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2014.01.26 (Sun)

ゼロ戦を考える

 ゼロ戦を考えるなんて大袈裟なタイトルだが、このところ百田尚樹の小説『永遠の0』が売れに売れ、映画の方も大ヒット。さらにいうならばスタジオ・ジブリの作品で宮崎駿最後の作品となるであろうアニメ映画『風立ちぬ』がゼロ戦の主任設計者である堀越二郎の話であることから、最近は何かにつけゼロ戦のことが話題になる。それで私としてもゼロ戦というとどうしても子供の頃の思い出として蘇ってくるのだった。当然、私は戦争を体験したのでもないし戦後世代だからゼロ戦の思い出と言っても直接あるわけでもない。ところが何故かゼロ戦というと子供のころの郷愁として懐かしくなってくるのだ。それはおそらく当時の少年向け漫画雑誌の影響であろう。
 私が字が読めるようになって漫画というものに夢中になったのは小学生に上がる頃である。当時は月刊誌、週刊誌共に数多くの漫画雑誌が出版されていた。そんな環境下で私は漫画を読んで育った世代である。それこそありとあらゆる種類の漫画を読んでいた。この辺りはアニメで育った私よりも後の世代とは大きく違っている。それでどういう訳か当時の漫画週刊誌にはよく太平洋戦争(最近は大東亜戦争と言う言い方が一般的になっているが敢えてここでは太平洋戦争で統一する)及び第二次世界大戦の特集を組んでいた。少年マガジンなんて表紙にまで戦艦長門や大和を載せていたぐらいだから・・・・・。どういう意図があったのか判らない。今なら子供に悪影響を与えるとか戦争を肯定するなんて批判が起きそうだが、当時は煩くなかったのかな。まだ10才未満の子供だった私には判りかねるが、そういったおおらかな時代だった。でも、まだ戦後20年もなってなくて戦争経験者が社会の中軸に居た時代なのに今から考えると不思議である。それで、そういった特集記事で第二次世界大戦がどのように行われたか、またどのような戦いだったかと言うのを知ることになるのだが、悲惨だとか凄惨を極めていたかということなど考えることもなく、ただ漠然と読んでいた。また同様に当時の漫画としても戦記物が多かったのも事実だ。
 『0戦はやと』辻なおき、『大空のサムライ』九里一平、『大空三四郎』吉田竜夫、『ゼロ戦レッド』貝塚ひろし、『忍者部隊月光』吉田竜夫、『紫電改のタカ』ちばてつや・・・・・・。これらは全て、第二次世界大戦が舞台になるのだが、不思議とゼロ戦のパイロットの話が多かった。ただ『大空のサムライ』は陸軍の加藤隼戦闘隊の話で、『紫電改のタカ』は紫電改のパイロットの話である。
 まあ、なんだかんだとこのような漫画雑誌で第二次世界大戦、太平洋戦争というものや戦艦大和、武蔵、ゼロ戦、隼、飛燕、月光、空母赤城、加賀、翔鶴、瑞鶴、飛龍、グラマン、ボーイングB-29、スピットファイア、メッサーシュミット、ノルマンディー上陸作戦、真珠湾攻撃、ガダルカナル島、原子爆弾等を知ることとなるのである。当時、深い意味も考えず読んでいた覚えがあるが、戦争の悲惨さよりも英雄的な描き方をしている話も多かった。それで当時、戦争の大義とか時代背景でこうなったとかのことはあまり書かれてなかったように思う。ただ人物を中心に描いていて、そんな中で戦争とはいけないものだという漠然とした考えで捉えていたというのが実情だと思う。もっとも私が色々なことを知るのは高校以降、より多くの書物を読むに当たり色々と考えさせらることになるのであるが・・・・・・・・。それで今回はゼロ戦の話である。
 今、上映中の映画『永遠の〇』でゼロ戦を知った女子高生がいると聞いて私は驚いたのである。もうそんな時代になったのだと・・・・。私がゼロ戦を知ったのは小学校に上がった頃の漫画雑誌でだが、今の漫画雑誌には第二次世界大戦のことを記事に載せるようなことはほとんどないから無理もない。時代も違っているから当然だ。今の高校生なら親の世代でも戦争体験がないから実際にどのような戦争であったかは体験者から直に聞くことはないだろう。そして、ゼロ戦のパイロットから多くの若者が神風特攻隊として散っていく現実を知って今の女子高生が涙することになった。もう70年以上前の話だ。でもまだ約70年ほど前の話なのだ。
 日本が焼け野原になって無条件降伏して復興。すっかり当時とは社会環境も時代背景も生活様式も様変わりしてしまった。この約70年で日本と言う国はひたすら平和で在り続け、他国からの攻撃も受けず戦禍も関係ない民主主義国家である。それもこれもあの敗戦からのトラウマがあったのかもしれない。もう過ちは犯さないと。それで戦争の悲惨さを後世に伝え、平和を保ち続けるのはいいことである。ただ、それは当然のこととして捉えるのではなく過去には、こういったお国のためにだとか天皇陛下様バンザイといった滅私奉公、皇国史観の精神と共に、このような死に方で消えていった多くの人がいたということと、それらの戦死者の礎で今日の日本という国家が存在するということはけして忘れてはならないということである。今の日本があるのも計り知れない壮絶な過去があっての話であるということ。それ故にもう同じ轍を踏まないと肝に銘じても、日本を戦争と言う愚かな行いからは避け続けてきたという現実は知っていてほしいいのである。
まず、何故、日中戦争、太平洋戦争に至るかの話なのだが、これは話し出すと文面が幾らあっても語れるものでもないので、これ等は自分自身でより多くの書物を読んでもらうしかない。それも一方向から読むのではなく多方面から書物は読んだ方がいい。そうでないと客観視出来ないからである。まあ、戦争に至るまでの話は割愛するとして、ゼロ戦が登場した経緯についてここでは書いてみたいと思う。

 ゼロ戦って何だと『永遠の0』を観て疑問を持つ子は多いだろう。ゼロ戦とは三菱零式艦上戦闘機の愛称である。そもそもゼロ戦が制作された経緯は次のようなものである。昭和12年に大日本帝国海軍が艦上戦闘機(航空母艦から発艦する戦闘機)を新しく開発してくれと三菱重工業と中島飛行機に依頼したのが始まりである。計画では十二式艦上戦闘機計画要求書として書かれてあって、それには長大な飛行距離と卓越した格闘性能を持つ戦闘機ということであり当時の技術では不可能とされた。それで中島飛行機側は「こんな過酷な要求では造れない」と辞退してしまう。ところが三菱の主任設計技師である堀越二郎は「ないものねだり」といいながらも設計に取り掛かり昭和14年4月に試作機が完成して岐阜県の各務原で初飛行したのである。そして翌、昭和15年の皇紀2600年に海軍の正式戦闘機として採用されたのである。名称は神武天皇即位から2600年に当たるということで下二桁の00の数字を名称として零式と呼ばれたのである。零式だから『れいしき』が正しいのだろうが、ゼロ式という呼び方も当時の日本人兵士には大勢いたのでゼロ戦と言う通り名称が一般化したのだろう。実際に坂井三郎というゼロ戦の名パイロットの著書『大空のサムライ』でもゼロとして使っているし、連合国側でもゼロファイターとして轟いていたからこの祭、ゼロで統一することにする。

【More・・・】

 さて、この零式艦上戦闘機ことゼロ戦は当時としては信じられない戦闘機だった。時速500km以上の速度で2000km以上の距離を燃料の補給なしに飛行し続けられるという。それに7.7㎜機関銃と20㎜機関砲を備えていて過去のどの戦闘機と比較しても格闘性能はずば抜けていた。こうして制作されたゼロ戦の初陣は昭和15年9月の日中戦争だった。中国の重慶で中国の空軍33機と対峙。対するゼロ戦は13機。撃墜は27機、ゼロ戦は損失が無しと言う快挙が生まれ、これによりゼロ戦の噂は一気に世界に広まったという。これで日本にはとてつもない性能を秘めた戦闘機が存在するということがアメリカやイギリスにも噂が広がったものの、まだ太平洋戦争勃発前で日本と連合国は交戦していなかったので、実際にアメリカ人はゼロ戦を見たわけでもなかった。それが避けられなくなった連合国側との太平洋戦争が昭和16年12月8日にハワイの真珠湾奇襲で始まることになる。戦争勃発当初、ゼロ戦は適機との空中戦でほぼ負けなかった。当時のアメリカの主要戦闘機であるグラマンF4Fワイルドキャットとの比較にしても、イギリスとの名戦闘機スピットファイアと比べても性能では断然勝っていて、殊にその航続力の長さにおいては西洋のどの戦闘機もを圧していた。当時、ドイツのメッサーシュミットはドーバー海峡を往復するのにも四苦八苦で、爆撃機の護衛も満足に果たせず燃料が切れてドーバー海峡で墜落したという話もあるし、スピットファイアがロンドンとベルリン間(約900㎞)を飛行して帰って来ることはあり得なかった。それは当然アメリカのワイルドキャットにもいえることであった。
 戦時中、フィリピンにいたマッカーサーはアメリカ空軍を潰しに来たゼロ戦がフィリピン近くの空母から飛んできたと思いこんでいて、実は台湾の基地から飛んできているとは信じなかったほどである。また空中戦能力に優れ、とうとうアメリカ側は昭和17年10月31日、ゼロ戦とけして格闘してはならないとパイロットに厳命し対峙した時は急降下(ゼロ戦は急降下に欠点があった)して逃げるように全パイロットへ指示している。謂わば開戦当初は無敵の戦闘機だったのである。まさか連合国側も日本人がここまで優れた戦闘機を短期間で用意していたとは思わなかったようである。それだけゼロファイターは恐れられたのである。それが昭和17年6月、アリューシャン列島のアクタン島に不時着した無傷のゼロ戦を鹵獲することにアメリカは成功し、ゼロ戦を徹底的に調べ上げる。すると旋回能力、上昇性能、航続性能は極めて優れているが、高速時の横転性能と急降下性能に問題があった。そして防御にも・・・・・・。

 ゼロ戦を制作するに当たり海軍の要求は厳しく堀越二郎は苦心した。それで海軍の要求に応える戦闘機を制作するにあたり戦闘能力と航続性能のある戦闘機を目指したのである。その結果小さなエンジン(空冷式栄エンジン、中島飛行機製、1000馬力)でスピードが出て、それでいて戦闘能力が高くて航続力がある戦闘機を造るには軽量化するしかなかったのである。そのため攻撃力に比較するとどうしても防御が弱くなったことは否めない、胴体内を補強する骨組みを1gでも軽くし強度を落し構造体に穴を開けたのである。そしてパイロットを守る操縦席の後方には防御壁ともいえる鉄板がなかったので、後ろから被弾するとパイロットは即死したのである。要するに徹底的に攻撃のみを追求された戦闘機であって防御のことは幾分疎かにされた感がある。何とも恐ろしいことだが、あの当時の海軍の戦闘精神というものは今の我々から見るととても考えられないところに存在しているのが判る。そういったギリギリのところで戦っていたのである。またゼロ戦はそういった腕と共に精神的にも強い名パイロットに支えられていたということである。
 だが戦局が進むにつれ物量攻勢をかけてくるアメリカ側の前に、やがて日本はだんだんと苦戦を強いられるようになる。ゼロ戦の欠点を見つけたアメリカは新鋭戦闘機をすぐに用意した。P-38ライトニング、グラマンF6Fヘルキャット、F4Uコルセア等でヘルキャットやコルセア等はゼロ戦の倍の2000馬力のエンジンを搭載していた。こうして開戦当初、ゼロ戦は連戦連勝であったが、アメリカの新鋭機の登場にやがて押されていくことになる。また日本の新鋭機の開発が後手を踏んだのも、ゼロ戦があまりにも名機であったがためなのであるが、ここから日本軍の戦局はますます不利になり、やがて神風特攻隊の登場となる。
 アメリカはゼロ戦の欠点をつかみ対抗すべき新鋭戦闘機を短期間で大量に戦線へ送り込んできた。こうなるとゼロ戦も空中戦で圧倒的有利とはいえなくなってきた。さらに戦局が進むと有能のパイロットも減り資材も困窮し段々と追いつめられていく。最早、完全に戦局はアメリカを含めた連合国側が圧倒していて、日本は後退を余儀なくされる。何れ本土決戦だとまで叫ばれるようになるのだが、この戦局の不利を打破せんとばかり無謀な特攻隊が組織されるのである。戦闘機に乗り敵艦に飛行機もろとも突撃と言う玉砕的な戦法をとる羽目となる。神風特別攻撃隊は昭和19年10月20日、大西瀧治郎海軍中将(終戦翌日の昭和20年8月16日割腹自決)により正式に編成される。この頃、優秀なパイロットの数も激減し新たにパイロットの育成も急務であったが、とても追いつかず飛行機を飛ばすのが精いっぱいの新米パイロットだけが増えていった。これではとても空中戦など望めない。大西は250㎏の爆弾を搭載したゼロ戦ごと敵艦に激突する特攻しかないと考えるようになっていた。こうして多くの若者が神風特別攻撃隊と言う名の下に海の藻屑へと散るようになったのである。まさに死への片道切符である。
 最初の特攻は10月27日に強行されそれなりの成果を上げた。しかしゼロ戦と言うのは空中戦を目的に制作された戦闘機で爆弾を搭載して機体が重くなった状態で急降下して海上すれすれのところで体当たりするようには製造されてない。明らかに使用目的から逸脱していたことは否めない。ここで体当たりするに至って敵艦まで到達せず高射砲によって海に散った数えきれないほどのゼロ戦もあった事は確かである。また、これによりまだ10代の多くの青年もその生涯を終えている事を考えると実に残念と言うしかないが、それほど日本は追い詰められていた。もう敗戦への道をまっしぐらであった。昭和20年に入り神風特攻隊は恐れられた。アメリカの兵士は恐れおののいたという。飛行機もろとも体当たりしてくるので止めようがない。「神風のパイロットは死を恐れないから怖い」というアメリカ兵の手記まで残っている。正確に言うと誰も死にたいなんて思ってない。出来るなら生き延びたいというのが心情である。それが許されない時代、まさに死と隣り合わせ、神風特攻隊の若者は、こんな異常事態、ギリギリの精神状態の中で生きていたのである。勇敢だなんて簡単に口にはできない。それすら口に出すのも申し訳ないという気になる。
 今からあの戦争について語るのは簡単だが、当時、渦中の真っ只中にあればいったいどのような精神状態におちいるのだろうか。明日には生きているかさえ分からない。任務が下った出撃が決まったということは、それは死を意味するのである。それこそ桜の花のようにパッと咲いてサッと散る。何とも切ない話であって言葉もない。でも、そういった神風特攻隊こそゼロ戦そのものの行く末であった。開戦当初はゼロファイターとして敵機に恐れられ、敵無し状態から日本の戦局が不利になるや、ゼロ戦は最後の手段として神風の玉砕戦法という方法でしか価値を見いだせなくなっていった。日本は新鋭戦闘機の開発も遅れ、物資も資源も枯渇し、一億玉砕なんてことまでいわれ、とうとう原爆二発を落されて無条件降伏。その当時、まだ燃料を積んでなくて飛んだ事のないゼロ戦もあったという。でも10000m上空を飛ぶB-29を迎撃出来る筈もなく絨毯爆撃にやられ放題。もう終戦間際にはゼロ戦の役目は終わっていたというしかない。つまりゼロ戦と言うのは日本そのものなのである。華々しくデビューしたが長期決戦なるにつれ徐々にその活躍も限られていき最後は一方的に撃たれまくった老兵のごとしで、時代に取り残されていったのだった。しかし、今でも第二次世界大戦中に登場した名機として歴史に名を残していて、世界中にゼロ戦のファンは今でも大勢いると聞く。




神風特別攻撃隊
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