコード・デビューして既に51年、現在72歳と言うからもうベテランの域を通り越している。でも知名度ほど日本で人気があるかと言うと・・・・・?? マニアックな人にしか受けないシンガーでありソングライターである。と言うと語弊があるかもしれないが、本国のアメリカと比較すると日本での人気はもう一つではないのではと思いつつ今日に至っている。そもそもデビューしたころからそうであるが、日本でボブ・ディランのことが知られるようになったのはボブ・ディランが書いた曲によってである。今のように時代の代弁者、プロテストソングの旗手として崇められていたというのでもなく、今から50年ほど前は一部の洋楽ファン(それもフォーク・ソングのファン)でしか、ボブ・ディランの名前は知られていなかったように思う。それが知られるようになったのは『風に吹かれて』が大ヒットしたからである。それによりボブ・ディランの名前が日本でも知られるようになったというものの、歌っていたのはピーター・ポール&マリーであって、ボブ・ディランの『風に吹かれて』がヒットしたのでもない。しかし、ソングライターとしてのボブ・ディランの名は知られるようになる。殊にその詩の内容が急進的で当時のアメリカの若者に支持されたのである。時は公民権運動が盛んだったころであり、時代の旗手として変わりつつあったアメリカで支持されたのである。それが日本ではどうかとなると、日本のフォーク・ソングはアメリカのフォーク・ソングをカバーすることから始まった。そして当時の日本の学生たちがアメリカで流行っていたフォーク・ソングの楽曲を歌い始めた。『花は何処へ行った』『500マイル』『グリーンフィールズ』『七つの水仙』『悲惨な戦争』『パフ』『虹と共に消えた恋』『レモン・トゥリー』等。
あの頃、あまり意味も判らず、ただ綺麗な曲を中心に日本の学生は歌っていたのだろう。特にPPM、キングストン・トリオ、ブラザース・フォアといったグループが歌うバージョンに人気があり、当時の日本の学生の大半が彼等のカバーをやっていた。ただ本来アメリカのフォーク・ソングと言うのはプロテスト・ソングとして始まりウディ・ガスリー、ピート・シーガーといった当時の大御所が築いた土台があり、それを受け継ぐような形で出てきたのがボブ・ディランであり、ジョーン・バエズだったような気がする。ただし日本のフォーク学生たちは、個人が歌うフォーク・ソングよりもグループが歌うバージョンをより多くカバーしたのである。何故なら日本はプロテスト・ソングとしてのフォーク・ソングの大きな要素である歌詞の内容よりか、ハーモニー、メロディといった音楽の美しい要素に影響を受け、日本でカレッジ・フォークとして流行っていった背景があるので、ギター一つでしわがれ声で朗々と歌い上げるボブ・ディランはもう一つ人気がなかったのだろう。何しろボブ・ディランが歌うと美しい曲でも美しく聞こえない欠点があった。でもプロテスト・ソングとして、新しい時代の代弁者として当時のアメリカでは支持されたのである。つまり歌詞の意味が直接伝わらない日本人には容易にボブ・ディランの凄味が理解できなかったかもしれない。それは今でもそうであろう。『ライク・ア・ローリング・ストーン』という曲の何処が良いのか判る日本人はどれだけいるだろうか。それほどボブ・ディランの曲と言うのには詩が重要であるということだなのである。もっともお坊ちゃん芸のようなものだった日本のカレッジ・フォークもその後に変わって行き、ボブ・ディランのような過激な歌詞を重要視したフォーク・シンガー(岡林信康、高田渡のような・・・)が何人か出てくるようにはなったが、これらに影響を与えたのが間違いなくボブ・ディランである。
しかし、ボブ・ディラン本人はそういった自分の詩が勝手に解釈され、運動の象徴として扱われたりすることを嫌い、次第にスタイルを変えていきエレクトリック・サウンドへと変遷するに至り、次第にプロテスト・ソングは消えていく。でもボブ・ディランの曲は『ミスター・タンブリンマン』『イフ・ノット・フォー・ユー』『くよくよするな』『いつまでも若く』等・・・・カバーされるなど、本人の意向とは違ってボブ・ディランの存在はフォーク界のみならずポップス界全体に与える影響力が段々と強くなっていく。そして72歳の今でもボブ・ディランは現役であるが、そんなボブ・ディランが最初に出したアルバムが当アルバムである。
このデビュー・アルバム『ボブ・ディラン』は1962年3月に発売されたがアメリカでも、ほとんど売れなかった。日本では当然、発売もされてない。ボブ・ディランのアルバムが日本で発売されたのは彼の名が浸透し出した1966年のことで、すでにデビューから4年が経過していたのである。つまりCDになってからボブ・ディランのアルバムがほとんど出回るようになったが、LP盤はほとんど日本ではリリースされなかった。ということは当時は幻のフォーク・シンガー扱いだったのである。名前はアメリカから轟いていたが、ボブ・ディランの曲はさほどラジオでも流れていなかったし、ベールに包まれているような感じだった。実際に私がボブ・ディランの2枚目のアルバム『フリー・ホイリーン』を買ったのはリリースされてから既に6年か7年経ってからのことだったのでよく覚えている。
さて、このアルバムであるが収録曲は13曲”You’re No Good””Talkin’ New York””In My Time Of Dyin’””Man Of Constant Sorrow””Fixin’ To Die””Pretty Peggy-O””Highway 51””Gospel Plow””Baby, Let me Follow You Down””House Of The Risin’ Sun ””Freight Train Blues ””Song To Woody””See That My Grave Is Kept Clean”でボブ・ディラン自身の曲は3曲しかない。あとは全てトラディショナルか他人の曲ばかり。まだボブ・ディランの本領は発揮されてなく、『朝日のあたる家』『死にかけて』を歌っていた20歳そこそこの頃の録音である。当時からボブ・ディランは美声ではなく故意にしわがれで声で歌っていたのだろうか、とても聴いていて一般受けしない歌い方をしている。しかし、このアルバムで存在感を示したのである。アメリカでも5000枚も売れたかどうかというところであり、一部の人には支持されたのであろう。ところがこのアルバムに収録されている『朝日のあたる家』を聴いたエリック・バートンが、自身のアニマルズのアルバムにカバー曲として収録したことは知れ渡っている。とにかく灰汁の強さはデビューからのもので、日本ではなかなか受け入れられなかったというのも納得せずにはいられない。しかし、このアルバムによりボブ・ディランは大御所としての第一歩を踏み出したのである。
"Talkin' New York"
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