2015.01.17 (Sat)
あれから20年
1995年1月17日午前5時46分、まだ周囲は暗かった。突然のように激しい揺れが襲った。かつて経験したことのない揺れだった。何がどうなっているのか判らなかった。どれぐらいの時間揺れていただろうか。どんでもなく長い時間に感じた。揺れがどうにか治まってから急いでテレビのスイッチを入れた。情報を得るためである。しかし停電でテレビはつかなかった。30分ほどするとスイッチを入れっぱなしにしていたからかテレビの画面が突然ついた。やはり地震のことを報道していた。そこで入った情報は震源は淡路島北部。それ以外は皆目わからなかった。朝6時半になり出勤する為に最寄りの駅に向かったのだが、電車が停まっていた。それで会社の方に電話を入れたのだが繋がらない。どうしようもなかった。しかたなく帰宅してテレビを観ていたら、神戸の映像が映されていて唖然となった。高速道路が横倒しになっている。線路がクネクネと波打っている。高架の車庫が落ちている。民家が軒並み潰れている。これは大変なことになったと思った。昼ごろに電車が動き出し、どうにか出勤したが全員が出勤できたわけではない。夜になって帰宅し、阪神地方の被害が大きいということを知り、そこから阪神地区に住む知り合いに片っ端から電話をしようと試みるも一向に繋がらなかった。当時はまだ携帯電話が普及していなかったので家の固定電話から電話するのだが不通だった。
テレビの報道はどの局も地震の報道ばかりで、その被害のすさまじさを伝えるが、友人や親類の安否は一向にわからない。あの年の1月17日と言うのは3連休明けの火曜日だった。こちらも連絡が一向につかないながら、日曜日になり数人の友人宅に直接向かおうと電車に乗った覚えがある。阪急電車は西宮北口までしか走っておらず、そこからは徒歩である。あたり一帯、酷い光景がそこには広がっていた。これが今、現実の姿なのだと認識すれど、とても受け止められるものでもなかった。民家は崩れ、マンションは1階が押しつぶされ電柱は倒れている。道路と言う道路は寸断され、しかたなく電車の走ってない線路の上を敷石を踏みながら歩いた。前を見ても後を見ても私と同様、水の入ったペットボトルや食料をつめたリュックを背負い、みんな黙々と歩いている。私も何キロ歩いたか覚えていない。とにかく電車もバスも走ってない。取り敢えず歩くしかなかった。芦屋に知り合いがいるので、その住所を頼って探しあてたが、知り合いは其処にはいなかった。家はひびが入っていた。ただ張り紙がしてあって、○○学校に避難しています。と書いてあった。こうして私は小学校に向かい、彼と出会ったことを思い出す。どうにか無事なようでなによりであったが、それ以外の知人、親類を捜さなければならない。でも徒歩では行くところは限られている。そこから私は神戸市東灘区の友人宅へ向かった。彼も近くの学校の体育館へ避難していたようだが会えなかった。結局、その日はそれぐらいにして帰宅した。もう1週間ほどしたころには、電話が繋がるようになったので、1人1人くまなく電話をしてものだが、相変わらず電話が繋がらない者もいた。後で判ったのだが、引っ越した者もいたようだ。でも知り合いは全員無事で何よりであったが、あの日のことは忘れられない。それまで当たり前だった光景が一瞬にして奪われる。なんとも恐ろしい話である。あれから20年、それを肝にして私は何事に対しても危機感を持って生きるようになったのだが・・・・・・・最近、あの当時の記憶が自分の中でも消えつつある。我々はもう20年かと思うだけが、被災者にはその20年がとてつもなく長く感じられたのでないだろうか。もう当時、生まれた子が大学生だから、だんだんと阪神淡路大震災の記憶が過去の物になっていきそうだ。だから、あれから20年という節目の日に、風化させないためにも思い出すように今日は綴ってみたまでである。
テレビの報道はどの局も地震の報道ばかりで、その被害のすさまじさを伝えるが、友人や親類の安否は一向にわからない。あの年の1月17日と言うのは3連休明けの火曜日だった。こちらも連絡が一向につかないながら、日曜日になり数人の友人宅に直接向かおうと電車に乗った覚えがある。阪急電車は西宮北口までしか走っておらず、そこからは徒歩である。あたり一帯、酷い光景がそこには広がっていた。これが今、現実の姿なのだと認識すれど、とても受け止められるものでもなかった。民家は崩れ、マンションは1階が押しつぶされ電柱は倒れている。道路と言う道路は寸断され、しかたなく電車の走ってない線路の上を敷石を踏みながら歩いた。前を見ても後を見ても私と同様、水の入ったペットボトルや食料をつめたリュックを背負い、みんな黙々と歩いている。私も何キロ歩いたか覚えていない。とにかく電車もバスも走ってない。取り敢えず歩くしかなかった。芦屋に知り合いがいるので、その住所を頼って探しあてたが、知り合いは其処にはいなかった。家はひびが入っていた。ただ張り紙がしてあって、○○学校に避難しています。と書いてあった。こうして私は小学校に向かい、彼と出会ったことを思い出す。どうにか無事なようでなによりであったが、それ以外の知人、親類を捜さなければならない。でも徒歩では行くところは限られている。そこから私は神戸市東灘区の友人宅へ向かった。彼も近くの学校の体育館へ避難していたようだが会えなかった。結局、その日はそれぐらいにして帰宅した。もう1週間ほどしたころには、電話が繋がるようになったので、1人1人くまなく電話をしてものだが、相変わらず電話が繋がらない者もいた。後で判ったのだが、引っ越した者もいたようだ。でも知り合いは全員無事で何よりであったが、あの日のことは忘れられない。それまで当たり前だった光景が一瞬にして奪われる。なんとも恐ろしい話である。あれから20年、それを肝にして私は何事に対しても危機感を持って生きるようになったのだが・・・・・・・最近、あの当時の記憶が自分の中でも消えつつある。我々はもう20年かと思うだけが、被災者にはその20年がとてつもなく長く感じられたのでないだろうか。もう当時、生まれた子が大学生だから、だんだんと阪神淡路大震災の記憶が過去の物になっていきそうだ。だから、あれから20年という節目の日に、風化させないためにも思い出すように今日は綴ってみたまでである。
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