2015.06.14 (Sun)
幻の大投手・澤村栄治の映像が・・・・・
先日の11日夜、NHKの番組『クローズアップ現代』を観た。日頃はテレビは観ないのだが、この日は帰宅していてそのタイトルに興味が湧いてテレビのスイッチを入れた。タイトルは『よみがえる幻の日本シリーズ』である。何のことか最初は判らず、観ているとどうやら日本のプロ野球が始まった年の最初の日本一決定戦の映像が見つかったというのだ。それは東京洲崎球場での一戦。東京巨人軍VS大阪タイガースの試合。昭和11年12月11日の試合の映像で、僅か2分余りの映像だが観ていてぎょっとした。1人の投手の背中が映っている。背番号が14番。振りかぶって全力投球。なんと伝説の投手・澤村栄治ではないか。
これまで試合で投げている映像が残ってないとされ、僅かに正面から軽く投げている上半身の映像しか残ってなかった。それが一塁側から撮られた全力投球の模様がはっきりと見て取れる。これは神奈川県に住む主婦が、亡き父が昭和11年に撮ったとされる8ミリ映像に興味を持って、何気なく動画をインターネットでアップしたところ、これを観て驚いた人がいて、そこから幻の映像がこのほどNHKで放映されたということである。これまで他人に晒されることなくお蔵入りしていたのが、こうして大衆の前に幻の映像が公表されることとなり衝撃度は大きいと言える。
個人の趣味で8ミリを撮っていても、公に公開されることはなく、後年に個人の家で見つかって歴史的映像だと判明することは多々あるが、今回も全く同様である。その価値も判らない女の人が公開したことから発覚したという現実。映像と言うのは大変価値があり、まさに百聞は一見にしかずである。
澤村栄治。大正6年2月1日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)出身。京都商業に進み甲子園に3度出場。当時は無名校で打線が非力の中、強豪相手に孤軍奮闘。通算で3勝3敗。未完の大器の片鱗を見せる。その後、中退してベーブ・ルース、ゲーリッグを要する全米軍を相手に17歳の時、静岡の草薙球場での試合で9三振を奪う快投を演じ0対1で敗れる。これで澤村栄治の名は一躍広まることとなり、その後、職業野球に身を転じ大活躍するも昭和19年12月2日、太平洋戦争末期、東シナ海で輸送船に乗っていたところ潜水艦により撃沈。帰らぬ人となる。享年27歳。東京巨人軍に所属し通算105試合登板で63勝22敗。防御率1.74、554奪三振。ノーヒット・ノーラン3度と言う偉業を達成。戦後は本格派の投手に与えられる沢村賞が創設されるなど日本プロ野球史に輝く伝説の投手である。
ところで、この映像を見て意外だと思ったことがある。それは澤村栄治の投球フォームが思っていたことと違っていたこと。これまで残っていた写真では左足を大きく上げている写真が残されていて、ああいった投げ方をしているのかと思っていたのだが、この動画ではあまり足を上げず素早いモーションから右足で蹴り上げて右腕を振り下ろすというもの。
全く思っていたものとは違っていた。でも聞くところによると左足を大きく上げるときもあったらしい。だが普段はあまり足を上げなかったという。球速はかなり速かったらしいが、こればかりは今と比較のしようがない。小生の今は亡き親父が一度だけ、澤村栄治が試合で投げているのを観たことがあると言っていた。でも、その時は全盛期を過ぎていて、横から投げていてドロップ(大きな縦のカーブを当時はドロップと言った)が多かったらしい。これは戦争で召集され、手榴弾の投げ過ぎにより肩を壊し速い球が投げられなくなってからの澤村を親父は観たのだろうと思う。だから19歳の時の、全力投球をしている澤村英治の映像は希少価値なのである。いやはや世の中、何処にお宝映像が残っていることやら、映像と言うのは出来る限り残すべきであると思ったまでである。
ところで、この洲崎球場というのは江東区の埋立地にあり、当時は満潮になると球場が冠水するなど劣悪な球場だったらしい。よく、こんなところでプロ野球の日本一決定戦を行うものだと思うが、当時は職業野球と言って大学野球よりも低く見られていて、神宮球場等が使わしてもらえなかったのだろう。まさにプロ野球黎明期にはそういった苦労が多かったようである。でも時代は2.26事件があった昭和11年。きな臭い時代である。まさにこれから戦争へと突入していく時代。召集され澤村栄治が戦地へ行かなければならなかったというのは今思うと実に残念である。
尚、この映像は何時、消されるか判らないので今の間に観ておきましょう。
これまで試合で投げている映像が残ってないとされ、僅かに正面から軽く投げている上半身の映像しか残ってなかった。それが一塁側から撮られた全力投球の模様がはっきりと見て取れる。これは神奈川県に住む主婦が、亡き父が昭和11年に撮ったとされる8ミリ映像に興味を持って、何気なく動画をインターネットでアップしたところ、これを観て驚いた人がいて、そこから幻の映像がこのほどNHKで放映されたということである。これまで他人に晒されることなくお蔵入りしていたのが、こうして大衆の前に幻の映像が公表されることとなり衝撃度は大きいと言える。
個人の趣味で8ミリを撮っていても、公に公開されることはなく、後年に個人の家で見つかって歴史的映像だと判明することは多々あるが、今回も全く同様である。その価値も判らない女の人が公開したことから発覚したという現実。映像と言うのは大変価値があり、まさに百聞は一見にしかずである。
澤村栄治。大正6年2月1日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)出身。京都商業に進み甲子園に3度出場。当時は無名校で打線が非力の中、強豪相手に孤軍奮闘。通算で3勝3敗。未完の大器の片鱗を見せる。その後、中退してベーブ・ルース、ゲーリッグを要する全米軍を相手に17歳の時、静岡の草薙球場での試合で9三振を奪う快投を演じ0対1で敗れる。これで澤村栄治の名は一躍広まることとなり、その後、職業野球に身を転じ大活躍するも昭和19年12月2日、太平洋戦争末期、東シナ海で輸送船に乗っていたところ潜水艦により撃沈。帰らぬ人となる。享年27歳。東京巨人軍に所属し通算105試合登板で63勝22敗。防御率1.74、554奪三振。ノーヒット・ノーラン3度と言う偉業を達成。戦後は本格派の投手に与えられる沢村賞が創設されるなど日本プロ野球史に輝く伝説の投手である。
ところで、この映像を見て意外だと思ったことがある。それは澤村栄治の投球フォームが思っていたことと違っていたこと。これまで残っていた写真では左足を大きく上げている写真が残されていて、ああいった投げ方をしているのかと思っていたのだが、この動画ではあまり足を上げず素早いモーションから右足で蹴り上げて右腕を振り下ろすというもの。
全く思っていたものとは違っていた。でも聞くところによると左足を大きく上げるときもあったらしい。だが普段はあまり足を上げなかったという。球速はかなり速かったらしいが、こればかりは今と比較のしようがない。小生の今は亡き親父が一度だけ、澤村栄治が試合で投げているのを観たことがあると言っていた。でも、その時は全盛期を過ぎていて、横から投げていてドロップ(大きな縦のカーブを当時はドロップと言った)が多かったらしい。これは戦争で召集され、手榴弾の投げ過ぎにより肩を壊し速い球が投げられなくなってからの澤村を親父は観たのだろうと思う。だから19歳の時の、全力投球をしている澤村英治の映像は希少価値なのである。いやはや世の中、何処にお宝映像が残っていることやら、映像と言うのは出来る限り残すべきであると思ったまでである。
ところで、この洲崎球場というのは江東区の埋立地にあり、当時は満潮になると球場が冠水するなど劣悪な球場だったらしい。よく、こんなところでプロ野球の日本一決定戦を行うものだと思うが、当時は職業野球と言って大学野球よりも低く見られていて、神宮球場等が使わしてもらえなかったのだろう。まさにプロ野球黎明期にはそういった苦労が多かったようである。でも時代は2.26事件があった昭和11年。きな臭い時代である。まさにこれから戦争へと突入していく時代。召集され澤村栄治が戦地へ行かなければならなかったというのは今思うと実に残念である。
尚、この映像は何時、消されるか判らないので今の間に観ておきましょう。
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