2015.03.21 (Sat)
フィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』を読む
ニック・キャラウェイは大学卒業後に戦争に従軍し休戦ののち故郷へ帰って来た。そこで待ち受けていたのは否応もない孤独感。1920年代の狂乱の時代。ニックは証券会社で働くという口実をたてニューヨークへやってきて郊外に小さな家を借りるが、その隣が豪華な大邸宅で、これがジェイ・ギャツビーの住まいだった。ギャツビーは毎夜、豪華なパーティーを繰り広げていた。そんな或る日、ニックはギャツビーのパーティーに招かれる。ここでニックはパーティーに参加している多くの人がギャツビーに対して何も知らないし良くない噂ばかりを聞くのであったが、やがてニックはギャツビーの秘密を知ることとなる。ギャツビーは貧しい少尉の頃、ディジーと言う女性と愛しあっていた。それが、ギャツビーが第一次世界大戦でヨーロッパに出征している間に、ディジーはトムと言う大金持ちと結婚したのであった。ギャツビーは短絡的な男で金がディジーの心をとらえたものと思い、あらゆる手段で金持ちになり、わざわざディジーの屋敷と入り江を挟んで向かい合っているところに大邸宅を買い取り、このように毎晩パーティーを開いて、何とか関心をひき、愛を取り返そうと努めていたので、当然のように独身だった。
たまたまニックのまた従姉妹だった隣人のとりなしでギャツビーはディジーと再会する。単純なギャツビーは彼女に会うと、彼女の愛を取り戻したものと信じ切ってしまう。だが、或る夏の日、皆とニューヨークに出かけ、その帰り道にディジーが運転するギャツビーの車はトムの情夫をひき逃げし、ギャツビーがひき逃げしたものと思いこんだ情夫の夫はギャツビーを射殺してしまう。そしてギャツビーの葬式に姿も見せなかったディジーは夫と旅行に出かけてしまう。まさにギャツビーの愛は実にはかないものだった。 やがてニックはこうした東部の現実に嫌気をさい、中西部の故郷に帰っていく。
ジェイ・ギャツビーこそ、もっともアメリカ人らしい人物と言えるかもしれない。貧乏でせっせと働きアメリカン・ドリームを現実化させるが、ロマンティックで、ナイーヴでお人好し。かつての恋人が自分を捨てて他の男と結婚してしまったのに、それはただ富が彼女を盲目にさせたにすぎない。彼女の自分への愛は今も変わらないものと勝手に決め込んでいる。ニックが彼女にあまり多くを求めてはいけないし、過去は繰り返せないと言っても、ギャツビーは聞く耳を持たない。結局はディジーに見捨てられる。
この小説のストーリーは日本で言うと『金色夜叉』という明治時代の古い文学がすぐに思い出される。尾崎紅葉の『金色夜叉』は学生の間寛一の許嫁である鴫沢宮が、結婚を間近にして富豪の富山唯継のところへ嫁ぎ、激怒した寛一が熱海の海岸で宮に問い詰めるも本心を明かさないため宮を蹴り飛ばす。やがて寛一は復讐鬼と化し冷酷な高利貸しとなるものの宮もけして幸せではなかったという展開であった。
日米の話の展開の違いはあれど、その根底にあるのは同じようなもの。ただ言えることは恋愛の縺れというものは洋の東西に関わらず男がロマンティストであるのに女は何時も現実的であること。大概、このように描かれている。つまり男は別れた女性に未練を持っていても、女性の場合はあっさりと忘れるということか。これは普遍的なことなのかもしれないが、この21世紀になってますます、その傾向は強くなりつつあるようだ。だから小生は女性恐怖症なのかな???
たまたまニックのまた従姉妹だった隣人のとりなしでギャツビーはディジーと再会する。単純なギャツビーは彼女に会うと、彼女の愛を取り戻したものと信じ切ってしまう。だが、或る夏の日、皆とニューヨークに出かけ、その帰り道にディジーが運転するギャツビーの車はトムの情夫をひき逃げし、ギャツビーがひき逃げしたものと思いこんだ情夫の夫はギャツビーを射殺してしまう。そしてギャツビーの葬式に姿も見せなかったディジーは夫と旅行に出かけてしまう。まさにギャツビーの愛は実にはかないものだった。 やがてニックはこうした東部の現実に嫌気をさい、中西部の故郷に帰っていく。
ジェイ・ギャツビーこそ、もっともアメリカ人らしい人物と言えるかもしれない。貧乏でせっせと働きアメリカン・ドリームを現実化させるが、ロマンティックで、ナイーヴでお人好し。かつての恋人が自分を捨てて他の男と結婚してしまったのに、それはただ富が彼女を盲目にさせたにすぎない。彼女の自分への愛は今も変わらないものと勝手に決め込んでいる。ニックが彼女にあまり多くを求めてはいけないし、過去は繰り返せないと言っても、ギャツビーは聞く耳を持たない。結局はディジーに見捨てられる。
この小説のストーリーは日本で言うと『金色夜叉』という明治時代の古い文学がすぐに思い出される。尾崎紅葉の『金色夜叉』は学生の間寛一の許嫁である鴫沢宮が、結婚を間近にして富豪の富山唯継のところへ嫁ぎ、激怒した寛一が熱海の海岸で宮に問い詰めるも本心を明かさないため宮を蹴り飛ばす。やがて寛一は復讐鬼と化し冷酷な高利貸しとなるものの宮もけして幸せではなかったという展開であった。
日米の話の展開の違いはあれど、その根底にあるのは同じようなもの。ただ言えることは恋愛の縺れというものは洋の東西に関わらず男がロマンティストであるのに女は何時も現実的であること。大概、このように描かれている。つまり男は別れた女性に未練を持っていても、女性の場合はあっさりと忘れるということか。これは普遍的なことなのかもしれないが、この21世紀になってますます、その傾向は強くなりつつあるようだ。だから小生は女性恐怖症なのかな???
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