2015.07.19 (Sun)
芥川龍之介の『トロッコ』を読む
何をいまさら短編の『トロッコ』を読むなんてタイトルでブログを書こうと思ったのかと思われる向きもあるだろう。文庫本にして僅かに8頁。実に短い小説である。もっとも芥川龍之介の小説と言うのにあまり長いのはないが。ところで、この国民的作家の短編小説『トロッコ』なんて小学生の読書感想文で課題にあがったりするぐらいだが、この短編小説を何故採り上げたかというと今、話題の人である又吉直樹が文学に嵌った最初の小説だということで採り上げてみた。
又吉直樹がこのほど芸人として初の芥川賞を受賞した。それも処女小説『火花』でいきなり受賞したのである。これには驚いたが素直に拍手を送りたい。そもそも私が又吉直樹の存在を強く意識したのは何年か前のNHKのテレビを観てからである。それは『仕事ハッケン伝』というドキュメンタリー番組で、今と違う仕事についていたらどんな人生を送っていただろうというコンセプトのもとに著名人が一企業に一週間入社し、特別待遇もなく一社員として体験を積むという番組であった。たまたまその時、小生はその番組を観ていて、その時の印象がとても強かったので、又吉直樹の名前を意識したのである。それは大手コンビニエンス・ストアで新商品のパスタ(弁当)を二つ売り出すためにキャッチコピーを考えるというものだった。彼は広告販促企画部に配属され、ミーティングにも参加し新しい商品を売り出すために苦心した挙句、プレゼンテーションで結果を残し見事、そのキャッチコピーで商品が店頭に並んだのである。確か「末っ娘が生まれました。かわいがってください」(双子です)というものだった。これは社員にも好評で、上司にもお墨付きをもらい見事に溶け込んでいた。
その時の印象で、この男、なかなか文案を考える才能があるなと思って注目していたのである。それまでも顔は知っていたが、なんか長い髪にあまり喋らない地味な芸人ぐらいにしか感じ取っていなかったのだが、これから印象が変わったというか、書店で彼が書いたという本を見つけた。それが『カキフライが無かったら来なかった』(せきしろとの共著)という自由律俳句と散文で構成されている書物だった。思わず手にとって立ち読みした。すると何時の間にか引き込まれていて、なかなか秀逸でこなれた文体を書くなと驚いたものである。すると今年の1月に、その又吉が純文学の雑誌『文学界』に小説を書き、それがいきなり増刷。単行本にもなりベストセラー。そしてそして芥川賞受賞。あれよあれよと何時の間にやら文壇に登場してしまった。その又吉直樹が中学校の教科書で『トロッコ』を読んでから文学と言うのは面白いと思い本を読むようになったという。彼は太宰治の大ファンで、かつて住んでいたところが、その昔・太宰治が住んでいたところだったと著書に書いているが、どうやら類は友を呼ぶで縁があったのだろう。ただ『人間失格』を読んで実に面白い小説だと思い、毎年正月には読むという。やっぱり感性が小生とは違うということか。これぐらいの繊細さがないと小説は書けないということかな。やっぱり小生のような凡人には判りかねます。
ところで『トロッコ』の何処が面白いと又吉少年が感じたのかと言うと『トロッコ』を読んで救われたという。読んだときに「めっちゃわかる」と感じたらしい。文学で感じた初めてのあるあるというか、自分しかわかりえないと思っていた感情を自分以外の他者が描いてくれていることへの感動があったというのだ。
『トロッコ』と言う小説は実に短い。良平が8歳の時、小田原~熱海間を走る軽便鉄道の敷設工事が始まり、良平は工事をしている土工がトロッコで土を運搬するのをたびたび見ていた。土工は土を載せて線路を下っていき平地に来ると土を捨て、今度は線路を押して登っていく。それを見て良平は自分も土工になりたいと思った。
2月のある日、良平は6歳の弟と弟と同じ年の少年と遊んでいて、土工がいないのを見計らって3人でトロッコを押してみた。押して登りトロッコに乗って線路を下って遊んでいると土工に見つかり怒鳴られてしまう。それ以来、良平はトロッコに触ることを避けていたが、10日ほど経つと、2人の若い男がトロッコを押していた。良平は「おじさん押してやろうか」というと「おお押してくよう」というので良平は嬉しくなって一緒に押した。
一緒になして押しているのが楽しかった。5、6町押すと下りになる。良平は土工と一緒にトロッコに乗った。風を切ってトロッコが下っていく。トロッコが平地で停まるとまた押すという繰り返し。
やがて雑木林を抜け海が見えるようになる。何時の間にか家から遠いところまで来てしまったことに気が付き、トロッコを押していても楽しくなくなってくる。次第と土工がもう帰ってくれればいいのにと思うようになる。さらに進むと一軒の茶店があった。土工はそこでお茶を飲み良平はイライラする。茶店から出てきた土工が駄菓子をくれたが、良平はあまり喜ぶことが出来なかった。さらにトロッコを押しすすむと、また茶店に出くわす。土工はまた茶店に入る。すでに日暮れにかかっていた。良平は帰ることばかり考えていた。
茶店から出てきた土工は良平に向かって俺たちはトロッコを押して行った先で停まるから「われはもう帰んな」と言われ良平はたった一人で帰っていく。泣きそうになるが泣いている場合ではないので、線路の上を走り出した。途中、貰った駄菓子まで捨てて良平は走った。行きと帰りでは風景が異なるため不安を感じないではいられない。良平は汗で濡れた着物が気になって羽織まで脱ぎ捨ててしまう。日が落ちいよいよ暗くなっていく。良平は焦って来る。次第に「命さえ助かれば」と思い、すべりながら躓きながらも走り続ける。やがて村はずれの見覚えのある工事現場が見えてきたときには泣きたくなったが泣かずに走った。村に帰ってきて良平を見た村人が「どうした」と声をかけたが良平は返事をせずに自宅へ急いだ。そして自宅に到着するなり良平は大声で泣き出す。泣き声を聞いて両親
がやってくる、さらに近所の人もやってくる。みんな、なんで泣いているのか聞くが良平はただ泣き続ける。
時が過ぎ、26歳の良平は妻子と東京にやって来た。現在は雑誌社で校正の仕事をしている。今でもあの時のことを思い出すことがある。思いだすのには理由がある筈だが理由はない。ただ塵労に疲れた彼の前には今でもやはり、その時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細々と一すじ断続している。
以上が『トロッコ』のあらすじであるが、僅かこれだけの話である。短編小説というのは盛り上がる前に終わってしまうといった難しさがあり、この短い間、小説の中に色々な思いを凝縮しなくてはならないので、長編よりも難しい部分がある。だから小生は短編が苦手なのだが、又吉少年は中学で、この『トロッコ』の各所に面白さ、興味深さを汲み取っている。やはり才能ある人は捉えどころが違う。
結局何だろう。少年の時に感じていたものが、大人になって感じなくなった。小生なんか屈折していて皮肉ばかりいっていた少年だったので、又吉少年のような鋭い繊細な感性は持ち合わせない。謂わば彼の敏感なレーダーが感じ取った微小な空気を小生は感じないのである。大長編で感動することはあったが、こういったごく短い短編でその面白さを体現出来ない小生にとっては、小説家に到底なり得ない感性しか持ち合わせてないと思った。それ故に又吉直樹が芥川賞を受賞したというのは偶然ではなく、彼が小説を書く上で既に持ち合わせていたものがこのほど具現化されただけに過ぎないのだといっていいだろう。いや才能を持った人は何処に埋もれているかわからないものである。ところで小生が『火花』を当然、読んだろうと思うだろうが、まだ読んでないのだ。小生はへそ曲がりであって、ブームの中には巻きこまれたくない。いずれブームが去って静かになってから密かに読もうと思っている。あしからず。
又吉直樹がこのほど芸人として初の芥川賞を受賞した。それも処女小説『火花』でいきなり受賞したのである。これには驚いたが素直に拍手を送りたい。そもそも私が又吉直樹の存在を強く意識したのは何年か前のNHKのテレビを観てからである。それは『仕事ハッケン伝』というドキュメンタリー番組で、今と違う仕事についていたらどんな人生を送っていただろうというコンセプトのもとに著名人が一企業に一週間入社し、特別待遇もなく一社員として体験を積むという番組であった。たまたまその時、小生はその番組を観ていて、その時の印象がとても強かったので、又吉直樹の名前を意識したのである。それは大手コンビニエンス・ストアで新商品のパスタ(弁当)を二つ売り出すためにキャッチコピーを考えるというものだった。彼は広告販促企画部に配属され、ミーティングにも参加し新しい商品を売り出すために苦心した挙句、プレゼンテーションで結果を残し見事、そのキャッチコピーで商品が店頭に並んだのである。確か「末っ娘が生まれました。かわいがってください」(双子です)というものだった。これは社員にも好評で、上司にもお墨付きをもらい見事に溶け込んでいた。
その時の印象で、この男、なかなか文案を考える才能があるなと思って注目していたのである。それまでも顔は知っていたが、なんか長い髪にあまり喋らない地味な芸人ぐらいにしか感じ取っていなかったのだが、これから印象が変わったというか、書店で彼が書いたという本を見つけた。それが『カキフライが無かったら来なかった』(せきしろとの共著)という自由律俳句と散文で構成されている書物だった。思わず手にとって立ち読みした。すると何時の間にか引き込まれていて、なかなか秀逸でこなれた文体を書くなと驚いたものである。すると今年の1月に、その又吉が純文学の雑誌『文学界』に小説を書き、それがいきなり増刷。単行本にもなりベストセラー。そしてそして芥川賞受賞。あれよあれよと何時の間にやら文壇に登場してしまった。その又吉直樹が中学校の教科書で『トロッコ』を読んでから文学と言うのは面白いと思い本を読むようになったという。彼は太宰治の大ファンで、かつて住んでいたところが、その昔・太宰治が住んでいたところだったと著書に書いているが、どうやら類は友を呼ぶで縁があったのだろう。ただ『人間失格』を読んで実に面白い小説だと思い、毎年正月には読むという。やっぱり感性が小生とは違うということか。これぐらいの繊細さがないと小説は書けないということかな。やっぱり小生のような凡人には判りかねます。
ところで『トロッコ』の何処が面白いと又吉少年が感じたのかと言うと『トロッコ』を読んで救われたという。読んだときに「めっちゃわかる」と感じたらしい。文学で感じた初めてのあるあるというか、自分しかわかりえないと思っていた感情を自分以外の他者が描いてくれていることへの感動があったというのだ。
『トロッコ』と言う小説は実に短い。良平が8歳の時、小田原~熱海間を走る軽便鉄道の敷設工事が始まり、良平は工事をしている土工がトロッコで土を運搬するのをたびたび見ていた。土工は土を載せて線路を下っていき平地に来ると土を捨て、今度は線路を押して登っていく。それを見て良平は自分も土工になりたいと思った。
2月のある日、良平は6歳の弟と弟と同じ年の少年と遊んでいて、土工がいないのを見計らって3人でトロッコを押してみた。押して登りトロッコに乗って線路を下って遊んでいると土工に見つかり怒鳴られてしまう。それ以来、良平はトロッコに触ることを避けていたが、10日ほど経つと、2人の若い男がトロッコを押していた。良平は「おじさん押してやろうか」というと「おお押してくよう」というので良平は嬉しくなって一緒に押した。
一緒になして押しているのが楽しかった。5、6町押すと下りになる。良平は土工と一緒にトロッコに乗った。風を切ってトロッコが下っていく。トロッコが平地で停まるとまた押すという繰り返し。
やがて雑木林を抜け海が見えるようになる。何時の間にか家から遠いところまで来てしまったことに気が付き、トロッコを押していても楽しくなくなってくる。次第と土工がもう帰ってくれればいいのにと思うようになる。さらに進むと一軒の茶店があった。土工はそこでお茶を飲み良平はイライラする。茶店から出てきた土工が駄菓子をくれたが、良平はあまり喜ぶことが出来なかった。さらにトロッコを押しすすむと、また茶店に出くわす。土工はまた茶店に入る。すでに日暮れにかかっていた。良平は帰ることばかり考えていた。
茶店から出てきた土工は良平に向かって俺たちはトロッコを押して行った先で停まるから「われはもう帰んな」と言われ良平はたった一人で帰っていく。泣きそうになるが泣いている場合ではないので、線路の上を走り出した。途中、貰った駄菓子まで捨てて良平は走った。行きと帰りでは風景が異なるため不安を感じないではいられない。良平は汗で濡れた着物が気になって羽織まで脱ぎ捨ててしまう。日が落ちいよいよ暗くなっていく。良平は焦って来る。次第に「命さえ助かれば」と思い、すべりながら躓きながらも走り続ける。やがて村はずれの見覚えのある工事現場が見えてきたときには泣きたくなったが泣かずに走った。村に帰ってきて良平を見た村人が「どうした」と声をかけたが良平は返事をせずに自宅へ急いだ。そして自宅に到着するなり良平は大声で泣き出す。泣き声を聞いて両親
がやってくる、さらに近所の人もやってくる。みんな、なんで泣いているのか聞くが良平はただ泣き続ける。
時が過ぎ、26歳の良平は妻子と東京にやって来た。現在は雑誌社で校正の仕事をしている。今でもあの時のことを思い出すことがある。思いだすのには理由がある筈だが理由はない。ただ塵労に疲れた彼の前には今でもやはり、その時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細々と一すじ断続している。
以上が『トロッコ』のあらすじであるが、僅かこれだけの話である。短編小説というのは盛り上がる前に終わってしまうといった難しさがあり、この短い間、小説の中に色々な思いを凝縮しなくてはならないので、長編よりも難しい部分がある。だから小生は短編が苦手なのだが、又吉少年は中学で、この『トロッコ』の各所に面白さ、興味深さを汲み取っている。やはり才能ある人は捉えどころが違う。
結局何だろう。少年の時に感じていたものが、大人になって感じなくなった。小生なんか屈折していて皮肉ばかりいっていた少年だったので、又吉少年のような鋭い繊細な感性は持ち合わせない。謂わば彼の敏感なレーダーが感じ取った微小な空気を小生は感じないのである。大長編で感動することはあったが、こういったごく短い短編でその面白さを体現出来ない小生にとっては、小説家に到底なり得ない感性しか持ち合わせてないと思った。それ故に又吉直樹が芥川賞を受賞したというのは偶然ではなく、彼が小説を書く上で既に持ち合わせていたものがこのほど具現化されただけに過ぎないのだといっていいだろう。いや才能を持った人は何処に埋もれているかわからないものである。ところで小生が『火花』を当然、読んだろうと思うだろうが、まだ読んでないのだ。小生はへそ曲がりであって、ブームの中には巻きこまれたくない。いずれブームが去って静かになってから密かに読もうと思っている。あしからず。
*Trackback
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
| BLOGTOP |