2018.05.27 (Sun)
サム・クックを聴く
昔にサム・クックという黒人歌手がいた。でも小生はこの人の現役時代に聴いたことがない。1964年に亡くなっているから当然だ。でもその翌年に亡くなったナット・キング・コールの『LOVE』はラジオで聴いたことあるので知っていた(日本語バージョンがあったんだが)。しかし、サム・クック自身の歌を聴いたことがない。ただし曲は知っていた。というよりもカバーによって後にサム・クックのことを知るのだが・・・・。
最初にサム・クックの曲を聴いたのはアニマルズが歌う『Bring It On Home To Me』によってである。このときは印象に残ったがサム・クックの曲だとは知らなかった。もっともアニマルズはカバー曲が多く黒人の曲を取り上げるのでもローリング・ストーンズと一緒で、イギリスのグループらしくなかった。ニーナ・シモンの曲も歌っていたが小生は当時、小学生である。アニマルズがオリジナルと思っていた。
次にサム・クックの曲を聴いたのはこれもハーマンズ・ハーミッツが歌う『Wonderful World』によってである。これも印象に残ったがサム・クックの曲だとは知らなかった。このハーマンズ・ハーミッツもカバー曲が多かったかな。当時はカバー曲が当たり前の時代だったけど良い曲は他のミュージシャンがカバーをよくしていて後代まで曲が残っていくものである。こういった曲でサム・クックのことを知るのである。でも日本ではサム・クックのことを取り上げることはほとんどなく小生も名前は聞いたことはあるが本人が歌っているのを聴いたのはその後、何年かしてからである。
最初に聴いたときは白人かと思ったほどで黒人特有の歌い方とは同様とは思わなかった。当時、音楽雑誌で初めて写真を見て若いなあと感じた。当たり前だ。亡くなったのが33歳だから早死になのである。フランク・シナトラの黒人版と言われてたそうである。1931年1月にミシシッピ州で生まれたがすぐにシカゴに移住。父が牧師だった関係から幼少から聖歌隊で歌い10代後半でゴスペルを歌うようになり19歳になってゴスペルのグループ、スターラーズのリードヴォーカルとして脚光を浴びる。その後にR&B転向してソロ歌手となる。これが1957年の頃でありプレスリーの全盛時代。でもサム・クックも人気があったそうだ。徐々に洗練された歌い方が評価され後代、白人の多くにカバーされる様になったからサム・クックの名前を知ることになるのだろう。でも実生活では公民権運動にも関わりマルコムXやモハメド・アリとも親交があったという。それで初めて写真を見たとき、ああこの人かと思ったものだ。歌よりも先に顔を知っていた・・・・。
たとえば彼が死んだ1964年に出した『A Change Is Gonna Come』はボブ・ディランの『風に吹かれて』に影響を受けて作ったメッセージソングと言われる。ただ1964年の12月、ロサンジェルスのモーテルで泥酔していた彼は発砲され死亡。33歳だったという。活躍期間は10年もなかった。でもこの頃から彼の曲をカバーするミュージシャンが急増。それで名前が日本にも轟くようになっていたのだろう。オーティス・レディング、アレサ・フランクリン等の黒人歌手は当然としても先ほど述べたアニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツのイギリスのグループがカバーで小生は曲と名前を知るようになった。その後にはなんとポール・マッカートニーやジョン・レノンまでが『Bring It On Home』歌っているし、面白いところではアート・ガーファンクルが『Wonderfull World』を歌っている。日本ではウルフルズが『ワンダーフル・ワールド』をカバー。彼等が歌っているのを聴いてこの曲を知ったという若い人も多いだろう。このときは面白い日本語で一部歌っていた。英語の歌詞に発音が似ていてなんだか面白いと感じたものだ。
Don't know much about history
Don't know much biology
サム・クックの原曲はこうなんだがウルフルズは
どの街まで行けば君に会えるだろう
どの街を歩けば君に会えるだろう
と歌っている。Don’t know muchが日本語ではどの街に聞こえるからな。ということで、そろそろお終いにしたいが、正直言ってサム・クックの曲を聴くようになったのはCD時代になってアルバムの輸入盤を店頭で見つけてからである。アナログ時代はさほどサム・クックのアルバムを見かけることも少なかったしたとえ見つけてもLP盤は高価で買えなかっただろうけど。
Bring It On Home To Me
Wonderful World
最初にサム・クックの曲を聴いたのはアニマルズが歌う『Bring It On Home To Me』によってである。このときは印象に残ったがサム・クックの曲だとは知らなかった。もっともアニマルズはカバー曲が多く黒人の曲を取り上げるのでもローリング・ストーンズと一緒で、イギリスのグループらしくなかった。ニーナ・シモンの曲も歌っていたが小生は当時、小学生である。アニマルズがオリジナルと思っていた。
次にサム・クックの曲を聴いたのはこれもハーマンズ・ハーミッツが歌う『Wonderful World』によってである。これも印象に残ったがサム・クックの曲だとは知らなかった。このハーマンズ・ハーミッツもカバー曲が多かったかな。当時はカバー曲が当たり前の時代だったけど良い曲は他のミュージシャンがカバーをよくしていて後代まで曲が残っていくものである。こういった曲でサム・クックのことを知るのである。でも日本ではサム・クックのことを取り上げることはほとんどなく小生も名前は聞いたことはあるが本人が歌っているのを聴いたのはその後、何年かしてからである。
最初に聴いたときは白人かと思ったほどで黒人特有の歌い方とは同様とは思わなかった。当時、音楽雑誌で初めて写真を見て若いなあと感じた。当たり前だ。亡くなったのが33歳だから早死になのである。フランク・シナトラの黒人版と言われてたそうである。1931年1月にミシシッピ州で生まれたがすぐにシカゴに移住。父が牧師だった関係から幼少から聖歌隊で歌い10代後半でゴスペルを歌うようになり19歳になってゴスペルのグループ、スターラーズのリードヴォーカルとして脚光を浴びる。その後にR&B転向してソロ歌手となる。これが1957年の頃でありプレスリーの全盛時代。でもサム・クックも人気があったそうだ。徐々に洗練された歌い方が評価され後代、白人の多くにカバーされる様になったからサム・クックの名前を知ることになるのだろう。でも実生活では公民権運動にも関わりマルコムXやモハメド・アリとも親交があったという。それで初めて写真を見たとき、ああこの人かと思ったものだ。歌よりも先に顔を知っていた・・・・。
たとえば彼が死んだ1964年に出した『A Change Is Gonna Come』はボブ・ディランの『風に吹かれて』に影響を受けて作ったメッセージソングと言われる。ただ1964年の12月、ロサンジェルスのモーテルで泥酔していた彼は発砲され死亡。33歳だったという。活躍期間は10年もなかった。でもこの頃から彼の曲をカバーするミュージシャンが急増。それで名前が日本にも轟くようになっていたのだろう。オーティス・レディング、アレサ・フランクリン等の黒人歌手は当然としても先ほど述べたアニマルズ、ハーマンズ・ハーミッツのイギリスのグループがカバーで小生は曲と名前を知るようになった。その後にはなんとポール・マッカートニーやジョン・レノンまでが『Bring It On Home』歌っているし、面白いところではアート・ガーファンクルが『Wonderfull World』を歌っている。日本ではウルフルズが『ワンダーフル・ワールド』をカバー。彼等が歌っているのを聴いてこの曲を知ったという若い人も多いだろう。このときは面白い日本語で一部歌っていた。英語の歌詞に発音が似ていてなんだか面白いと感じたものだ。
Don't know much about history
Don't know much biology
サム・クックの原曲はこうなんだがウルフルズは
どの街まで行けば君に会えるだろう
どの街を歩けば君に会えるだろう
と歌っている。Don’t know muchが日本語ではどの街に聞こえるからな。ということで、そろそろお終いにしたいが、正直言ってサム・クックの曲を聴くようになったのはCD時代になってアルバムの輸入盤を店頭で見つけてからである。アナログ時代はさほどサム・クックのアルバムを見かけることも少なかったしたとえ見つけてもLP盤は高価で買えなかっただろうけど。
Bring It On Home To Me
Wonderful World
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